書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

破滅に至る病

2021年08月26日 17時36分44秒 | 意識論関連

イマヌエル:カントの時代というのは 科学技術の発展によって戦争がそれまでよりも苛烈で残虐になった時代であったため 科学的な真理の探求そのものまでもが「悪」だという「印象」に基づいて「純粋理性批判」は書かれたという経緯がある

科学技術というのは あくまで道具であるから 道具を何にどう用いるかによって結果は全く異なる

 

化石燃料の使用による温室効果ガス増大は 科学技術を金儲け目的に大量に使った結果であり 欲望の副産物である

核兵器などの大量破壊兵器軍拡競争も 他国からの侵略を怖れるあまりに「安全保障」と称して過剰に配備し続けた結果であり 恐怖心に煽られることによって歯止めが効かなくなっているのである

こうした合理性を欠いた一種の「暴走」は 全て欲望の産物である

利益追求や恐怖からくる過剰な防衛攻撃力というものは かつて祖先が野生環境下において積極的に追求し続けていないと「生存」や「種の保存」には適さなかったために それが文明社会の中では合理的必要性がないにも関わらず 欲望のままに膨れ上がって歯止めが効かなくなるのである

いうなれば「生活習慣病」と構造は一緒である

社会単位での「生活習慣病」と言って良いだろう

 

金儲けの為に他人を犠牲にしてまでも利益追求をすることは 到底人間性や倫理には適さない行動である

社会が破綻する危険性を認識していながら 利益追求を続けていても 本当に望んだ結果にはならない 貨幣価値なんぞ社会が破綻すりゃ紙屑同然だからだ

それが「本当に望んだ結果(目的)」なのかと言えば そんなことは誰も望んでなどいないはずである

ところが ヒトという種の生物には 先天的に統率協調行動を採る習性が存在し 他人との間に順位序列をでっちあげて封建的独裁状態に陥る習性があるため 何も考えず 何も批判精神を発揮せずに唯々諾々と「権威」とみなした相手の言っていることを鵜呑みにしていると 本当は望んでもいない結末に陥ることはいくらでもある

ミャンマー軍事政権による独裁が続けば経済活動は滞り 結果的に国全体が貧乏になることは目に見えている

北朝鮮政府は「前例」である

かつて太平洋戦争に突入した日本の軍事政権のように 破綻への暴走の結末は凄惨なものであり 同じ道を歩む可能性は充分にある

 

兵隊が どうして戦争などというバカげた行為に従うのかと言えば それが先天的に組み込まれた本能習性に適しているからであり

統率協調的に他民族や国家を侵略虐殺してきた結果として 収束進化的に残されたヒトの習性だからである

ヒトは 集団組織に対して忠誠忠実に 従順に服従することに対して「美しさ」を感じる性質があり 特攻隊は「英霊」だが戦争自体に反対した政治犯は「裏切り者」のそしりを受けるものなのである

内部告発者が排除されたり守られないのも 同じ理由である

ヒトという種の生物は 自分が所属する集団組織の利益に反する行動を採る者は たとえ社会全体における公益的な行動だとしても「裏切り者」として排除対象にする習性があり

逆に社会に対して害を及ぼす行動だとしても 組織の利益を優先することを選んだ行為は「組織の体質が悪い」などと称して無罪にしたがるものなのである

 

「組織の体質」というものは 組織を構成する個人の意識の低さから生ずるものであって 組織を構成する個人が自律的な社会的責任を負わないことには あらゆる組織集団は簡単に腐敗を許すことになるのである

社会安全性や持続可能性を担保するのは「他人」ではない

まず「自分から」担保しないことには何も進まないのである

自分一人では微力だと「感じる」であろう 何せ80億も「他人」がいる世界である

だが 「感じる」というのは主観的感覚や印象に過ぎず 無力であることの論証にはならない

フリードリヒ:ニーチェはこう言った「できそうにないことは やらない方が良い」と

これを鵜呑みにしておけば 自分の気が乗らないことは全部正当化することができるのであって 精神の怠慢を促すことで思考停止に陥れる「甘い誘惑」である

それを現状の「哲学者」共は「哲学」だと言い張るのである

完全にどうかしているぜ

 

