書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

皆で渡れば怖くない

2021年08月23日 14時23分57秒 | 意識論関連

イワシのような食物連鎖の底辺に近い生物の場合 繁殖力が強く大半が他の生物の餌食になっても絶滅せずに「生き残る」ことができ 「種の保存」になる

個体の生存価値というのは非常に低く たまたま先天的に逃げるのが遅いなどの理由で淘汰され続けることによって 逃げ足の速い個体への淘汰圧力が働き「進化」が促される

決して「個体の安全性が確保されるようには進化」することはない

それでも 「種の保存」に適し 「環境との調和」にも適すれば 死滅せずに「生き残る」ことができる

こうした過酷な自然界における淘汰圧力や遺伝的進化を人間社会に持ち込むことはできない

100人中1人が死んでも 99人が生き残っているから「種の保存」だなどというバカげた話を人間社会に持ち込むから優生学などというオカルト観念が温存されることになるのである

「種の保存」は別に人間社会の目的ではなく 単なる自然界における生物の結果に過ぎず 「死滅せずに生きてさえいれば生物」と分類しているだけの話である

ヒトという種の生物は ここ数万年ほとんど進化していない 文明から隔絶された原住民であっても紛争による死亡率は1%程度であり この程度の淘汰圧力では遺伝的進化を促すまでには至らないからである

社会形成習性や民族浄化バイアスはヒトに進化する以前からあったものであり ヒト以外でも見られるものであって ヒトにまで進化してから獲得した性質ではない

逆に言えば ヒトに進化した後でも 社会形成習性や民族浄化バイアスがなくなるようには進化していないのである だからヒトは差別や紛争をやめることが出来ない

 

遺伝的進化に頼れば 都合の良いように淘汰圧力をかけ 他人を選別して殺害したり 断種によって「優れた遺伝子」以外を全て抹殺しなければ 遺伝的進化は促されない

自然界における遺伝的進化のメカニズムを人間社会に持ち込めば 自ずから優生学的オカルト観念を受け入れざるを得なくなるのだが 現状の生物学界はそれを許容してしまっているのである

ヒトは遺伝的進化をする必要性はなく むしろ変異による多様性を活かす方向で個性を活用することによって より合理的で効率的な人間社会を作ることも可能なはずである

個人の差異に優劣をつけ 順位序列をでっちあげることは差別にしかならない

それでも ヒトという種の生物は 先天的な民族浄化バイアスによって少数異端者を排除しようとする先天的習性自体は「進化」的になくなることはない

遠い将来的にはゲノム解析やゲノム編集によって先天的本能習性に由来する欠陥を減らすことも可能になるかも知れないが それは現状ではまだ夢物語に過ぎず 現状の先天的なヒトの本能習性基づく欠陥を補いながら社会を形成する以外に選択肢はない

 

「種の保存」も「生存」も 生物の結果であって 決して「人間としての目的」に適するわけではない

差別主義者を抹殺しても ゲノム自体にさしたる違いがない以上は 誰でも差別主義に陥る危険性は持っているのであって 差別主義に陥る原因究明と再発防止策によって差別主義者を生み出さない社会を作ることが重要なのである

遺伝的進化に頼るのではなく 先天的結果に過ぎぬ行動習性の欠陥を 社会全体で共有認識自覚し 欠陥に由来する諸問題を解決してゆくことで 「人間としての社会性」を発揮し「社会構造の進化」もできるようになるのである

高橋祥子は「生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」などと言っているが 実際には「繁栄」などと称して地球環境の許容量を超えて異常大量繁殖した結果 地球環境を食い尽くして絶滅する方向をも持ってしまっているのが現実であり 遺伝子頼みに本能習性のままに行動していても何も問題は解決することはない

遺伝的進化の結果として組み込まれている先天的欠陥を自覚し 錯覚によって促される非合理な行動を避けなければ 絶滅への方向性を避けることはできなくなる

 

「繁栄」などという耳当たりの良い言葉の「印象」に騙されてはならない

「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などと言われれば 多くの大衆は気分が良くなって信じ込みたくなるのかも知れないが それはただのデマに過ぎず 真実を歪める大衆迎合や洗脳に過ぎない

 

認知的不協和を解消するためには 気分の悪くなる話に耳を貸さなければ良い

その結果 文明が破綻しても それは私の責任の範疇ではない

私個人でそこまでは面倒を看きれないし

看るつもりもない

何が本当に正しい話なのかを 客観的に見分けられないバカが大半なら 嘘やデマを信じ込んで暴走破綻に陥るだけである

暴走破綻は「怖く」はない

洗脳というのは安心満足だから「怖く」はないのである

 

