◯道徳という欺瞞
道徳というのは基本的に「誰かが作った規範」の押し付けでしかない
その「誰かが作った規範」が どのような状況においても常に正しい結果を導く根拠が全く示されていないのである
いわば宗教における頭ごなしの「戒律」と同じで 合理的な根拠がまるでないのだ
ヒトという種の生物は 「これさえやっときゃ 全ては解決」という短絡的解決法を鵜呑みにしておけば満足する習性がある
これは統率的協調行動習性において 特定のボス(権威)に盲目的に服従する習性によるものであって その気分的安心満足によって ヒトは物事を自律的に判断することを放棄するようになるのである
人間性や倫理とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」であって 主観的に信じたい権威が決定した規範や規則を盲目的に信奉することではない
「個人が自律的な社会的責任判断選択」とは あくまで論理客観的根拠に基づいた本当に社会安全性や持続可能性にとって最適な判断であり 個人の主観的好き嫌いで決まるものでも 単なる主観の多数決で決まるものでもない
人間性や倫理の本質とは何か その論理客観的根拠に基づいた判断選択が伴わないから 「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済」だとか 「刑法判決で解決」などという根拠のない風説を鵜呑みにしてしまうことに陥るのである
「学力偏差値=知能」というのも大衆観念上の風説に過ぎず 「道徳が人間性や倫理に適うものである」というのも論理客観的な根拠は何もない
ルールに従うことが絶対であるならば立入禁止の鉄道線路軌道上に2歳児が迷い込んでいたとしても 助けには行かないことが「正しい」ことになってしまう
近くの踏切の警報機が鳴り出し 一刻の猶予もない事態において 機械手続き的に法律ルール規則規範を守ることが常に人間として「正しい」選択になる理屈はない
誰か「ヒト」が作った規則規範である以上 常に正しい完全無欠のものである保証はない だからこそ立法機関で改正したり新しく作ったりし続けなければならないのが法律というものであり 法手続きというものは その適用において法律の主旨に基づいた運用をしなければならないのである
誰にも迷惑がかかっていないのに「飲食店内で客が踊っていたら問答無用で店長逮捕」だとか 「メルカリで肥料売ったら犯罪だ」という話になってしまうのである
逆に 法律上禁止されていない状態であれば危険ドラッグは違法ではなかったのである
「法の下の平等」とは 所詮その程度の「平等」に過ぎない
どんなに法律を整備しても 社会を形成する市民個人個人が自律的に社会的責任を負わないのであれば 社会は崩壊にしか至ることはない
逆に言えば 個人が自律的に社会的責任判断選択を出来ていれば 最低限の法律以外は必要がない
そもそも警察官や官僚が犯罪を犯すこともある以上 法手続き自体は「絵に描いた餅」に過ぎないのである
道徳教育の危険性とは 権威に対する盲目的服従性を押し付けることによる個人の自律判断の喪失を促してしまうことである
◯罪とは何か
法律に触れていなくても社会的に迷惑な行為というものはあり 逆に法に触れても倫理上必要な行動というものもある
人間性や倫理の本質とは 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり 何が本当に社会的責任行動になるのかを自律的に選択できることが前提である
「本当に 人間として正しい行動とは何か」を 自分が置かれた状況や環境に応じて判断できる必要性がある
カルト宗教に感化されて「地下鉄に毒ガス撒くことが人類の救済だ」と盲目的に信じ込んでしまったり 政府が「1億玉砕」をスローガンにしているからといって「特攻隊は英霊だ」と盲目的に信じ込んでしまっていたのでは 人間性も倫理もスッタクレもないのである
ここ数年では ISILのような集団組織的テロは減り 個人が各々に暴力破壊をする「ローンウルフ(孤独な狼)」が増えているという
自暴自棄な通り魔やテロリストというのは 自分が社会の中で存在し続ける根拠を持っていないのである
主観的に この社会の中で生きていても何も楽しいとも美しいとも感じないからこそ 社会もろとも破壊して「終わり」にしようと道連れにしたがるのである
だが 実際の通り魔というのは 毎晩酒に溺れ脳を麻痺させ ネット上での人気取りばかりに執着する評価承認欲求中毒患者であって 自ら能動的に人生の楽しみを見つけることができない不満を社会の所為にこじつけているからこそ 方向性や具体的合理性のない無差別暴力をやらかすのである
社会は確かに不平等で 不条理不公平が存在するのだが そうした社会の問題点を論理客観的に原因究明をして 問題を丹念に解決するための建設的な工夫や努力を積み重ねなければ あらゆる社会の問題は解決することはない
本当にすべきことは何なのか 最も社会にとって重要なのは何なのか そういった論理客観的な真実を見極める能力が大半のヒトには欠けているからこそ 社会が「方向性を見失った著しいバカの温床」になってしまうのである
「こんな奴は死刑にしちまぇ!」などという大衆迎合に便乗して勝手に盛り上がって満足しているバカがあまりに多いからこそ 「俺のような奴は 死刑になればええんじゃ!」などという雑な最終解決に暴走するバカが出てきてしまうのである
これは 相互に相手を「敵」とみなした報復合戦にしかならない
フォートナイトというゲームでは チームを組んで協調的に相手チーム(敵)との殺し合いを行うゲームである
競技の全ては基本的に相手よりも優位に立つことを競うものであり 団体チーム戦では協調的に相手から得点などを奪い合うことを楽しむものである
それをなぜやるのか
主観的に楽しいからである
客観的には何の役にも立たない
敢えて意味をこじつければ 団体競技で得点を競い合うことを楽しむことによって 先天的な統率協調行動習性を満足させ 暴力性の暴走を抑えることに寄与することにはなる
それなら体育会系集団でありさえすれば暴力的な行動や反社会的行動をしないのかと言えば そんなことはなく 「学生寮で大麻栽培」などというバカ丸出しなことも珍しくはない
他人からの評価や 他人との比較順位に執着することなく 個人的な楽しみとしての純粋行為によって 自分の脳内麻薬を自給自足できていなければ 本当の満足を得ることは出来ず 反社会的な行動であっても平気でできるようになるのである
何が楽しいと感じるのかは 人それぞれであり 一概に「これさえやれば満足する」といった方法論があるわけではない
なぜなら 満足を感じる脳自体がそれぞれ違うものであって 脳が違う以上 何を楽しいと感じるかもそれぞれ違うのが当たり前である
だからこそ小柴昌俊氏が言うように「実際にある程度やってみないとわからない」のである
自分の脳をどうやったら満足させられるのかは 実際にあれこれ実践してみないとわからないものなのである
他人と比較して生活水準が高いとか 手取りや資産が多いとか そんな物質的なことで個人の幸福が決まるわけではない
道徳教育的に「他人のために生きることこそがヒトは最も幸福」などと押し付けられても それを鵜呑みにできるおめでたい奴はそうそういるものではない
そもそも そんなおめでたい奴なら道徳教育などしなくても他人に迷惑をかけようとは思わないのである
「生育環境ガチャ」で当たりを引いて 自分が生きていること自体を楽しめている奴なら 何もわざわざ他人に迷惑をかけようとは思わないものである
自分が生きていても何も充実感を感じないように育ってしまっているからこそ 自己客観性も働かずに他人の迷惑にも一切配慮できないようになっているのであって こうした不平等は子供の養育環境からは徹底して排除しなければならない
「子供は社会の財産」であって 続き柄上の「親」の個人所有物ではないのである
運悪く劣悪な環境で育ってしまったことを嘆いても仕方ないことであり 自分が何をしていたら楽しいと思えるのかは もはや他人を頼ってもどうにもならないものである
自分の取り扱い方は 自分でみつける他はない
清原和博は麻薬に手を出してしまってから「世の中のためになりたい」などと言い出したが 「世の中のためになる」以前に 「世の中の迷惑になるようなことに手を出さない自分」をみつけることが先である
優先順位を間違えたまま無駄な努力を積み重ねようとすることが そもそもの間違いの素なのである
自分が生きていて楽しいと感じられれば 自ずと社会(他人)への配慮もできるようになるものである
それは私のような「ヒト嫌い」であってもである
Ende;