 


Ende;

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「答え」について

2021年08月26日 14時12分14秒 | 意識論関連

目的とは 「欲望を満たすこと」である

ヒトの大脳辺縁系は 環境や状況によって様々な欲望が反射的に生じてくる

血糖値が下がればイラついて何かを食べようとする

眠くなれば眠りたい

人によっては 夜中に部屋に一人で過ごすことが不安で誰かと一緒に泥酔して騒ぎたいことあるだろう

本当のことを知りたいと思うのも欲望である

 

ヒトに限らず 脳を持った生物は欲望を叶えるために論理的に効率の良い合理的方法を考え より高度に欲望を満たすことができる

カラスは 少しだけ水の入ったコップの中のエサを取るために 近傍にあった小石をコップに入れて水位を上げることでエサを取るということをする

カラスは「コップの水位は小石を入れれば上がる」ことを知っているのである

私の知る限り ネコやイヌには出来ない芸当である

ネコは鏡に映る自分の姿を 自分だとは自覚出来ずに延々と威嚇し続ける

錯覚を錯覚だとは認識出来ないのが原因で 合理性のない無駄な行動でエネルギーを消費する

脳の容積と 論理客観的合理検証性は一致しない

ヒトは 他の動物と比べて圧倒的に脳容積が大きいが 時折糞の役にも立たない無駄なことも平気でする

尾身茂分科会座長が個人的に気に入らないからといって 尾身茂氏が理事長を務める団体組織の建物の玄関のガラスをスコップで割ったりする

ガラスを割るのにスコップが最適とは言えないし ガラスを割ったら何かが変わるのかと言えば何も変わらない

ヒトは それだけでは全然「知的生命体」ではないのである

暴力を振るえば気分が良くなるのは それが欲望だからである

暴力的に暴れたり破壊したり 他人に危害を加えたりすると テストステロンなどのホルモンの消費によって反射的に脳内物質セロトニンが分泌されることで扁桃核が「快楽」を感じる構造が脳にはあるからだ

ヒトがヒトにまで進化する以前から 自然界の野生生物は「勝てそうな相手を殺害して食う」という行動によって「生存」や「種の保存」に適した行動が成立してきた

暴力行動は野生環境下においては「生存」や「種の保存」においては適しているとは言えるが これらは全て「結果」であって 別に個体が主体的に選択したものではない

暴力行動を採らなかった個体種が死滅した「結果」として残った本能習性であって 人間社会において合理性があろうがなかろうが 「暴力は快楽である」ことは変えることができない

「欲望自体を欲することは出来ない」のである

この話をすると必ず出てくるのが 「それならヒトに自由意志などない」という短絡的な「答え」を本気にするバカがウジャウジャ出てくる

バカがバカ足りうる所以は 「答え」が短絡的で その根拠が薄っぺらで 深い検証性が著しく欠けていることである

バカが思いつく「答え」というのは 論理の不整合や飛躍が激しいため しばしばオカルトやデマの原因ともなる

時を戻そう じゃなかった 話を戻そう

「欲望自体を欲することは出来ない」のだが 様々な欲望が促す行動の結果の中から 最も自分にとって合理的で意味のある欲望とは何かを「選択」することは不可能ではない

この「選択」の時に必要なのが論理客観性(理性)である

大脳辺縁系の反応によって促される様々な行動バイアスに無為に流されることなく 自分の行動結果がどのようなものになるのかを俯瞰して 全体像から選び出すことによって 非合理で無意味な行動に陥らずに済むのである

ヒトはここ数万年ほとんど遺伝的には進化していない 従って野生環境で生活していたかつての祖先に結果的に組み込まれた本能習性も ほとんどそのまま受け継がれているのである