 

Ende;

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生物学上の正義

2021年08月23日 09時36分27秒 | 意識論関連

「危険を冒す、開拓を好む」という性質にも、遺伝的な個性が関係しているということが最近わかってきました。新しい可能性を模索する人と、逆に保守的で変化を嫌う人の2つのタイプが存在することによって、種全体の生存の可能性も上がると言われています。

 どちらかのタイプに偏っていたら、いずれ人類は絶滅するでしょう。同じ観点から述べると、ストレス耐性が強い人も弱い人もいますが、ストレス耐性が強いということが優れているとは限りません。危険に直面したときに不安に感じて逃げる人がいるから、人類は生き残ることができたのです。

高橋祥子(たかはし・しょうこ) 出典:https://diamond.jp/articles/-/278480

 

⇨ナチス政権の勃興において 「不安に感じて同調迎合した」方が生存には有利である

「種全体の生存可能性」だけを論じても 社会持続可能性に適するわけではなく むしろ身勝手で利己的な個体種への淘汰によって社会持続可能性を著しく損なう先天的「習性」を持ったヒトだけに収束(進化)する構造の方が強く働くことになる

生物学者というのは 結果と目的を完全に履き違えており 進化の先に絶滅破滅の可能性があるとしても結果こそが万能だと信じて疑わないのである

祖先がかつての自然環境下において生存にとって有利な行動が進化的に組み込まれたとしても それは全て「結果」であって その「結果」のせいで人間性や社会の持続可能性に対する重大な欠陥を持ってしまっているとしても無視するのである

それを誰も無責任だとは「思って」いない

生物学者にとっては 生存こそが絶対的正義であり「死ななければ正しい」のであって たとえ女房子供が殺されても 「生き残ってるんだから良いだろ」という論理を押し付けてくるのである

生物学者というのは 「種として保存されて」さえいれば「人類の存続」であって その内容が殺し合いだろうが騙し合いだろうが何でも構わないのである

生物学者にとっては倫理も人間性も社会持続可能性も どうでも良いのである

種として「生き残る」ことさえできれば良いのが生物学者の正義というものである

ナチスに反対して自決を余儀なくされようが 死んだ者には何の「評価」もしないのが生物学である

ただ「生き残る」だけならヒトである必要性はなく ゴキブリで充分である

無責任な誰かの引き起こした「人災」によって何人の人が死のうとも「生き残って」さえいれば「種の保存」で「正しい」という理屈にしかならないとしても それが生物学上の「正義」の正体である

 

こんな話を鵜呑みにしている竹内薫も相当イカれている

 

ヒトの多くは論理的根拠に基づいた客観的証拠なんぞどうでも良くて 既存の「常識」的な観念に則った雰囲気うや「印象」だけで物事を判断するのである

主観的に気分が良くなる「信じたい話」だけを信用し その話に客観的根拠が伴うかどうかは誰も検証しないし したがらない


かつて祖先が暴力的統率者に怖れ 同調迎合することで協調的に多民族を抹殺して「生き残った」としても それが「種の保存」にさえなれば生物学上は「生存」であり「正しい」こととして扱われるのである

「生物の行動は、個体として生き残って種として繁栄していくように遺伝子的に規定されています。」(高橋祥子)という話は嘘である

全ての生物が「種として繁栄」できたわけではなく 膨大な淘汰圧力の「結果」として特定の種の生物だけが「種として繁栄」できただけであって これからも永遠に「種として繁栄」できる保証はどこにもなく 今後絶滅しない保証は何もないのが遺伝的進化というものの実相である

たまたま今生き残っているからと言って これからも永久に生き残って繁栄できる科学的根拠なんぞどこにもないのであって 「遺伝子に規定されている」などという話には何ら科学的根拠はない

「生き残った」という結果だけを絶対的正義だとみなし 結果的に組み込まれた先天的性質の全てまでも正当化しているのは ただの「こじつけ」であって 科学でも何でもない

こうした科学的根拠のない話を鵜呑みにしているバカだけが評価を受けるのが生物学界の標準(常識)なのであり 「科学としての信頼度」は極めて低いと認識すべきである

 

生物学上では 多様性さえあれば「生き残れる個体」も出てくることで 「種の保存」などに適すると主張するのだが

多様性によってたまたま生存に適した個体が生き残ることだけを「種の保存」に適する可能性について述べているだけであって 「大部分が死滅しても偶発的に生き残りさえすれば良い」というのが生物学上の「正義」である

