書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自意識という嘘

2020年11月21日 23時00分18秒 | 意識論関連
何や知らんが三島由紀夫が密かに人気を集めているだとか

あのね 気分的に共感して満足するのは勝手だが 気分的共感を根拠に言っている内容まで鵜呑みにするのはただのバカだからな

誰かとの共通する感情だの観念だのを共有しておけば 気分的な満足が得られるのかも知れないが それこそが洗脳の入口だからな

個人的な好き嫌いをどんなに他人と共有しても その個人的好き嫌いが社会的価値の論証になどならんからな

ヒトは 自分が本当は自分一人であることを認めたがらず 何が何でも多数との共感を求めようとする習性があるようだが それこそが先天的本能習性によって促される無意識な行動バイアスだかんな

共感を求めて「ダンゴ」になってりゃ安心してヘイトスピーチでもイジメでもできるようになる その主観的気分こそが洗脳を引き起こし 自己客観性を喪失させ バカに陥る原因である



コンプレックスなんてのは 要するに「他人と比較して」という世間的価値観に基づいた感情であって 評価承認欲求が促す錯覚に過ぎない

「はずかしい」だの「かっこ悪い」だの そんなもん本当は他人の主観的なものであって 客観的には意味がない

上っ面ばっかり取り繕っている奴というのは 外見的な他人からの評価に怯えて本質的な個人的価値観を見失っているから 「見た目=自意識」という勘違いをする

世間の大多数がバカなら どんなに正しいことを言っても評価はされない

地動説だって火炙りにするのが「ヒトという種の生物」だということを忘れるべきではない

評価が得られないなら正しい行動が選択出来ないというのであれば 東電社内で原発の津波に対する脆弱性を放置した安全担当者を糾弾できた義理ではない

人間性の本質とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」であり 自律のためには社会環境に左右されてはならないのである

いちいち環境に左右されていたのでは 到底「自律」になんぞならんだろ

バカはすぐに流行という社会環境に流され 自律的な判断を放棄する

養老孟司が流行ればとびつき 「品格」云々の啓発本が流行ればとびつき やれマイケル:サンデルだ マルクス:ガブリエルだ 読書猿だと出版社の金儲けに騙されて満足する

リチャード:ドーキンスのお伽話が具体的に何かの役に立ったことがあるんですか? ないでしょ あるわけないですよ だって科学的根拠なんかないんですから

何が真実なのかを見極めるためには 他人とか世間からの評価や見た目という「環境」に左右されない確固たる主体性 本質的自己 本質的意識としての論理客観的検証性(考え)がなければどうにもならない

個人的な好き嫌いを述べるのは自由だが 個人的好き嫌いを社会的な行動に結びつけてしまえば無責任な洗脳にしかならんことを自覚しとけ






Ende;
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パンク修理

2020年11月21日 16時07分58秒 | 日記
個人ブログで「一日ウーバーイーツで走り回って3,000円くらい稼いだのに 途中でパンクしたまま走っちゃったもんだからチューブ交換込みで3000円くらい取られて 結局何もしなくても一緒だった」的な話があったんだけど

パンクくらい自分で治せばよかろうと それこそチューブ交換なら買ってきて入れ直すだけなら特殊技能はそんなに要らんだろうと思うんだが

修理道具や材料は100均でも入手できるので ポンプさえあれば数百円で済むはずです

ポンプばっかりは安物だと使い物にならないけど



◯パンク修理の手順

まずはバルブをはずしてから バルブの根本のナットを緩めておいて

タイヤレバーという道具を使ってタイヤをリム(ホイール)から外します この時タイヤレバーでチューブを潰して破いてしまわないように注意しましょう

タイヤの片側がリムから外れれば チューブが引き抜けますから どこかに引っ掛けて破らないよう無理な力を加えないようにチューブをタイヤから引き出します

この時 以前にパンク修理した部分がタイヤに張り付いていることがあるので ゆっくりと剥がしてください

外れたチューブのバルブを装着し 空気を入れてパンク箇所を特定するのですが 洗面器とかバケツに水を溜めてチューブを水中に入れて探すのが一番てっとり速い方法だと思います 意外と音や感触だけでは探せないものです

パンク箇所を探し当てたら パンク穴の周囲を紙やすりで擦って荒らします 貼り付けるパッチの大きさよりも倍くらいの面積を 艶や模様がなくなるくらいまでガシガシ削ってしまって大丈夫なようです

自転車屋さんだと電動工具で削るくらいですから 手作業でガシガシやるくらいは結構問題ないと思います

それが終わったら 次は接着剤を塗り 乾燥させてしまいます

接着剤を塗る量は どうも人によって結構違うみたいですが とにかく均一に伸ばすのが良いようです

一般的に接着剤というと 乾かないうちに貼り付けるものが多いのですが パンク修理用のパッチの場合は塗った接着剤の表面がほぼ固まっている状態にまで乾燥させないと貼れないようです

私の場合は塗って5分くらい放置してから貼り付けています

パッチの裏紙(アルミが多いようです)を剥がして パッチをチューブに貼り付けたら 本当は専用のローラーみたいのでゴリゴリ圧着するのが最善ですが そんなもんパンピーは持ってないので スプーンなどでゴシゴシと圧着しておきます

で 数分放置してから空気を入れ 再び水の中で本当に穴が塞がったかどうかを確認します パンク箇所だけでなく バルブも水中に入れて空気が漏れていなかを確認しておくと良いと思います

