太平洋戦争ってのは 基本的に日本の軍事政権の暴走であって
バカみたいな「日本人の精神的支柱」などという訳のわからぬ精神論的妄想に頼ったカルト宗教化によって
事実を客観的に見れなくなっていたのが根本的原因である
「ワクチン怖い」とか言っている奴らと一緒である
そもそも戦争の全ては「殴って黙らせれば解決だ」という短絡的でバカみたいな解決法に頼るヒトの先天的欠陥に起因するものであって
他国を「敵」とみなして暴力で服従させようとするのが根本的に間違っている
「暴力で解決」という観念は 動物的な野蛮な発想であり ヒトは元々野生の野獣から進化した以上 こうした発想に陥るのはある意味必然的「結果」でもある
しかし どんなにたくさんの「結果」を集めて陳列してきても それが合理的根拠を伴った「目的」の論証にはならない
戦争紛争といった「失敗」を教訓として 再発防止策を優先するというのであれば ヒトの先天的欠陥を無視するわけにはいかない
「太平洋戦争は無駄だった」と言いながら 「特攻隊がいたから今の平和がある」などというのは論理整合性のない勝手なこじつけに過ぎない
戦争が無駄なら 特攻隊も無駄だったのである
軍隊というのは厳しい訓練によって上官の命令に唯々諾々と服従することを動物行動的に「学習」させることによって 戦争などというバカげた行為にも簡単に使うことができるようにするための手法であって
いくら兵隊を鍛えても 鉄砲玉一つで簡単に死ぬのであって 殺し合いで勝敗を決めるのは物量とか兵器の質である
兵隊個人の自律的判断放棄による無責任さを 「戦争だったから 一兵卒だったから 仕方ない」では赦されないのである
それを赦すというのであれば ナチスによるアウシュビッツ絶滅収容所での虐殺も許容しなくてはならなくなる
そんなバカげた話は要らない
ポーランド騎兵がどんなに勇敢であったのかを賛えても ナチスの機械化部隊に対しては何の抵抗にもならなかったのである
どんなに頑張っても竹槍でB−29戦略爆撃機に勝てるわけがないのである
暴力の応酬で「勝った」からといって 勝った方の国に有利な条件を押し付けて良い理由にはならない
暴力で他者を従属させ 順位序列を押し付けること自体が人道に反しているのである
それは犯罪に対する刑罰でも同じことである
国家権力を用いて犯罪者を抑圧しても 犯罪者は「主観的に怖いから一時的に犯罪をやりたくなくなる」だけであって
犯罪者自身が自己客観的に自分の行為を自覚認識し 主体的に犯罪には手を出さないようにはならないからこそ再犯率が50%近くも存在するのである
抑え込む他人がいなくなれば タガが外れて再犯する
人間性や倫理の本質は 「個人が自律的に社会的責任判断選択を行えること」であって 暴力で他人を抑圧すること自体がそもそも人道に反しているのである
一人の人間 一人の社会人としての行動を求めるのであれば 罰などの恐怖で抑圧するのではなく 一人の「人間」として扱い 個人の主体的社会参加を促すことが必要である
「罰で全てが解決だ!」と言い張るのであれば それは一種の脱法犯罪にも等しい社会的には無責任な発言である
多くのヒトが行う無責任行為であれば 多くのヒトは「安心」して無責任な行為を続けることができるであろう
だが その「安心」には論理客観的根拠が伴う保証は何もない
ただの「主観」的な感覚だけであって その感覚自体は先天的に決定している野獣だった祖先から受け継いだ習性に過ぎない
ヒトは数百世代以前からヒトだったので あたかも神代の時代からヒトだったかのような錯覚に陥りがちだが ヒトは生物史全体から見ればごく最近発生した新種に過ぎず 何ら完成された完全無欠の「人間」などではない
多細胞動物が爆発的に進化を始めた5億年前のカンブリア紀から見て 5万年というのは1/10,000*の期間に過ぎないのであり ヒトにまで進化する以前の方が圧倒的に長いのであって ヒト固有の性質もその程度しか進化的に組み込まれてはいないと考えるべきである
*:計算間違えてた
更に言えば ヒトでありさえすれば人間性が進化するような淘汰圧力など存在しておらず 実際ヒトはここ数万年ほとんど進化をしておらず 文明から隔絶された原住民であっても戦争による死亡率は1%に達する
それでも死滅しなければ「種の保存」には適していることにはなる
結果的に「種の保存」に適してさえいれば存続するのは必然であって 存続さえしておけば自動的に人間性が組み込まれる進化のメカニズム構造など誰も説明することはできないのである
