自分が何をしていれば楽しいのかがわからなければ 他人との比較でしか自分の価値を測ることができなくなり 結果的に評価承認欲求中毒にならざるを得ない
他人との比較競争に明け暮れていても 本当に望んでいることではないため ストレスは解消せず エタノールだのニコチンだので脳を麻痺させなければならず
「俺の方が物質的に豊かで優位だ」という外見的な価値観でしか幸福を測ることができなくなる
だから「他人からの見た目」を「自意識」と勘違いしている
自分が何をしていれば楽しいのかを知っていれば 他人との比較には意味がなくなる
そもそも快楽満足(脳内麻薬の量)は他人とは比較できないものであり 個人的なものに過ぎず 楽しいとか充実しているといった主観は競争にはならない
他人に迷惑をかける者というのは 他人との比較で優位に立つことしか頭(意識)にないため 純粋に楽しむということができずに我慢というものができなくなる
かくいう私でも 写真を撮ろうとしている時に被写体の前を他人に横切られると「イラッ」とすることはある あるが 別に怒鳴ったりはしない 顔に出てしまってはいるかも知れないが あくまで個人的な楽しみに過ぎないので 他人に何かを強要してまで遂行することではないからだ
自分だって無意識に他人の楽しみの邪魔になっていることもあるかも知れないし これはお互い様だと思っていれば 「イラッ」とはしても怒鳴り散らしてどけようとまでは思わない
ところが 他人との比較競争ばかりに意識を奪われている承認欲求中毒の場合 本当は好きで写真を撮っているわけではなく あくまで「多数他人から評価をされること」が目的であるため 純粋に楽しむことも 他人の行動にも 迷惑にも配慮が効かず 野良犬のように怒鳴り散らすのである
精神に余裕がないのだ
精神が貧しいため 何をしても満たされることがなく あらゆる出来事がストレスになっているため 他人に八つ当たりをする形で怒鳴り散らすのである
思い通りにいかないなら どうやったら思い通りになるかを「工夫」する 試行錯誤するだけの意欲とか粘り強さはなく 短絡的に自分の主観的な感情が行動に直結してしまうのである
目の前の事にしか意識が働かないのは チンパンジーと同じである
チンパンジーは目の前のことしか興味がない
だから 他人にとっても利益になることで社会全体が潤い 結果的に自分のためにもなるという統合的な観点は働かないのである
自分が好きなことを続けられるのは 社会が安全で持続可能だからであって 好きなことを続けるためには社会が安全で持続可能でなければ困るから 公益的視点や自律的な社会的責任判断に則った行動選択もできるようになるのである
決して私自身が先天的に「人間として優れている」わけでは断じてない
私は 学生時代に学力成績に酷くムラがあったため 何の努力もしなくても成績が良い科目もあれば どんなに頑張って努力しても全く成績が伸びない科目もあったのだが
教師からは結果的な数値成績だけを基準に「よく頑張ったわね」とか 「努力が足りない」などと勝手な評価しかされなかったため 他人の評価なんぞ真実とは無関係であることを嫌と言うほど思い知らされたのである
実際に 世間的評価なんぞ 論理客観的な根拠は何もなく ただの流行りや外見的な雰囲気だけでデマでも嘘でもペテンでも構わないのである
それで真実が見極められるわけもなく 当然社会安全性も持続可能性にも糞の役にも立たない「大衆迎合」にしかならない
大衆迎合は金儲けにはなるだろうが そんな利己的利益を追求しても個人的な楽しみとも 社会安全性とも無関係なのである
世間一般の大衆にとっては 利己的金儲けにとって有利な話には飛びつくが それは「エサに群がるハイエナ」のような行動であって 賤しいケダモノに良く似ている
ヒトの行動の選択肢には様々なものがある
選びたい放題にいろいろある
複数の分岐がある道の 目先の利益を基準に選択するか それともその道の先 遠くにある「目的」を基準に選ぶか そこに人間性が現れるのである
目先の旨そうなエサにつられ その行き先が暴走破綻である可能性にまで配慮が働かないバカだけなら 人類は破綻にしか至らない
「旨そう」なエサが本当に自分のためになるのかどうかも 本当はわかったものではなく 高血圧で塩中毒になったり 高脂血症や糖尿病などの生活習慣病に陥って苦しむかも知れないのである
目先の主観的好き嫌いだけで行動していれば 人間としての社会的責任も 本当に望んだ結末も得ることはできなくなる
本当に個人的に好きなことを続けようと思えば 体調管理もできるし 社会全体への配慮もできるようになる
その「意識の広さ」にこそ 人間性が働くのであって 人間性というものは先天的に決定している遺伝的なものではない
ヒトという種の生物でありさえすれば 自動的自然に人間性が発揮されるようなものではなく 物事をどう認識するのか その違いを作るのが客観性や論理検証性なのである
「絶対に知覚することができない」とされる実証不能の謎の叡智界なんぞを鵜呑みにしていた方が気分が良いのかもしれないが それこそが「目先のエサ」につられてペテンを鵜呑みにする頭の悪さの原因である
ヒトの多くは目先の主観的「印象」だけで物事を判断しがちだが 自分の主観的「印象」に 絶対に錯覚が含まれないと思っていること自体が傲慢さの原因である
自分の感覚を疑うことは 慣れないと不安を感じるのかも知れないが 主観が作り上げる錯覚に惑わされて真実が見えなくなることの危険性の方を 本当は「怖れ」なくてはならない
洗脳状態のカルト宗教の信者のように 何の疑いも持たずに盲目になっている方が安心で満足なのかも知れないが それこそが客観的真実からの逃避を促される原因であることを 自ら「気付く」必要がある
ヒトは誰も深く考えて「いいね」ボタンを押しているわけではない
その場限りに楽しいとか 面白いだけで押しているのであって 本当に深く物事を考えて他人を評価しているわけではない
だって 自分が「いいね」ボタンを押す時に そんなに深い思慮なんぞしてないだろ だったら多数他人の「いいね」ボタンの数だってさしたる価値はない
Ende;