自転車屋さんでパンク修理を頼んだ場合 以前に修理したパッチに穴があいてしまっている場合はパッチの重ね貼りをするのを嫌がり チューブ交換を勧めてくるのですが オイラの経験的にはパッチの上からパッチを重ね貼りしても特に問題が起きた経験はありません ただしあくまでオイラ個人の経験則なので 心配ならチューブ交換をしてしまった方が良いかもしれませんが

パッチって どうも柔軟性が悪いためか パッチ部分が経年疲労で自然と破けてしまう傾向があるようです

で チューブのパンクが治ったら 今度はタイヤの内側にパンクの原因となった突起物がないかを手でさすって探しておきます

下手こくと指を切る可能性のある作業でもあるので ゆっくりと丁寧に探しましょう 軍手とかしておいても突起物なら引っかかるので あればわかると思う

更に タイヤの外側も一周探して 何か尖ったものが刺さっていないかを確認したら リムバンドっていうリムの外周(チューブが嵌る部分)のゴムバンドのバルブ穴と リムのバルブ穴を揃え バルブをリムのバルブ穴に合わせてチューブをタイヤの中に戻しながら タイヤをリムに嵌めてゆきます この時もタイヤレバーでチューブを潰して破かぬよう注意しながら戻しましょう

タイヤをリムに嵌める際に バルブの根本部分がタイヤの中に収まるようにバルブを中に押し込みながらタイヤを嵌める必要があります

チューブのバルブの根本がキチンとタイヤの中に収まっていないまま空気を入れたり バルブの根本のナットを締めてしまうとチューブが破けてしまうことがあるので 注意が必要です

キチンとチューブがタイヤに収まったらナットを嵌め(まだ締めない)バルブを戻して空気を少しずつ入れながらタイヤを外側からポンポン叩いてチューブのよじれや歪みを補正しておきます

オイラの場合はある程度空気を入れたら 再び空気を抜くという作業を3回くらい繰り返しています このやり方に意味があるのかは知らんけど

最後にバルブのナットを締めて出来上がり

以上ってとこかな



パンク修理の動画って探すと山ほど出てくるので 一通りあれこれ何度か見て予習しておくと良いと思う

パンク修理動画の一つ

↑この動画だと自転車を横に寝かせてるんだけど ペダルが地面について回らないので 基本的にタイヤは前にしか回らないことに留意

YouTube動画だと慣れた人がサクサクやってるので どこに注意したらいいのかがよくわからないかもしれない

初心者はタイヤを嵌める時にチューブをタイヤとリムに挟んで破いてしまうことと バルブ部分がキチンとタイヤに収まってなくて破いてしまうことがあるので 特に注意すると良いと思う



Ende;
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洗脳にワクチンはない

2020年11月21日 10時16分11秒 | 意識論関連
洗脳にワクチンはありません

洗脳というのは麻薬中毒と同じ構造ですから 細菌やウイルスのようにワクチンが作れるわけではないからです

洗脳というのは先天的な遺伝的欠陥に由来するものであって 「これさえ読んどきゃ洗脳されない」的な都合の良い話はないのです

麻薬を打つと ヒトはもれなく気持ちよくなります

その気持ちよさを「学習」する形でヒトは中毒に陥るのであって 主観的な気持ちよさこそを疑う必要があるのです

そのためには 主観的感覚が意識の本質ではないことを理解する必要があります

論理客観的証拠に基づいた検証によって 何が真実なのか 何が錯覚なのかを常に区別認識することで中毒や執着に陥らないようにする必要性があるのです

動物的な行動「学習」というのが そもそもドーパミンによって促される中毒(常習性)の働きによるものであり これが無意識な偏見として脳に刷り込み学習され ヒトは問題点を簡単に見失い バカに陥るわけです

純粋行為というものは いわば中毒性を主体的積極的に利用することによって 集中力と客観性を両立させることができるため 錯覚を錯覚だと認識することもできるようになるのです

他人から餌を与えられる形で集中しても 客観性は育たず 環境に左右されるだけのバカにしかなりません

バカなら麻薬を与えると死ぬまで使い続けるようになります

なんつってもバカですから サルと一緒で自発的には何も抵抗できないんですね

 ◇

「絵画鑑賞をすれば レオナルド・ダ・ヴィンチみたいに才能を発揮できる」なんつう話にも人気があるそうで

こんなバカみたいな話を鵜呑みにできるヒトがいかに多いかの証明みたいな話ですわ

いいですか ヒトの脳というのは人それぞれ全部違うわけであって 特定の天才の事例を根拠に「これさえやっときゃ才能を発揮できる」なんつう都合の良い話なんかないんですよ

ダ・ビンチの才能の発揮の仕方は ダ・ビンチの方法論であって 他の人とは違うんですよ

田中耕一の才能の発揮の仕方もありますし 千住真理子の才能の発揮の仕方もある

小柴昌俊の才能の発揮の仕方も 全部違う

脳が違うんですから 学習の内容も手法も全部違うんですよ

一概に「天才と呼ばれる人達に共通する学習内容や手法」があるわけではない

むしろ 他の人とは違うことに興味を持っているからこそ 他の人とは違う希少な能力を発揮し これが「天才」として扱われることになる

でもね ヒトって他の人と違うことが不安になって どうしても同じことをやっている方が安心する先天的習性があるため 大半のヒトは凡人にしか育たない

だから 凡人に共通する頭の悪さというものは特定できるわけです

養老孟司とか読書猿とかマルクス:ガブリエルのように 大量の知識をひけらかされると 大衆の多くは「この人は頭が良いんだ」と錯覚し 内容に論理的な穴や飛躍があるかどうかのファクト(真偽)チェックをしなくなってしまい 根拠がなくても鵜呑みにする

