書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ダイバーシティー

2021年08月19日 23時04分07秒 | 意識論関連
言葉による虐待を受けて育った場合 側頭葉(発話言語を司るブローカ野と見られる)の肥大が見られるという

その結果 他人の言葉に異常に敏感に反応しまい 安心して生活することもままならなくなるという



虐待を受けて育つと大脳新皮質全体の萎縮が見られるのだが 言語による虐待の場合は局所的に言語機能などの特定の無意識機能を司る領域が無駄に肥大し 不必要な過剰反応によって日常生活に支障をきたすことがあるという

いわば トラウマ的に言葉に対する恐怖を行動「学習」してしまい 不必要に他人の言葉に恐怖心を抱いてしまうことで 冷静に物事を判別する能力を喪失してしまうらしいのだ



日常的に他人の発する言葉の恐怖に怯え続けることで 常に精神的ストレス状態に陥ることで 他人に対しての配慮のようなことが出来なくなってしまうのである

その意味においては 「バカなのにも理由はある」のだとも言える

多くの大衆やマスコミがバカで 生物学者や哲学者共の嘘を見抜けないのも 生育環境において主体性や自主性を尊重してもらえなかったことによる 一種の「病」であろう

特に「責任世代」とも称される中年以上の年代の人の多くは かつての荒んだ「教育」のために 権威の言っていることに疑いを持つことに観念的恐怖を感じ 主観的な安心や満足だけで物事を判断してしまうバカが大半を占めていると考えた方が良い



虐待というものも グラデーションであり程度問題とも言えるものなので 一切のヒステリー(心的拘束)を持たない人など存在しないと思うべきであり

人は何らかのトラウマや価値観の偏りといったものが存在するものであることを前提にすべきである

それは他人のみならず 自分にもあると考えるべきで だからこそ「主観には意味がない」のである

主観的な好き嫌いなどの「思い」には社会的価値など存在せず あくまで客観的な論理的検証という「考え」に基づいて社会的価値を見定める必要があり そのためには「理性」は絶対に欠かせないのである



個人的な価値観だけに頼って「自分だけは絶対に間違えない 大丈夫だ」という慢心こそが メンタリストのDaiGoのような著しい間違いに陥る原因なのである

メンタリストなどというのは 本人が言うように元々は詐欺の手口であり 「他人を手玉に取る手口」であって 人間性や倫理とは無関係な話であり どんなに「金儲けに利用価値がある」としても それが社会持続可能性や安全性に寄与するわけではない

ヒトはどうしても利己的金儲けに有利な話でさえあれば有り難がって飛びつき それが本当に公益的価値が存在しているのかどうかには配慮がいかなくなる習性がある

学問というものは 本来は利己的金儲けのためにあるのではなく 真理を追求するためのものである

真理とは 「本当のこと」であって 人間として社会に生きる上において最も重要な「本当のこと」が何なのかを分別できてこその「人間性」なのである

社会持続可能性や安全性において 「本当に」最も重要なものが何なのかを区別できなければ 当然ながら嘘に騙され無駄な行動しか採ることはできなくなる

個人的な好き嫌いは「主観的事実」ではあるものの 決して「客観的事実」の論証にはならない

「生田絵梨花よりも和田まあやの方がカワイイ」と「思って」も構わないが 「ホームレスは俺様にとって害にしかならないから殺せ」という話にはならないのである



生活保護の主旨を逸脱したお金の使い方しかしないホームレスもいるのだが ギャンブル依存症という「病気」が原因なら それは「治療」が必要であって 短絡的に「殺せ」だの「支給を打ち切れ」という判断には人間性が欠けていると言える