文明社会環境下では 遺伝的進化は起きない なぜなら淘汰圧力が充分に働かないため 特定の遺伝子を持った個体への収束が起こらないためだ

草食動物の足が速くなる進化が生じたのは 個体差の中で足の遅い個体から天敵に喰われていったためである

天敵に襲われた時に 仲間が凄惨な状況に陥ることには目もくれず ただひたすら逃げ回るということを繰り返した結果 逃げ足の速い遺伝子を持った個体種への収束進化が生じたためである

イワシなどの魚類は 哺乳類から比べると とんでもない繁殖能力を持っているのだが その大半は他の魚に喰われ 数匹しか生き延びることはできない

変異による個体差によって 繁殖力のより高い個体の方が「種の保存」には適していたため 結果的に繁殖力の高い個体種への収束進化が生じたためである

遺伝的進化というものは 弱肉強食の過酷な自然環境下においてのみ生ずるものであって シーケンシャルに生ずる自然現象に過ぎず 進化の先に何らかの目的のようなものが存在するわけではない

「生き延びるために」という目的があったわけではなく 「死ななかった」個体種の結果が遺伝的進化なのである

のべつまくなしランダムに変異してバリエーションが増え その中から偶発的に環境適応していた個体種株が死なずに生き延びた それが遺伝的進化であって その進化の先が袋小路であろうが絶滅であろうが 誰も責任を取ってはくれないのである

従って遺伝的進化には「生存戦略」という概念は成立しないのである

誰が死のうと「生存」だの「種の保存」にさえなれば「遺伝的進化」なのであって そこに個体の尊厳などない

過去には様々な変異や進化が起きたことが断片的に化石などから立証されているが そのほとんどは絶滅して現存しない

現存する生物種株やヒトが絶滅しない保証すらも どこにもないのである

ヒトも含めて現存する生物種の多くは 生存にとって有利な様々な恒常性を持ってはいるものの 決して先天的形質や習性の全てがこれからも常に絶対に環境変化に適応できるような「都合の良いもの」では断じてない

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」とでも言っておけば バカな大衆はその場限りに気分的に安心満足して生物学者達の嘘でも鵜呑みにし 人気を集めることは簡単であるが

多数人気が科学的根拠には一切ならない

どんなにたくさんのバカの人気を集めても バカの多数意見が科学的真理の論証にはならない

 

ヒトが生活習慣病に陥りやすいのは 祖先の生息環境における遺伝的進化(淘汰圧力)の名残りに起因するものである

ヒトが暴力性を無駄に発揮するのも同じである

ヒトが非合理で無意味な行動を採って 他人に多大な迷惑をかける原因も同じである

遺伝的進化というものは 何代にもわたる世代交代のサイクルが必要であり ウイルスや菌類のように世代交代サイクルが短いほど変異も進化も短期間に進むのである

ヒトのように世代交代に数十年も要する生物の場合には ウイルスの変異に適応できるような遺伝的進化を起こすことは無理ゲーである

生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」などという話には 科学的な根拠が著しく欠けており 大衆迎合を目的とした悪質なデマという他ない

「先天的本能習性のままに行動しとけば 絶滅をせずに自動的自然に繁栄が永久に続くんだな」という妄想錯覚を促すオカルト観念を促す悪質なデマに過ぎない

遺伝的進化によって組み込まれた形質や本能習性は 「その場限りに生き延びる」ためには有利な性質を発揮することはあるが その全てが常に「正しい行動」を促すわけではなく むしろ逆の行動を促してしまうことも少なくはない