主観的に安心だったり満足感が得られる 自分の主観にとって都合の良い 「気分の良くなる話=正しい話」という短絡的判断で信じ込むことで洗脳される

「認知的不協和理論」における「心理的な合理化」って 論理客観的根拠に基づいた合理的判断ではなくて むしろ主観的に気分が良くなる話を合理性と勘違いしていることを「合理化」と形容しているんですよ

「学力成績=本質的な知能」という 大衆観念に基づいた風説デマを鵜呑みにしていたことには 大半の人は気づいていませんから 学力成績が高かった人というのは「自分は絶対に頭が良いんだ」という主観的思い込みを疑いたくないんですね

宇治原ナントカ君も そんなことをヒステリックに主張してました

学力成績が高いと 「誉めて貰える=気分が良い」という方程式を 動物的な行動学習的に学習してしまうことによって 「気分が良くなること=正しいこと」という短絡的判断しかできなくなります

学力成績という基準自体を 誰が どのような根拠で決めているのか 本当にその基準は正しいものなのかについてのファクトチェックなんぞ誰もしていないのに ヒトの多くは「誰も疑っていないから それは疑わなくても良いもの」だと思い込む

「多くのヒトが信じている価値観は 論理客観的根拠に基づいて誰かが保証してくれているものだ」とでも勘違いしている

そうやってヒトはバカになる

天才に共通する手法はないんですが バカになる共通の構造はある

自分(ヒト)のどこが どのようにバカなのかを客観的に分析理解し バカに陥らないようにできれば才能を発揮することも可能になるかも知れませんが 才能を発揮したからといって世間的に成功できる保証はありませんよ

遺伝子の研究で有名なメンデルのように生前は全く評価されないこともあるかも知れませんし ガリレオ・ガリレイのように火炙りにされそうになるかもしれません

フィンセント:ファン:ゴッホも評価されたのは死後ですから 「才能=世間的評価」になる保証はありません

評価している奴らがバカしかいなければ 地動説は火炙りにされるんですよ

逆に 評価している大多数がバカなら 「これさえやっときゃ頭が良くなる」的なデマの方が簡単に人気が得られる

「不条理」でしょ ジャン:ポール:サルトルはそれを「嘔吐」という小説で表現しました

「人間は 即自存在ではないが故に 即自存在化を求むる」これを理解するためには 「自分の主観の全てが自分の意思選択によるものではない」という客観的現実を理解認識する必要性があります

自分の主観の中の どこに錯覚があるのか 無意識な偏見が本当にないと言えるのか それを見つけ出すのは客観性です

バカや凡人に共通する性質とは 自己客観性の欠如であって 「自分が主観的に気分が良くなる話=正しい話」という短絡性がバカに共通する構造的形式です

幼女誘拐殺人犯の宮崎勤も「自分が気持ち良いことは正しいこと」という持論を主張していました こういう思考パタンというのは 犯罪者に共通する頭の悪さの根源的原因であり 重大なバカが発生する温床として 軽いバカが無数に社会に存在しているのが原因なのです

無責任に根拠のないデマを鵜呑みにしていても 多数なら主観的には「怖くない」でしょう

それなら 「怖くないこと=正しいこと」だという根拠があるでしょうか?




洗脳状態のヒトに対して 「お前はもう洗脳されているぞ」と言えば拒絶反応を示します

オウム真理教の信者に対して 「お前の信じ込んでいる教祖は頭のイカれたアンポンタンだぞ」なんて言えば 信者は「そんなことを言っているお前は地獄に落ちるぞ」と言うでしょう

「自分は絶対に洗脳なんかされていない 洗脳されているのはお前らの方だ」と 洗脳されているヒトは「思って」いるからです



皆さんは 大丈夫ですか?

まあ どう考えても大丈夫じゃないから私がこうやって説明してるんですけどね




Ende;
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南風

2020年11月20日 23時39分23秒 | 写真

風が強いと雲がキレイ

逆光煙突 Backlightchimney 英語として通用するかは知らんが

ISO1600使ってみた

ザラザラだな

 

Ende;

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認知的ワクチン

2020年11月20日 22時20分59秒 | 意識論関連

「公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると、学校で何かを教えなくてもいいという主張は、もうそんな伝染病なんてないのだからワクチンを打つ必要はないというのと似ています。(読書猿)」

「公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると」という仮説自体に根拠がない

事実 公の教育を受けている大多数の国民は認知的には何の免疫もなく 簡単にデマや洗脳に引っかかっているのであり 公の教育が認知的ワクチンとしては何ら機能していないからこそ 私がひつこく「意識の本質とは何か」を説明をしているのである

私も「古典文学よりもプログラミングの方が重要だ」という話を肯定するつもりはない

むしろ 個人的に「好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」とは 益川敏英氏の言葉でもある

つまり プログラミングが苦手だというのであれば それは無理くり強制するのではなく 「ザックリと概要くらいだけは現代社会の中で生きる上では知っておいた方が良い」
というレベルの話であって 古典文学の方に興味を持っている生徒であるならば むしろ積極的に古典文学を学ばせた方が良い