それは犯罪者でも同様で 懲罰をどんなに加えても精神の「病」は治らず むしろ悪化してしまうことによって逆効果になるケースも少なくはない

その場合も被害者は一般人であって 自分も含まれるのである

自分が再犯被害に遭ってから 「何でコイツは治らんのだ」と後悔しても遅いのである

そもそも刑務所は犯罪者を「治し」てなどいないのである

この著しい根本的制度の欠陥を放置しておくことも 本当は遭わなくても良かったはずの再犯被害に対する無責任性の片棒を担いでいることになるのである



かく言う私にも価値観や好き嫌いの偏りはあって 若い女子同士が仲良くしているのは素敵だと「思う」が ハゲオヤジが手を繋いでいるのは気持ち悪いとしか「思わ」ない

だが そんなものは私の個人的な好き嫌いの範疇であって 個人的に「嫌い」であっても許容する理性こそが「ダイバーシティー(多様性の受容)」というものである



そういや滝沢ななえちゃんが「本当は男の人が苦手なのに 男の人に可愛いと言われることに罪悪感を感じてしまう」と言っていたことがあるが 私個人的には女子しか興味のない女子もまた素敵だなと思っており そもそも可愛いと思うのは思っている方の勝手なので 罪悪感を「感じる」必要性は全くないはずである

サバイバーズギルド同様に 無駄な罪悪感で悩む必要性はない

自分の主観的な「感覚」自体は変えようがないものだが 無駄な感覚に「悩む」必要性はないのである

そんなものはただの錯覚に過ぎないからだ






Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笑い話にもならない

2021年08月19日 22時02分11秒 | 意識論関連
大脳辺縁系を損傷した人の場合 赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さないかも知れないが

それが短絡的に人間性の反証には全くならない

大脳辺縁系を損傷した人は利己的行動を採ることも 暴力で物事を解決することもなく 決して人間としての社会性が欠けているわけではない

「赤ん坊の屍体を見ても食事を摂るのに支障を来さない」という姿を見て これに人間性を「感じられない」のは見ている方の主観的感覚や「印象」に過ぎず これだけで「人間性の反証」には全くならないのである

凶悪犯罪者であっても 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」ことはあるかも知れないが だからといってそれが短絡的に凶悪犯罪者の人間性の論証にはならないことからも 「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」かどうかだけでは人間性や倫理の論証には全くならない

「赤ん坊の屍体を見たら食事の味がわからなくなる」性質があるからといって これを短絡的に「先天的人間としての社会性だ」と主張するバカも後を絶たないが 先天的な社会形成習性というものは統率協調的に差別排除や集団的暴力の要因にもなるのであって 単なる情動の一面だけを採り上げて「人間性だ」と言い張るのは論理の飛躍も甚だしく あまりにもバカげている



フィニアス:ゲイジの事故後の写真から受ける「印象」だとか 「社会の中で日常生活を送っていた」などという話だけではゲイジの人間性の論証にもならない

なぜなら 東京電力福島第一原発の安全担当者であっても「社会の中で日常生活を送っていた」のであって それだけでは人間性や倫理の論証には全くならない

どんなに凶悪な犯罪者であろうとも 逮捕されなければ「社会の中で日常生活を送っていた」のであって 「社会の中で日常生活を送っていた」だけでは何ら人間性や倫理の論証には全くならないのである

連続殺人犯の多くというのは 「社会の中で日常生活を送る」ことができるからこそ 何度も殺人を繰り返しても捕まらずにいられるのである

フィニアス:ゲイジについては それほど詳細な知見が残されているわけではないので 実際のところ「人間性に問題があったのかどうか」については本当のところ「わからない」のであって これを論証に使うことは避けるべきであろう



そもそも大脳辺縁系を損傷した人の行動や 前頭葉を損傷した人から受ける主観的「印象」だけでは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が正しいことの論証には全くなっておらず バカ「哲学者」共による既得権保守のためのはぐらかしやごまかしにしかなっていないのである



凶悪犯罪者の大脳辺縁系は損傷しておらず むしろ暴力を伴う虐待によって大脳新皮質の萎縮が見られる場合の方が多いことからも 「理性は悪だ」という論理は何一つ成立しないのである



「利己的金儲け」という行動は 「利己的」であるという点において欲望が主体であり 理性が主体ではない

別に大脳辺縁系を損傷したからといってガムシャラに利己的利益追求をするようなことはしないし

利己的金儲けに邁進するのは むしろ理性を欠いた欲望まみれのヒステリックな動物的行動であって 何ら「純粋理性」でも何でもないのである



こうした「哲学者」共による論理的根拠を欠いた その場限りの取り繕いによって バカなマスコミや大衆やバカ学生共をはぐらかしたところで カントの「純粋理性批判」の内容の正当性は全く立証できていないのである