バカでも絶滅しなけりゃ「生物」なのである
イワシやネズミのように 個体の生存価なんぞどうでも良くて 結果的に誰かが生き伸びれば「生物」であり
淘汰されなかった個体の形質変異を「遺伝的進化」と呼んでいるに過ぎない
逃げ足が速くなる進化にせよ 擬態にせよ 個体の努力でどうにかなるようなものではなく
ヒトの脳肥大においても先に頭部が肥大した変異が生じた上で 頭部がより肥大していない個体への淘汰圧力が生じなければ脳肥大の進化にはならない
しかも 脳が肥大してもバカはバカであり 脳肥大と知能や人間性は比例しない
哲学界におけるプラトンだのニーチェだのカントだのといったオカルト妄想や根拠のない決めつけの羅列が哲学として扱われ続けることも
生物学界における「目的のために進化した」などという進化万能論が通用してしまうのも 特に脳が矮小なバカによって温存されているわけではなく 平均的なヒトの脳容積を持ったバカによって温存され続けているのである
全ての生物は 生息環境への寄生によって存続しているのであって ウイルスなどの「寄生生物」と分類されているものであっても 「宿主の体内」という生息環境への適応が起きた結果であって 別に目的があって寄生しているわけではない 「宿主の体内」という生息環境に適応進化が起きたからといって 寄生生物が主体的に寄生に適した遺伝的形質を選択できるわけもなく 適さなかった個体や株種が死滅した結果以上の意味は何もないのである
生物学上における「社会性」と称して 統率協調性や役割分担の習性をどんなに大量に陳列枚挙してきても それが短絡的に倫理や人間性を伴う「人間としての社会性」の論証には一切ならない
統率協調性には盲目的服従性が伴い 役割分担性は「種の保存において有利」なだけであって 何ら人間性や倫理の論証には全くならない
テロリスト集団やゲリラ組織や暴力団や振り込め詐欺集団が統率協調性をどんなに高度に発揮しても その内部で利他的行動が見られたとしても それが「個人が自律的な社会的責任判断を行う能力」の論証には全くならないからである
ヒト個人が生き続けるのは 生きていることに楽しみや生き甲斐を感じられるからである
だからといって ただ自分の快楽だけを追求していて本当に生き甲斐を感じられるわけではない
隣人が苦しみ痛がっていたら 本当に心の底から「生きていて楽しい」とは思えない
どんなに「楽しいこと」であろうとも 丸焦げにされた赤ん坊の映像を見せられてなを心の底から「楽しい」という気持ちにはなりようがない
ヒトに生まれた以上 これは不可避である
自分の行動が社会持続可能性にとって有害であることを知っていながらなをやめることができないとすれば それはもはや無意識なゾンビか夢遊病者も同然である
ドーパミンなどによって促される行動しかできない「脳内麻薬の奴隷」に過ぎない
目先の快楽に溺れて統合的な観点を見失っていて「自由」もヘッタクレもないのである
先天的に組み込まれた脳の行動バイアスに無為に流されておいて 一体何が「自由」だと言えるのか
自らの脳の構造や行動バイアスは自分で選択不可能な先天的に決定しているものであって これに流されているだけなら一切の主体的選択可能性は放棄しているのと同義である
自分の遺伝子を自分では選べないのと同時に 自分の脳の構造も 先天的行動バイアスも 生育環境から刷り込み学習された「常識」などの価値観も それだけでは主体的な自由「意思」にはならない
本当の自由意志とは 様々な価値観の中から本当に優先すべきものを「選択」することであって ただ目先の欲望だの感情だのに場当たり的に左右されていていたのでは自由とは言えないのである
個人的に楽しいと思えることを 心の底から楽しむためには 他人の楽しみや苦痛にも配慮する必要性がある
「自分の目先の快楽にしか興味(意識)が働かない奴になりたい」と思っていれば その時点でもはや人間として「病人」である
誰が人間として「病人」なのか その区別ができないから人間性や倫理も見えなくなる
目先のご機嫌取りを短絡的に人間性か何かだと「感じ」る自分の頭の悪さには自覚がない
気分の悪くなる「自分にとって都合の悪い話」には耳を貸さなくなる
それがヒトの頭の悪さの根本原因である
ヒトがバカなのは一種の天災だが バカを自覚することを拒絶することで起きる迷惑は「人災」である
あらゆる「人災」は バカが引き起こすのである
Ende;