全員が同じ知識を持っているよりも 個々が違う専門知識を持っていた方が 同じ間違いに陥らないよう歯止めが効くのであって 現状の公的教育では大人が勝手に「何歳ならここまで」といったように年齢で教える内容を勝手に決めつけ 生徒の自主的意欲を無視して全員同じ能力に揃えようとすることが間違いなのである

学力成績という 他者から与えられる「脳への報酬」につられる形で 学力成績が上がると誉められることでしか意欲が働かない場合 誉めてくれる誰かがいなければ自主的主体的には何もしない人になってしまうことになる

すると 大学に入った途端「自分で問題を見つけて来なさい」と言われると困惑し 何もできないデクノボウに陥るのである

こうしたシーケンスを断ち切る必要がある

子供 生徒達一人一人は 興味に偏りがあり それぞれに好き嫌いの違いがある

今の教育では 100を教えて100を答えられると100点になる

しかし 実際の生徒というのは興味や得手不得手が全く異なるわけで 大人が勝手に決めた100の内容が 生徒の主体的興味や得意に当てはまるわけではなく たまたま記憶力が良くて教えたことを教えた通りに答えられる生徒の成績ばかりが高く見積もられる構造になっている

私が考える教育とは 1万の知識の海に生徒を投げ込み 生徒自身の興味に則って勝手に知識の海を泳がせ その中から100を答えられれば100点とすれば良い

現状の学校というのは 大学であっても教室で教師が生徒に「教え込む」という形式を採っており いちいち教師が教え込まないと何も覚えない生徒という構図がそもそも大間違いなのである

本を読めばわかることを いちいち教室で教え込む必要はない

むしろ 本に書いてあることに間違いがあることにも気づける判断力や検証能力こそが必要なのである

教師がやるべきことは カリキュラムに沿って生徒にいちいち何かを教え込むことではなく 生徒自身が学ぼうとしている内容を どう学べば良いのか そのやり方だけ教えれば良い

それでこそ本当の「学問の自由」と言えるのである

兵器に興味を持っても良いと思う

ナチスの列車砲の知識に精通すれば いかに戦争というものがバカげたものなのかも知るきっかけになるかも知れない

戦車が戦車だけでは戦闘に運用出来ず 歩兵部隊なしには戦車は動けない不便なものだと知れば 実際の戦闘というものがいかに残虐なものであるかを知ることになるかも知れない

インパール作戦の無謀さや ミッドウェー海戦での惨敗 ペリリュー島の戦闘など いかにヒトが愚かであるかを知ることにもつながる

偉そうに大人が生徒に向かって上から目線で教え込むのではなく ヒトはかつて重大な大失態を何度も繰り返している「残念な生き物」である事実も 次世代には語り継がなくてはならない むしろその方が最優先である

世代に関わらず ヒトとは間違えることのある「人間としての欠陥」が先天的に存在していることに基づけば 決して教師は上から目線で頭ごなしに「暗記しろ」などとは言わないだろう

「学問の自由」とは 生徒が知りたいと思うことを知る権利を保証したものであって 生殖や生理や死体の映像など年齢制限の必要な知識以外は誰でも知る権利がある

航空機に興味がある生徒なら 航空機事故の知識も必要であり 鉄道に興味があるなら鉄道事故の知識を教えることもできる

大人が作り上げた社会が完全無欠のものではないことを知り 欠点や問題点を見つけ出すことによって 地道な対策こそが社会にとって重要であることを知るようになれば 短絡的に犯罪者の実家に落書きをしたり殺人予告をするといったバカげたこともしなくなるだろう

そうした丁寧さが現在の公的教育には著しく欠けているのである

「これさえやっときゃ 頭が良くなる」的な気分の良くなる話を鵜呑みにし バカみたいに浮かれている方がバカにとっては楽であろう

だからバカが治らない

 

 

Ende;

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読書猿

2020年11月20日 21時00分38秒 | 意識論関連

「現実的な弊害がある」と称しておきながら その説明はことごとく「だとするならば かもしれません」としか論じていない

仮定自体に根拠がない上 その分析にも根拠はなく ただの勝手な決めつけに過ぎず 何一つ「現実的な弊害がある」ことを論証しておらず この時点で嘘が確定している

 

「知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。」と述べているが 「知識のエコシステム」とは何か アナロジーだと仮定できる論拠もなく 勝手にアナロジー(類似)だと仮説を立て しかも結論は「かもしれません」としか述べていない

 

「古文や漢文を学ぶことをやめてしまうと 捏造マナー本が流行するかもしれません(意訳)」

いや だから論理的根拠の説明が何もないぞ

むしろ読書猿の言っていること自体が「捏造マナー本」レベルの話であって 論理的根拠のないデマの陳列に過ぎない

これを鵜呑みにできるバカが一体どれだけいるのかは知らないが ダイアモンドオンラインの編集部は「インターネットの「知の巨人」、読書猿さん。その圧倒的な知識、教養、ユニークな語り口はネットで評判となり、多くのファンを獲得」などと評している

物事の真偽というものは多数決で決定するものではない マスコミも含めてヒトの大多数は論理客観的に真偽の検証ができないバカであることを自覚認識すべきである

出版社は多数人気がある著書を出しておけば金が儲かるから出しているだけであって その内容に論理客観的根拠があろうがなかろうが 奴らには興味がない

「捏造マナーに騙されないようにするため」などと称して「捏造知能本」を売り出そうという魂胆である

これは悪質である

 

https://diamond.jp/articles/-/253174 -ダイアモンドオンライン

 