そもそも「絶対に知覚できない」叡智界は立証不能であり 「なぜ絶対に知覚できないのか」についての論理的説明も全くされていないのであって こんな話が「哲学」として成立するわけがないのである

現状の「哲学者」共は 誰一人としてイマヌエル:カントの主張を疑うことなく 「近代哲学の最高峰」などというバカげた評価を鵜呑みにしていた頭の悪さを隠蔽するために 大衆やマスコミの頭の悪さを利用してフザケたはぐらかしで既得権や体制維持をしているに過ぎない

プラトンもニーチェもカントも 論理客観的な論証としては成立していないが故に ナチスにも都合よく解釈可能なのであって こんな話を「哲学」として取り扱っていること自体「A級戦犯」に匹敵する犯罪的行為である



バカなマスコミや大衆は 断片的にしか物事を検証することができず 統合的な観点からは何が本当に正しいのかは判別できないため 既存の権威の言っていることを鵜呑みにすること以外が何もできない「デクノボウ」から脱することができないのである



同じ大学の職員として 哲学科や生物学科の組織腐敗を放置することは 生徒に対する詐欺的行為に加担しているのも同じことであり 赦されることではない

工学科や物理学科や天文学科の職員であっても 専門外であろうと組織腐敗を放置しておいて良い理由には全くならない

日大アメフト部の組織腐敗を 危機管理学部が放置していたのではギャグにもならないのである





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とても簡単

2021年08月19日 12時45分58秒 | 意識論関連

目先の感情 「気持ち」ってのは時々刻々変化するものであって 一貫性がない

無差別殺人犯の報道があったりすると 「何だコイツ死ねばいいのに」なんて思うこともあれば

服役囚の6割が幼少期に暴力を伴う虐待を受けて育ったという事実を知れば 罰だけでは問題の解決にはならんのじゃなかろうかとも思うだろう

「天使と悪魔」じゃないけど 一人のヒトの中には様々な感情気持ちが渦巻いていて それは目先の状況とか環境とかに左右されてコロコロと変化するものでもある

どんな情動行動バイアスが「天使」で どんな情動行動バイアスが「悪魔」なのかは 本当は「知って」いて だからこそ「天使」か「悪魔」かが区別できる

ところが 冷静さを失うとこの区別もできなくなる

パニック状態のヒトというのは 自分の感情が意識の全てになってしまって 客観的に物事を検証する冷静さを失って 非合理な行動に異常執着することがある

振り込め詐欺師に騙されている人とか 「ワクチンは危険」クラスターのデマに洗脳されている人とか カルト宗教の信者とか

別に単純に「多数だから正しい」ということにはならないのだけれど

「自分が主観的に信じたいと思っている」ことが「正しい」ことにもならない

入手できる様々な情報全体像から 客観的根拠を伴った合理性ある情報がどれなのかを判別することで 本当に安全な行動選択もできるようになるのだけれど

ヒトはどうしても一度信じ込んだ話に都合の良い情報だけを集めてきて 一度信じ込んだ自分の判断を事後正当化する形でデマや嘘を鵜呑みにするようになる

そうしておかないと 「一度信じ込んだ自分」の愚かさまで認めないといけなくなるので これが気分を害するので 都合の悪い話には耳を貸さなくなる

これがいわゆる「認知的不協和理論」である

 

一度何かを信じ込んでしまうと 自分の気分にとって都合の悪い嫌な話の全ての方を「嘘」だとみなすようになるので 客観性を失ってヒステリックに他人の説得も拒絶するようになる

振り込め詐欺師に騙されている人は 「嘘でも良いから振り込ませてくれ!」などとまで言い出すことがあるという

ヒトという種の生物には 先天的に嘘やデマを信じ込んで疑わなくなる習性が存在しているのである

進化的な「説明」をすれば 特定の統率者の命令に疑いを持たずに唯々諾々と服従することによって 協調的に「大きな力」を発揮することができるため これが「種の保存」にとって適していた結果だと言える