だからこそ紛争や犯罪も含めた「人災」などの諸問題が発生するのである

 ◇

「答え」についての話をしよう

ヒトは「答え」を求める性質がある

だが 必ずしも「答え」には論理客観的根拠証拠は必要がない

「人間は叡智界に属している」などという謎のオカルトファンタジーな「答え」であっても 気分が良くなって主観的に「信じたい」話なら信じようとするのである

「信じる者は救われる」と信じておきたいのである

盲目的に何かを信じ込んでおけば 自分で物事を判断しなくて済み 判断責任も負わずに済むので 気分的に「楽」なのである

精神が怠惰だと 「地下鉄に毒ガスをまきちらすことが人類の救済」になってしまい 自己犠牲だと勝手に錯覚して命懸けで正義の鉄槌を執り行うこともある

当人は命懸けで必死なのだが 方向性がトンチンカンなので 無駄な苦労で迷惑にしかならない

何が真実なのかを区別認識できないため 錯覚を錯覚だとも認識できないため 本当の「目的」が見えていないのが原因である

「ネットは間違いだらけだが 書籍は信じられる」などという話も これは「書籍に装丁されてさえいればメディア・リテラシーは持たなくも良い」という盲目性であり 精神の怠惰からくる錯覚でもある

ヒトは 「これさえやっときゃ全ては解決」という短絡安易な「答え」が大好きで 「書籍になって装丁されてさえいれば真実しか書いてない」と盲目的に信じ込んでさえいれば満足するのである

ネット上の情報の大半はデマや嘘である それは確かだが 「ネット上の情報の全てがデマや嘘だ」ということの論証にはならないし 逆に「書籍になっていれば常に正しい情報しか載っていない」という論証もないのである

ヒトが真実を見分けられなくなる原因は 分類区別が絶対化してしまうからである

「個人ブログはデマや間違いや嘘が多いから 信じるに価しない」という分類が絶対化してしまうと その内容に論理客観的根拠が伴っていようとも 頭ごなしに嘘だと決め付け理解しようともしなくなる

逆に 東京大学名誉教授や 京大学長の書いた書籍であれば 内容が支離滅裂で論理の飛躍も甚だしいオカルトであっても誰も疑問を持たずに盲目的に信用されるのである

「哲学者」達の言っている内容に対しても 誰も疑いを持つことはない

だからこそマルクス:ガブリエルのような訳のわからぬオカルト話でも 「哲学者」達が「新時代の哲学だ」と形容すれば 世間的には通用してしまうのである

なんつっても「絶対に知覚することのできない叡智界」などという意味不明な「答え」であっても「近代哲学の最高峰」にされている業界であるから もはやイカれたトンチンカンなデクノボウしかいないことは明白である

今更疑わない奴の方がどうかしているぜ

 

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」では 「科学(理性)は”なぜ”という”答え”を永遠に追求するから悪だ」と規定しておきながら 最終的には「人間は絶対に知覚することのできない叡智界に属しているのだ」などという「答え」を提供しているのである

そもそも「理性を批判する論理」自体が自己矛盾であり 訳ワカメ(昭和脳)である

ヒトの多くは論理的に物事を検証することが苦手で嫌いなので 理性は頭ごなしに否定しておきたいという感情にとって「純粋理性批判」は気分が良くなるので都合が良いため 大衆マスコミやバカな「哲学者」共には人気があるが 何せ「理性を超越」していることになっているので論理的な根拠の説明は一切出てこない

実際には「理性を超越」しているわけではなく 単に「理性を逸脱してオカルトになっている」だけなのである

 

別にこのブログに書いてあることを盲目的に信用しろとは言わないが むしろあらゆる文章から何が本当に正しい内容なのかを自律的に区別するための論理客観的判断は社会的責任として必要である

わからないなら わからないと判断を保留することも 科学的には正しい判断である

養老孟司は「わからないなら わからないなりに わかったとする そういうわかり方もあるのかと 思って頂ければ幸いである」などと言ったことがある これは要するに科学的判断を放棄させて実証不能の観念の世界に誘っているのである

なんでそんなことをするのかといえば 養老孟司の著作は基本的に「科学を装ったオカルト」だからである

にも関わらず どうして養老孟司が東大名誉教授でい続けられるのかは 私の知るところではない

どうして松沢哲郎が文化功労賞に選ばれたのかも 私の知りようもない話である

 

 

Ende;

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