Ende;

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ヒトにとってバカになることはアヘンである

2020年11月20日 14時02分17秒 | 意識論関連

狩猟採集生活をしていれば「所有の概念がない」などという話にはならない

自己の所有を認めてもらうためには 他人の所有も認めるのが必然であり 「所有の概念が差別を作った」というのは理論的に無理がある

実際に 狩猟採集生活をしている未開の土地の原住民に「所有の概念がない」わけではなく ハラリの分析には理論的な穴がある

差別というものは ヒトの本能的な統率協調行動習性の暴走によるものであって 狩猟採集生活においては集団的な統率協調行動が生存にとって適していたため進化的に遺伝的性質として遺された

それが農耕によって集団が大規模化し 集団内部で全ての他者を把握できなくなったことによる不信感や猜疑心によって 順位序列への欲求が暴走することで差別を生み出すのである

狩猟採集生活においては 集団内部での信頼関係が必要で 互いを信頼し 個人が主体的に判断しなければ狩りはうまく行えない

ところが 農耕が普及すると集団規模が大きくなることによって 相互の信頼関係が把握しづらくなることで不信感や猜疑心を醸成し 信頼できる範囲内での統率協調性が 集団外の人達に対する差別感情を生み出したのである

暴力団が暴力団内部でしか信頼関係を持たないのも ゲリラやテロリスト カルト宗教やヘイトスピーチにおいても 自分達の集団内部における「ストーリー」だけを盲目的に信用することで 集団内部の信頼関係に頼った統率的協調性を暴走させるのである

同じ観念を共有し 集団内部だけでの相互信頼関係がもたらす主観的安心感(快楽)に取り憑かれることで 中毒症状を引き起こし 暴力破壊への暴走へと突き進むようになるのである

ヒトは 信じたいものだけを信じようとする習性があり 論理客観的には信じるに価しないかどうかは自律的に評価検証をしないものなのである

主観的に信じたいものだけを信じていれば 主観的には安心で満足で楽しいのであろうが 一旦間違ったものを信じ込んでしまうと 自分が信じ込んだものが間違いだったことを認めたがらず 認知的不協和を解消する形で自分が一度信じ込んだものを事後正当化するための様々な屁理屈(ストーリー)をでっち上げるようになるのである

こうしてヒトは実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑もかけるようになる

差別の原因は「所有の概念」とは無関係である

 ◇

イヌは 育て方を間違えると非常に凶暴になる

飼い主に対する盲目的信頼による服従欲求を満たすことができない不安に駆られ 誰彼構わず噛みつこうとするようになるのである

ところが 一定のメソッドを用いた訓練をすることによって イヌは飼い主を絶対的服従対象として認識し これによって無駄吠えや凶暴性を発揮しなくなるようにもできる

カール:マルクスは「宗教はアヘンである」と論じたが 「イヌにとっては服従はアヘン」なのである

共産主義は宗教を弾圧したが 共産主義社会の多くが封建的独裁に陥ったのは 結局宗教をイデオロギーに置き換えただけであって 経験値の浅い新興宗教やイデオロギーは暴走破綻に陥りやすいためである

イヌだけの集団においては ボスだけが特異に服従対象を持てなくなるために 他の個体への暴力性や交尾繁殖行動が促されるのであって 別にイヌが「より優秀な遺伝子を選択しよう」と考えているわけでも何でもなく 生物学者達による「こじつけ」的説明に過ぎない

よくしつけられたイヌというのは 家庭内においてボスとみなした対象に対しては異常な執着を発揮し 無意味に喜び興奮し うれしさのあまりに尿を漏らしてしまう程である

兄の家でイヌを飼っていたことがあったのだが 兄家族が家にいる時に私が兄の家に入ると イヌは私に対して吠えて威嚇するのだが

兄夫婦が外出中に兄の家に入ると 留守番をしていたイヌは仰向けに寝転がり 服従の意思を見せるようになる

イヌは その場限りに服従する対象をコロコロと転移させ 客観的な羞恥心のようなものが全くない

こうしたイヌの卑屈な行動は弘中綾香氏も子供の頃の経験を語っている

イヌをしつけるためには ヒトが首輪のリードを引っ張って主導権を掌握し イヌの主体的行動を一切認めなければ イヌは簡単に諦めてヒトの顔色を窺い服従するようになる

イヌはそもそも主体性などなく その場の環境や状況に応じた気分的に安心できる行動しかしない

しかし ヒトはイヌとは異なり主体的に脳内麻薬を自給自足することができる性質があり 決して本能欲望によって促される行動しか出来ないわけではなく

自発的に物事を考え検証し 自己の人生における最優先事項を見極めることも可能である

チンパンジーを餌で誘導して様々な能力を発揮させることは簡単だが 餌で誘導しなければチンパンジーは自発的には先天的本能習性以外に何かを行うようにはならない

しかし ヒトは大脳新皮質の肥大によって 結果的ではあれ純粋行為による脳内麻薬の自給自足もできるため 先天的本能習性にはない行動選択もできるように「も」なる

人間性や倫理というものは 先天的生得的に組み込まれた本能習性が促すものではなく あくまで自発的な論理検証性(考え)に基づいた目的行動選択によって発揮されるものであって

単なる先天的本能習性は全て「結果」であって 「目的」ではない

遺伝的進化というものは あくまで「生存」にとって適した形質や習性への淘汰であって 「生存」にとって適する行動の全てに持続可能性や安全性や 平等や公平性や 弱者に対する慈悲だけが遺るメカニズム構造は存在しない