歴史書をひもとけば 武力で多民族を制圧し 巨大国家を作り上げ 様々な巨大遺物を作り上げた痕跡も多数見つかっている

ヒトという種の生物は 一色で塗りつぶすことが安心で 多様性を受け入れたがらない習性があるのだ

統率的な協調性は 他民族を武力制圧することが可能であり 人類の歴史の大半は戦争による侵略の歴史でもある

自分達と異なる文化や習慣を持った他民族の存在が不安で気に入らず 武力制圧して自分達の文化や風習を押し付けておくことが安心なため ヒトは戦争をしなければいられない

 

ロシアでのキツネの人工繁殖実験では ほんの数世代で多様な変異が起きることが立証されているのだが 実際の自然界でのキツネは極めて特定の種類しかおらず 変異した個体は観測できない

これは キツネが集団組織に馴染めない個体が発生した時に 排除する習性を持った個体種への淘汰圧力によって 多様な変異体が死滅しているからである

キツネの生息環境においては 多様性を受け入れてしまう行動習性を持っていると 生存や種の保存にとって不利な状況になったため 結果的に淘汰され 多様性を受け入れない行動習性を持った個体種だけへの「進化」が生じたためである

それなら変異が生じにくい変異が生じても良さそうなものだが 「変異が起こりやすい」かどうかは先天的に決まっているのであって これは望むと望まざるに関わらず変えることが出来ない

変異とはランダムに発生するものであって 統一的な「目的」がないからだ

COVID-19ウイルスが 様々な変異を起こすことによってヒトへの感染拡大能力が高まり「種の保存」に適することも 「生存戦略」や「目的のため」ではなく 単なる「結果」でしかない

変異というのは結果的に「種の保存」にとって適していたから変異するメカニズム機構が組み込まれているのであって 変異を起こしにくい個体種が死滅した結果でしかなく 「種の保存」を目的として意図的に変異しやすいゲノムを戦略的(主体的)に「選択」したわけではない

そもそも変異している時点で「種の保存」にはなっておらず 変異の先で絶滅するとしても変異を止めるような構造や機構や淘汰圧力が働かない以上 変異は暴走的に起こり続けるのである

キツネの遺伝子が変異しやすいことも もはやキツネにはどうしようもない「結果」であって 民族浄化バイアスを持った個体種への淘汰圧力が働かない個体種以外が生息環境に適応できない以上 変異種は全て排除死滅せざるを得ない

ゲノムも習性も 主体的には選択不可能なのである

 

客観的に見れば武力戦争には何の合理性もないことは明らかなのだが ヒトは主観的に「気に入らない相手を排除差別して民族浄化をしておかないと不安」な習性があるため 死刑を伴う刑罰で「全てが解決」したことにしなければいられないのである

武力紛争の全ては 他民族や他国家に対する「懲罰」である

終いにゃ自国民にまで暴力を振るうようにもなる

ミャンマー軍事政権や香港警察による国民弾圧は 太平洋戦争に突入していった日本政府のやっていることと構造は同じである

ヒトはかつて 祖先の時代には統率的な協調性によって他民族を差別排除することで生き延びた生物の末裔なのである

だから戦争や暴力や刑罰や差別排除がいつまでもなくならない

ヒトはイマヌエル:カントが言うような叡智界になど属していないのである

多くの大衆や「哲学者」達は 訳のわからぬ実証不能の謎の屁理屈を大量に陳列された後に 「人間は叡智界に属しているのである」などと言われれば 根拠もない勝手な決め付けであるにも関わらず 主観的に満足することで鵜呑みにし 何の疑いも持たなくなる

これは洗脳そのものである

洗脳されている人々は 気分的に満足で安心だからこそ 洗脳だと自覚できない

「人智を超越」し「絶対に知覚することができない」叡智界なんぞを鵜呑みにして信じている方が頭が どう考えてもおかしい

現状の哲学界というのは そういう頭のおかしいキチガイの巣窟なのである

 

多くの大衆やマスコミは そうは「思わない」だろう

主観的に「思わない」自分を事後正当化する形で 疑いすら持とうともせず 誰一人検証もしない

「自分だけは絶対に間違えてなどいない」と主観的に「思って」いるからである

自分の主観を絶対だと「思って」いれば DaiGoのように「ホームレスは殺せ」という主張にも簡単に陥るし 梅沢富美男のように「相模原障害者施設虐殺事件の犯人など死刑にしちまえぇ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得ることも簡単である

それらはとても簡単なことなのである

 

 


Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする