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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

評価の価値

2021年08月22日 21時27分40秒 | 意識論関連

自分が何をしていれば楽しいのかがわからなければ 他人との比較でしか自分の価値を測ることができなくなり 結果的に評価承認欲求中毒にならざるを得ない

他人との比較競争に明け暮れていても 本当に望んでいることではないため ストレスは解消せず エタノールだのニコチンだので脳を麻痺させなければならず

「俺の方が物質的に豊かで優位だ」という外見的な価値観でしか幸福を測ることができなくなる

だから「他人からの見た目」を「自意識」と勘違いしている

 

自分が何をしていれば楽しいのかを知っていれば 他人との比較には意味がなくなる

そもそも快楽満足(脳内麻薬の量)は他人とは比較できないものであり 個人的なものに過ぎず 楽しいとか充実しているといった主観は競争にはならない

他人に迷惑をかける者というのは 他人との比較で優位に立つことしか頭(意識)にないため 純粋に楽しむということができずに我慢というものができなくなる

かくいう私でも 写真を撮ろうとしている時に被写体の前を他人に横切られると「イラッ」とすることはある あるが 別に怒鳴ったりはしない 顔に出てしまってはいるかも知れないが あくまで個人的な楽しみに過ぎないので 他人に何かを強要してまで遂行することではないからだ

自分だって無意識に他人の楽しみの邪魔になっていることもあるかも知れないし これはお互い様だと思っていれば 「イラッ」とはしても怒鳴り散らしてどけようとまでは思わない

ところが 他人との比較競争ばかりに意識を奪われている承認欲求中毒の場合 本当は好きで写真を撮っているわけではなく あくまで「多数他人から評価をされること」が目的であるため 純粋に楽しむことも 他人の行動にも 迷惑にも配慮が効かず 野良犬のように怒鳴り散らすのである

精神に余裕がないのだ

精神が貧しいため 何をしても満たされることがなく あらゆる出来事がストレスになっているため 他人に八つ当たりをする形で怒鳴り散らすのである

思い通りにいかないなら どうやったら思い通りになるかを「工夫」する 試行錯誤するだけの意欲とか粘り強さはなく 短絡的に自分の主観的な感情が行動に直結してしまうのである

目の前の事にしか意識が働かないのは チンパンジーと同じである

チンパンジーは目の前のことしか興味がない

だから 他人にとっても利益になることで社会全体が潤い 結果的に自分のためにもなるという統合的な観点は働かないのである

自分が好きなことを続けられるのは 社会が安全で持続可能だからであって 好きなことを続けるためには社会が安全で持続可能でなければ困るから 公益的視点や自律的な社会的責任判断に則った行動選択もできるようになるのである

決して私自身が先天的に「人間として優れている」わけでは断じてない

 

私は 学生時代に学力成績に酷くムラがあったため 何の努力もしなくても成績が良い科目もあれば どんなに頑張って努力しても全く成績が伸びない科目もあったのだが

教師からは結果的な数値成績だけを基準に「よく頑張ったわね」とか 「努力が足りない」などと勝手な評価しかされなかったため 他人の評価なんぞ真実とは無関係であることを嫌と言うほど思い知らされたのである

実際に 世間的評価なんぞ 論理客観的な根拠は何もなく ただの流行りや外見的な雰囲気だけでデマでも嘘でもペテンでも構わないのである

それで真実が見極められるわけもなく 当然社会安全性も持続可能性にも糞の役にも立たない「大衆迎合」にしかならない

大衆迎合は金儲けにはなるだろうが そんな利己的利益を追求しても個人的な楽しみとも 社会安全性とも無関係なのである

世間一般の大衆にとっては 利己的金儲けにとって有利な話には飛びつくが それは「エサに群がるハイエナ」のような行動であって 賤しいケダモノに良く似ている

 