チンパンジーが野生環境下で生き残るためには 他者を騙して自分だけが利己的に旨い餌にありつく行動を採るように進化したのであり 進化の全てが都合よく人間性にとって有利に働く保証は何もないのである

リチャード:ドーキンスのお伽話でも読んでおけば 衆愚は気分的に満足し 「自分は先天的に人間性が組み込まれた優秀な生物なんだわ」とでも勝手に妄想して優越感に浸れるのであろうが

それこそが思考停止の洗脳であり 実証不能の「ストーリー」に過ぎない

 

 

Ende;

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バカの正義

2020年11月19日 15時18分04秒 | 意識論関連

バカYouTuberの実家だと称して無関係な家に対して私刑をするバカがいるが

デマなのか事実なのかをファクトチェックしないで私刑的に嫌がらせを行うのは 何重にもバカ過ぎて話にならない

たとえ事実だとしても 犯罪者の家に落書きをしたり迷惑電話や殺人予告をすることも犯罪であることに違いはない

そもそも「罰は解決」ではないのである

社会的行動としては 論理客観的に原因を究明し 再発防止につなげることこそが重要なのであって

通り魔の実家を燃やしても 通り魔事件がおこならくなるわけではない

そりゃまあ 糞野郎の家に火を放ちたくなる気持ちもわからなくはないが それは個人的な感情論であって 客観的(社会的)には意味がない

本当に社会安全性を高めるために重要なのは 糞野郎がどうして糞野郎になったのかについての原因究明によって 子供たちが糞野郎に育たないようにするための知見を共有することである

バカがバカを殴っても 何の解決にもなりゃしないのである

それは「バカの正義」でしかない

 

 

Ende;

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ブタエモン

2020年11月19日 12時45分47秒 | 日記

未知のウイルスに対する感染症対策というのは どこまでやったら良いのかが科学的には「わからない」んですよ

だから もしかすると飲食店にマスクをして入ることには意味がないかも知れないし 意味があるかも知れない

だけれど あくまで「対策を徹底して」望むことが重要であって 個人的に「俺様がマスクをしたくないのに強要するのは非科学的だ」などという話は通用しない

飲食店がマスク装着をお願いするのは コンビニが強盗対策としてフルフェイスヘルメットをしたまま入店することを拒否するのと同じようなものであって 「俺はヘルメットを脱ぐのがめんどくせえ」からといって文句を言うのはバカとしか言いようがない

お店側がお願いしているルールに従うのは当たり前の話であって 店内は私有地であり 「他人の敷地の中」なのである

その国の中の法律に従うのと同様に そのお店の中では規則に従うのは最低限必要なものである

スーパー店内で備え付けのカゴを使うのが嫌だからといって 自分で持ち込んだバッグに商品を詰めてレジに持ち込まれていたら 万引き犯と客の区別がつかなくなるのである

もうね こんなバカみたいな理屈 説明するのもバカらしいわ

室山哲也とかホリエモンとか オイラに絡んできた豚野郎も 同じようなデブなので 何か見た目と人格に相関があるんじゃねぇかと疑っちゃうよ

わかんないけどね

 

 


Ende;

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選択肢

2020年11月19日 11時45分04秒 | 意識論関連

太平洋戦争の時の日本では 天皇に対する忠誠忠実さを過剰に求めた軍によって 国民を虐げるようになった

軍幹部は天皇に対する自分の忠誠忠実さを正当化するために 多数他人にも忠誠忠実さを求めた結果 封建的服従を強要するようになるのである

 

自己の服従性を正当化する形で 他人にも服従を強要することで 認知的不協和を解消する形で封建的体制を作り出すのである

何も考えていないバカの集団に過ぎない暴力団であっても 統率的協調行動が採れるのは それが単なる機械的条件反射な本能習性に過ぎないからであり この習性には「目的」がないため 統率協調性が暴走する形でヒエラルキーが形成されるのである

 

高校時代に同級生の一人が 特に何もないのに急にヘイトスピーチ的に絡んできやがったことがあり 私は衝動殺人型なので初めのうちは「?」としか思わなかったのだが 黙って見てたら調子に乗ってうるさかったので ブチギレて「うるせぇブタ!」と大声で怒鳴り散らしたら 急におとなしくなって 翌日には私の顔を見るなり うれしそうな顔をして「おはようございます」などと挨拶してきたのである

ブチギレて怒鳴り散らす相手に対して うれしそうに挨拶をするというのは 極めて卑屈な態度であり 客観的にみればどう考えても人間として恥ずかしい行為だと思うのだが コイツには自己客観性というものが著しく欠如していたらしいのである

まるで「イヌやサルをシツケた」かのような現象であった

あまりに極端な例なので 特異例として無視しがちだが 実はあらゆるヒトには先天的に「怖い相手には逆らわず迎合し服従する習性」がある

ただ 自己客観性の程度によって その発現の度合いが異なるだけであって 誰しもが先天的に持っている本能的な行動である

暴力的な相手には逆らわず 迎合的に服従して同調しておいた方が 集団内部ではイジメに遭わずに済むので 被害者にならないための最も短絡的な行動として加害者側に回るという卑劣な行為を ヒトはする習性がある