この話を鵜呑みにしていれば 「生存に適さない障害者などは死んでも構わない」という優生学のコンテキストを正当化することにもなるのである

人間社会の中で淘汰圧力を正当化することはできない

「誰も取り残さない」のが人道であり 人間性や倫理である

たとえ犯罪者であっても 死刑にしたりせず 更生治療や再発防止の研究材料として利用することも必要なのである

それがひいては被害者も減らし 安全性や持続可能性への貢献ともなるのである

もしも遺伝的進化を正当化するのであれば 感染症も治療などせずに 感染するがままに放置しておくことで
たまたま免疫力の強い個体だけが生き残ることで「進化」が促されることになる

そこに倫理や人間性なんぞあるわけがないだろ

バカか

 


Ende;

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道具

2021年08月23日 07時31分15秒 | 意識論関連

資本主義という制度手続き自体は所詮「道具」に過ぎない

道具ということは たとえば包丁を料理に使うか 通り魔に使うかで結果は大きく異なる

資本を何に どう用いるのかで結果は大きく異なる

利己的利益だけを追求し 社会安全性や持続可能性への配慮を怠れば 社会破綻への道に暴走することになるが

最初から社会安全性や持続可能性のために資本を用いれば 社会の破綻は避けることができる可能性も出てくる

道具を使う「ヒト」の問題 「ヒト」の人間性や倫理性いかんによって 結果は著しく異なるのであって

どの道具を選ぶのかを議論しても あまり意味はない

何の道具であっても危険性は存在するものであって 包丁が危険だから使用を全面的に禁止しておけば安全だという話にはならない

資本主義という道具の危険性を認識し 安全に運用するためには 運用する「ヒト」の人間性が最も根源的な問題なのである

 

「経済」とは 本来は「経世済民(世の中を通じて民衆を救済する)」の略であって 利己的金儲けのことではない

地球環境に適した人口を遥かに超えている現状からは 明らかに生産性の総量は減らさざるを得ない

地球環境を破壊してまで利益追求を続ければ 破綻は免れない以上 これからの時代は限られた生産量の中で いかに効率良く分配するのかを優先しなければならないのであって 「利己的利益さえ追求しとけば社会全体が潤う」などというアダム・スミスの「見えざる神の手」妄想を鵜呑みにしている場合ではない

「見えない何かに誘導されているから 自分は何も考えずに欲望のままに行動しておけば良いんだな」的に 都合の良い身勝手な解釈をすることによって ヒトはバカに陥り 暴走破綻への道を変えることが出来なくなるのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」の人気も 悟性だの純粋統覚だの叡智界といった「絶対に知覚することができない」という実証不能の謎の観念を鵜呑みにしておけば 大衆や「哲学者」共は安心満足し その内容がただのファンタジーで 哲学でも何でもないことには誰も気づかなくなる

バカは 何が真実なのかが見えない

見ようともしない

「見たくない」のである

カルト宗教にのめり込んでいる信者に対して 「お前が信じている教祖はキチガイだぞ」と教えても拒絶反応しかしないのと同じ心理構造によって バカはバカが治らない

ヒトは 「信じたくない」話は理解したがらない

 

 


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死者の数

2021年08月23日 06時22分49秒 | 意識論関連

トロッコ問題における選択において 「何人死ぬか」は倫理とは無関係である

どちらを選択しても基本的に当人の責任問題には一切ならないからだ

たとえ誰も死なないとしても 誰かに危害が加わる可能性がある事案を放置しておけば責任問題になり これは倫理や人間性が問われるが

トロッコ問題というのは もはやどうしようもない状況の中での「死んだ人数」の話だけであって これは倫理の話ではない

しかし マイケル:サンデルはトロッコ問題の話の冒頭で「さあ 倫理の話をしよう」と言っているのである

 

「人が死ぬこと」の全てが倫理の問題になるわけではない

何万人死のうが当人には不可抗力な選択であれば 倫理的責任問題には問われないからだ

「サバイバーズギルド」のように 目の前で大量の死者が出るような状況だと 不可抗力でありながら「何か出来たことはあるんじゃないか」という感覚的な「罪悪感」を感じてしまうことはよくあることだが

これは錯覚に過ぎない

トロッコ問題というのは 「死者の数」を選択させることによって あたかも倫理的責任問題であるかのような錯覚をさせているだけであって 本当は「倫理の話」ではないのだ

 

これもまた 主観的な「印象」操作によるペテンの一種である

たとえどんなに「悩ましい」問題で「悩んで」も そもそもそれが倫理とは無関係であることには気づかないのであれば それは何も「考えて」などおらず

ただのバカに過ぎない

 

 


Ende;

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