ヒトの行動の選択肢には様々なものがある

選びたい放題にいろいろある

複数の分岐がある道の 目先の利益を基準に選択するか それともその道の先 遠くにある「目的」を基準に選ぶか そこに人間性が現れるのである

目先の旨そうなエサにつられ その行き先が暴走破綻である可能性にまで配慮が働かないバカだけなら 人類は破綻にしか至らない

「旨そう」なエサが本当に自分のためになるのかどうかも 本当はわかったものではなく 高血圧で塩中毒になったり 高脂血症や糖尿病などの生活習慣病に陥って苦しむかも知れないのである

目先の主観的好き嫌いだけで行動していれば 人間としての社会的責任も 本当に望んだ結末も得ることはできなくなる

本当に個人的に好きなことを続けようと思えば 体調管理もできるし 社会全体への配慮もできるようになる

その「意識の広さ」にこそ 人間性が働くのであって 人間性というものは先天的に決定している遺伝的なものではない

ヒトという種の生物でありさえすれば 自動的自然に人間性が発揮されるようなものではなく 物事をどう認識するのか その違いを作るのが客観性や論理検証性なのである

「絶対に知覚することができない」とされる実証不能の謎の叡智界なんぞを鵜呑みにしていた方が気分が良いのかもしれないが それこそが「目先のエサ」につられてペテンを鵜呑みにする頭の悪さの原因である

 

ヒトの多くは目先の主観的「印象」だけで物事を判断しがちだが 自分の主観的「印象」に 絶対に錯覚が含まれないと思っていること自体が傲慢さの原因である

自分の感覚を疑うことは 慣れないと不安を感じるのかも知れないが 主観が作り上げる錯覚に惑わされて真実が見えなくなることの危険性の方を 本当は「怖れ」なくてはならない

洗脳状態のカルト宗教の信者のように 何の疑いも持たずに盲目になっている方が安心で満足なのかも知れないが それこそが客観的真実からの逃避を促される原因であることを 自ら「気付く」必要がある

ヒトは誰も深く考えて「いいね」ボタンを押しているわけではない

その場限りに楽しいとか 面白いだけで押しているのであって 本当に深く物事を考えて他人を評価しているわけではない

だって 自分が「いいね」ボタンを押す時に そんなに深い思慮なんぞしてないだろ だったら多数他人の「いいね」ボタンの数だってさしたる価値はない

 

 

Ende;

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斎藤幸平

2021年08月22日 11時13分41秒 | 意識論関連

斎藤幸平というカール:マルクスを研究している哲学者がいて

この人は西研などのバカ哲学者とは違って言っている内容に整合性がある

むしろ学界では異端扱いだそうな

斎藤幸平の主張では 「資本主義は社会を崩壊させる」的な様々な要素を挙げてきているんだけど

制度とか法律といった「手続き」的なものでは細かい対処ができずに どうしても「抜け道」「抜け穴」によって制度や法律の主旨を逸脱した使い方に陥りかねない

資本主義か共産主義かのどちらが「正義」なのかを論じても トロッコ問題同様に「一人殺すか 五人殺すか」を議論しているのと同じで 根源的な部分が抜け落ちている

重要なのは 制度法律の問題ではなくて それを運用する「人間性」や「意識」の問題なのである

中央集権的にトップダウンで物事を決めるにせよ 権力闘争に使われてしまうか それとも本当に社会安全性のために使われるのかは 「人間性」の問題である

現実には 例えば今回の感染症対策においては 国民一人一人の個人が丁寧な対策をしないことには首相や都知事が何をしても全部無駄になってしまう

結局は国民個人の「意識」こそが重要なのであって ただ盲目的に「法律や制度に従う」といった手続き的な機械的条件反射だけでは問題の解決にはつながらない

飲食店が営業自粛をどんなに耐えて頑張っても 路上呑みによって全てが無駄になるのである

こうした国民個人の「自律」的判断が重要なのは 温室効果ガス削減においても同じである

照明器具を全てLEDに取り替えて こまめに節電を心がけても 隣家で冷房ガンガン効かせて白熱電球点けっぱなしにして寝ていたのでは意味がない

「利己的金儲けにさえ邁進しておけば自動的に社会全体が潤う」というデマを作り上げたのはアダム:スミスの「見えざる神の手」幻想である

「見えない」 すなはち「認識できない」何かによって自動的に良い結果が得られるかのようなデマを流しておけば バカな大衆は「自分達は何も考えなくて良いんだな」とばかりに益々バカが酷くなり 方向性のない暴走破綻への道を突き進むようになる