その方が「生存にとっては有利」であり 進化の過程における淘汰圧力として ヒトは卑劣な行動を優先するよう本能的に組み込まれているのである

こうした淘汰圧力というものは ヒトにまで進化する前の祖先のサルの段階で組み込まれたものであって 「サルの正義」は大脳辺縁系に組み込まれた本能習性としてヒトの脳にも組み込まれているのである

スタンレー:ミルグラムの服従心理実験 通称「アイヒマン実験」における権威に対する服従性の立証は ヒトは環境によっては権威の命令に従って他人に加害する危険性があることを立証している

何も考えずに 主観だけで服従したい相手に服従していると 本人が本当は意図していない無意味で非合理な暴力行為もしてしまうような「人間としての欠陥」がヒトには先天的に存在しているのである

ヒトは先天的にバカである

ヘイトスピーチに便乗し イジメに加担したり傍観放置したり 糞しょうもない嘘を鵜呑みにするのも 先天的にはバカだからである

こうした頭の悪さに起因する無責任さが原発の危険性を放置したことを忘れるべきではない

ヒトは先天的にはバカだが 後天的にはバカを脱することも可能である そのために必要なのは自己客観性である

自分の行いが社会全体にとって安全性や持続可能性にとって最適な選択になっているかどうかを「考える」理性こそが 人間性として働くのである

 

現代の文明規模の中で育てば人間性が高まると思うのは大間違いで 文明規模は人間性や倫理とは無関係である

釈迦が生きた時代は 別に現代文明程の規模はなかったが それでも現代のバカ「哲学者」よりも遥かに深い考えに基づいて論証している部分もある

釈迦は実は皇子である

国王の息子で 幼少期から何不自由なく城の中で暮らしていたが 城を一歩外に出ると国民が飢えや病で苦しんでいることに疑問を持ち 国民がどうやったら救われるのかを様々に実験工夫をした

当初はバラモン(ヒンデュー)の教えに従い断食で生き神になるという「修行」に挑戦したこともあったが それが本当は国民の救いになどならないことに気づき 途中放棄している

バラモンは階級差別の酷い宗教で 平等などという概念は当時のインドにはなかったのであり 階級差別というものを無意識な偏見として刷り込み学習してしまっていた当時の衆生を逆洗脳することは非常に困難を極めた

小乗仏教では当初「女性は仏にはなれない」という差別をしていたが これは当時の社会における「方便(便宜的嘘)」であり 後の大乗仏教では人以外ですらも人間性を獲得(成仏)することは可能だと説いている

城の中で何不自由なく生活していたことが 本当はかりそめのものだったことに気づき 衆生を救うためにはどうするべきなのかを生涯をかけて研究したのが釈迦である

幼少期に恵まれた環境で育ったことで 人間性として機能する素となったと言える

スーパボランティアで有名な尾畠春夫さんは幼少期に母親を亡くしているのだが その母親がとても優しい人だったそうである

ただ物質的に恵まれた環境で育つことが人間性を作るわけではなく むしろ貧乏でも親からの愛情に恵まれて育つことによってこそ人間性は育つのだと言える

逆に言えば ゲリラ社会で育てば もれなく残虐なゲリラに育つのがヒトなのである

生育環境に依らずとも 「縁」に触れることで仏(人間性)を得ることも可能ではある

得ること「も」可能だが 「も」は取れない

愚かな凡夫のままで 主観的な行動バイアスだけで無意識に行動していれば 六道輪廻をグルグル回るだけの虚しい生涯を送るだけである

あらゆるヒトが不可避な「死」というものが どう「生」きるのかと同義であることを釈迦は「色即是空」と説いた

ヒトは必ず死ぬ それなら 目先の利己的行動選択よりも 社会が安全で持続可能なものであることによる安心こそが 個人の人生にとっても最も重要なものであることに気づくことができる

論理客観的に考えても 永遠に生きることには何の意味もないことは明らかである

安全性や持続可能性こそが 自己が安心して死ねる最も重要な項目なのである

どうせ破綻すると「絶望」するのであれば 別に生き続ける必要性など何もないのである

「絶望は罪である」と説いたのは キリスト教徒のセーレン:キェルケゴールである

当時の教会の組織腐敗の原因が 教徒達の愚かさに最大の原因があることを指摘したのであり 主観的な絶望感によって誰もが社会に対する奉仕の心を忘れていることを痛烈に批判した

 

「精神性」とは 具体的に何か

要するに「個人が自律的に社会的責任判断選択を行うこと」という 倫理や人間性と同義である

バカはすぐに盲目的に誰かに同調し バカげた実証不能の観念を鵜呑みにして統率協調的に他人に多大な迷惑をかけたがる習性がある

実証不能の観念を それと認識出来ないのは バカで 錯覚を錯覚だと自分では認識出来ないからである

ちょっと冷静に「考え」ればわかることでありながら 目先の多数や権威の言うことの方を盲目的に信用することで 組織腐敗は起こるのである

独裁というものは 独裁者個人だけで構築できるものではなく あくまで独裁者に同調し迎合する愚かな「イエスマン」の集団によって独裁体制は作り出されるのである

オウム真理教も 教祖を信奉したバカの多数によって構築されたものであり 教祖がただのオカルトであることを認識していれば洗脳は起きないのである

 

様々な無意識が作り出す「錯覚」は 先天的なヒトの欠陥に由来するものであって 錯覚を錯覚として認識理解する「意識(精神・論理客観的検証性)」によって錯覚が促す間違った行動に陥らないようにすること「も」可能である

