論理思考の成立していない文科系のマスコミや「哲学者」共は 主観的な「印象」だけで人間性の論証のように言い張るが
個人の主観的な「印象」が 本当の「人間性」や「倫理性」の論証になるわけではない
多数決的に個人の「印象」を集めてきても それが論理客観的に人間性や倫理の証明にはならないからである
人間性や倫理の根幹とは 「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であり 「社会的責任を負う」ために必要なのは論理客観的に真実を見極め区別できることが大前提である
何が真実なのかも区別できないバカに社会的責任など負えないからだ
自分勝手な主観的「印象」だけで物事を区別しているようなバカに社会的責任なんぞ負う資格はない それはメンタリストのDaiGoを見れば明らかである
大衆の多くも 自分の主観的「印象」だけで人間性だと錯覚する習性があるため 振り込め詐欺師が「丁寧な口調で話していた」というだけで相手を信用して騙されるのであり
言っている内容を論理客観的に「理解」せずに鵜呑みにするから「バカ」げた嘘を見抜けなくなるのである
ヒトの多くは自分の主観的な「印象」から受ける感情を 自分の意識の本質だと勘違いしており だからこそ簡単に振り込め詐欺にも引っかかり DaiGoのような感情的差別にも簡単に陥るのである
目先の感情は意識の本質ではない
様々な感情の中から客観的に優先順位をつけ 本当の「目的」に基づいて冷静に判断しなければ 人間としての社会性や倫理を発揮することはできない
DaiGoのような「間違い」は ヒトであれば誰でも陥る可能性のあるものであって 「他人のフリ見て我がフリ直せ」とも言うように 失敗を教訓としてヒト全般の「財産」として活かすことが重要であって DaiGo個人をよってたかって袋叩きにしても意味はない
ヒトは どうしても特定個人を集団で袋叩きにしておけば「正義」になるという「感覚」があり 罰を加えたり死刑にすることで問題の全てが解決したと錯覚する習性がある
DaiGoが陥った「ホームレスは殺せ」という「感覚」もまた同じ主観的「正義」に基づいた言動であり DaiGo個人をいくら糾弾してもヒト全般に普遍的に見られる「間違い」の再発防止にはならない
「生命は大切」という話もあるが 「自分の生命」だけが優先してしまえば他人への迷惑にも配慮が効かなくなるのであって 単に「生きていれば良い」という雑な話にもなりかねない
「死んでないなら良いだろ」というのであれば 差別も不公平も不条理も許容されかねない
どのみち全てのヒトは死ぬ運命にある以上 生命生存というのは絶対的価値にはならない
たとえ医学や科学の進歩で永遠に生きられるようになったとしても 永遠に生き続ける必要性は特にないのである
生存は「生物(ヒト)の結果」であって「人間の目的」ではないからだ
子供に「生命は大切」と説いても 「それじゃ鶏やブタや牛は何で殺して良いの?」という問いには答えられない
たとえ植物であっても「生命」である以上 優先されなければならない理屈にはならない
人間性にとって最も重要なのは「安全性」であって 他人の安全性を蔑ろにしておいて自分だけ安全を確保してもらおうというのは身勝手で傲慢な態度であり この傲慢さこそが不公平や差別を生み出す原因である
「ヒトがヒトを殺して良い理由」はないとは言え 「ヒトとヒトが殺し合う社会に生き続けなければならない理由」もまた存在しないのである
情動自体が失われた「大脳辺縁系を損傷した人」ではない以上 生き続けることに不条理な苦痛を感じている人がいるかぎり 自分だけが幸福になどなれないのである
大脳辺縁系を損傷した人の場合は 苦痛も幸福すらも「感じる」ことがない(痛覚はあるかもしれないが)のであって それ以外の人の「感覚」で同列に語ることはできない
自分の生命が軽んじられる社会の中であれば 他人の生命にも配慮ができなくなるのは必然である
犯罪者の多くは幼少期の家庭において存在を軽視されてきたために 他人に対する配慮もできなくなってしまっているのであって 「他人の迷惑に配慮が出来ない」というのは「哀れな存在」でもあるのだ
犯罪という「結果」だけを見て 「罰で解決だ」と主張するのは簡単だが 簡単なことで諸問題が解決すると「思って」いるのは社会的に無責任でもある
これは「制度が悪い」で片付く問題でもない なぜならこの国では制度上民主主義を導入している以上 制度の欠陥を放置することは国民一人一人の責任でもあるからだ
法律や社会制度は民主主義制度下では「他人事」では済まされない
学力が高いだけのバカに任せておいても 問題の解決にはつながらない
誰が本当のバカなのかを見分けるためには 自らのバカさを理解認識する必要がある
自分のバカさがどのようなものなのかを理解できれば 他人のバカさも区別可能になり バカの言っているデマカセに惑わされて意味のない行動や制度や法律に振り回される必要もなくなり 「人災」に由来する不条理や不公平に無駄に苦しむ必要もなくなるのである
自分の主観的「感覚」だの「印象」だけで物事を判断すべきではない
誰しもが「ヒトという種の生物」に過ぎない以上 「間違えないヒトはいない」のであり 「自分も間違える可能性が充分にある」という自戒が必要なのである
感情に任せて特定個人や団体をディスっても それが「社会安全性」や「自分の人間性」の論証にはならない
それはただの身勝手な「目先の満足」しか得られない
Ende;