そして更に 遺伝的進化万能妄想を持ち込むことによって 「ヒトには先天的に人間性が組み込まれていて 自動的自然に正しい結果に導かれる習性を持っている」かのような妄想で満足し ありもしない力学や構造によって意識を「超越」した実証不能の謎の「目的」に向かって自動的に誘導されるものだと錯覚するのである

 


ヒトの先天的な動物習性としての「社会性」とは あくまで狩猟採集生活や部族紛争における優位性に特化されたものであり 基本的に暴力的で封建的不平等な集団組織を作り出すための統率的協調性に過ぎない

同士での領地争いに「勝った」集団だけが「生き残った」結果であって 資源の乏しい自然環境下においては過酷な生存競争に「勝た」ないことには生き残れないのである

だから子供だけを集団にしておくと自動的シーケンシャルにイジメ差別が始まるのである

ヒトに限らず 動物というのは「情動行動」がベースであって 主観的に「怖い」とか「嫌い」なものから逃げ出し 「安心」で「好きな」ものには迎合同調したり集まったりするものである

通り魔の被害者の多くが無抵抗な子供や女性なのは 通り魔にとって「勝てそう」で「怖くない」から標的にされるのである

これは集団組織的なイジメにおいても同じで 「勝てそう」な弱者にしかイジメは行われることはない

集団組織的に協調して暴力を振るい その集団の中だけの「正義」を振りかざしておけば仲間意識を満足させることができるからである

「卑劣」という概念は 自然環境下における生存競争において成立せず 勝って生き残れば生存であり 現状の生物学界では「生存」という結果そのものを「目的」だと言い張って正当化してしまっているのである

勝てそうにない相手に迎合同調し 生存にとって有利に持っていこうとする卑劣な行動であっても 生存にとって有利で「死なず」に済めば「正しい」行動ということになっているのである

 

目先の安心満足を追求すれば 総合的には損失になり得る可能性には配慮が働かない

化石燃料を大量に消費して温水を無駄遣いし 無駄に大型の乗用車を一人で乗り回すような物質的「豊かさ」ばかりを追求していれば 当然地球環境には負担になる

「地球環境」と言うと あたかもゴキブリやドブネズミやウイルスも含めた途方もない他人事のような錯覚をもたらしかねないが 実際には「ヒトの生息環境」としての「地球環境」保全であって 別にヒトが絶滅しようがどうなろうが岩石の塊に過ぎない「地球」にとってはどうでも良い話なのである

ヒトという種の生物には 目先の快楽や安心満足を追求する習性しか組み込まれておらず 何も「考え」なければ環境破壊だろうが不公平であろうが 自分に直接的な「痛み」が伴わなければ興味すら持たない

そういう「残念な生き物」なのである

ヒトの知能というものは 元々個体の生存価にとって有利な行動選択を合理的に選択するために進化したものであって それ以上の社会安全性や持続可能性にまで配慮意識するようには進化的にできていない

だからヒトの多くは利己的行動しか興味を持たないのである

 

ヒトは先天的には「人間として欠陥品」ではあるが 欠陥を自覚認識することで 欠陥を補うことは可能である

本来「哲学」とは 物事を深く検証するためのものであるのだが いつの間にか「主観的納得感によって満足して安心するためのファンタジー」で大衆人気を得るためのものにすり替わってしまっているのである

「気分が良くなること=正しいこと」という方程式は 「自分の気分こそが絶対的に正しいもの」という傲慢さから導き出されるのだが その自覚は「考え」なければ出てこない

 

「見えざる神の手」だとか「理性を超越した 絶対に知覚できない叡智界」といった 実証不能の謎の観念に囚われ 自分では何も考えないように誘導洗脳されていた方が ヒトは安心で満足なのである

この根本的欠陥を自覚認識しないことには 資本主義も共産主義もヘッタクレもないのである

 

 

Ende;

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