「も」は構造原理的に除去不可能である

それは私の責任ではなく 各々個人の責任の範疇である

私は「ヒトを作った神」じゃねぇからな

ヒトは神が作ったものではなく あくまで自然環境下で「死なずに生き残った生物」の一種に過ぎないのである

ただ 絶滅するかどうかは選択「も」可能である

「選択をしない」という選択肢は 本当はない

 

 

Ende;

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ユヴァル:ノア:ハラリ(2)

2020年11月19日 01時10分00秒 | 意識論関連

§:7万年前 認知革命

◯100万人が協力し合えば大きなことができる

⇨力の規模の大きさが人間性や倫理の論証にはならんよ

力の規模は道具の一つに過ぎず 道具を何に用いるのかの選択にこそ人間性や倫理が介在する

 

◯お金はフィクション ⇨お金は約束だよ 約束もフィクションの一種ではあるけど 一応根拠や保証はあるので単なる根拠のないファンタジーとは区別すべき

 

◯宗教のように「これを信じなければならない 話は終わり」という押し付けをすべきではない

規範意識 同調圧力

 


§:1万2000年前 農業革命

◯農業革命とは支配することである 所有の概念

⇨権力者が国民を所有したがることで封建的社会が出来上がるわけではなく 特定の権力者に対する盲信性によって過剰な順位序列を求めることで 格差貧困が生ずるのである

順位序列に固執する者というのは 実は暴力威圧的に抑圧すると むしろ喜んで服従するようになる

怖い相手に服従することが快楽なために 服従対象を過剰なまでに奉仕するために 順位序列が低いとみなした相手を必要以上に虐げるようになる

他人を蔑むことに異常執着する者とというのは 実は非常に卑屈で 盲目的に権力者や神を信じ込んで服従したいという習性の裏返しである

暴力団のようなバカの集団でも統率的協調行動ができるのは 暴力的な恐怖や力に頼って服従迎合しておくことが 本能的に安心な習性があるからだ

 


◯複雑なストーリーを受け入れることが必要

⇨ヒトは単純なストーリーばかりを受け入れたがる先天的愚かさを持っている

それは「主観的に気分が良くなること=正しいこと」という主観が促す錯覚を 錯覚として認識しづらい先天的欠陥があるからだ

 


◯私達(ヒト)は有罪

⇨罪の概念に対して 人は短絡的に罰で償えるものだという錯覚を抱きがちだが 過失失敗というものは原因を究明し再発防止策を立てることこそが最も重要である

過ちは繰り返さないことこそが社会安全性や持続可能性にとって最も合理的だからである

罰や償いは優先事項ではない

 

◯人類自らアップグレードし 別の何かに進化する

⇨そもそも現状の「ヒト」の何がどう問題なのかを理解しないままではアップグレードは不可能である

ハードウェアとしてのヒトの先天的欠陥が何なのかを理解しない以上 何をどう「アップグレード」するというのか その論拠がない

 

◯地球規模の団結が必要

⇨フィクションやストーリーというものは所詮本能習性に過ぎず これらに頼ることは錯覚に陥る危険性も伴うことになる

重要なのは「本当に社会安全性や持続可能性にとって最も合理的で優先されるべき行動」を選択することであり 論理客観的検証性(理性)こそが意識の本質であることを理解し 認識することである

つまり 本能習性によって促される「団結」ではなく 理性によって選択する「自律」こそが「本当のこと」を認識区別する上において最も重要なのである

バカがバカのまま団結しても何にもならない

 


Ende;

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絶対に「役に立ってはいけない理由」はない

2020年11月18日 15時03分40秒 | 意識論関連

「哲学は役に立たなくても良い」というのは

あくまで「すぐには役に立たなくても良い」という意味であって 「役に立ってはいけない」わけではない

科学においてもニュートリノの観測やカオスの研究がどこまで役に立つのかはわからないが わからないがゆえに「役に立つ可能性が否定できない」からこそやってみる価値が残されているのである

役に立つか立たないかがわからないのであれば 試してみる価値はあるが 論理的に役に立たないことが立証されていることを正当化するための言い逃れに「役に立たなくても良い」と言い出すのは ただのこじつけやはぐらかしである

哲学とは「考えること」であり 「考えること」とは論理客観的検証を意味するのであって 主観的に満足して思考停止することは哲学ではなく 論理客観的な根拠の積み重ねによる反証主義によって 真理(本当のこと)とは何かを追求することが哲学である

科学的論証に主観を持ち込んではならないが 哲学では主観も扱うとは言え 個人的な主観だけで真理だと言い張るのは哲学を逸脱している

「哲学には好き嫌いがある」とも言われるが そんなもん何にだって個人的好き嫌いなんぞあるのは当たり前の話であって 個人的な好き嫌いだけを根拠にご都合主義的に何でも真理として扱って良いわけではない

ただの個人的な好き嫌いを述べているだけなら文芸芸術との区別はなくなる

ただの個人的な好き嫌いだけを哲学として扱っていたからこそ 亀山郁夫によるドストエフスキーの読書感想文までもが哲学として扱われていたのである

ドストエフスキーは単なる文芸である

読んで面白いとか 感動したとか そういう主観的感想の羅列は哲学ではないのに 放送大学で「哲学」として分類し放送していたのは無責任極まりない話である

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は カントの勝手な妄想ファンタジーに過ぎず これもまた哲学ではない

実証不能の謎の「叡智界」には根拠がまるで示されていないのであり これを哲学として扱っていた時点で現状の哲学界は無能なデクノボウの集まりに過ぎない

フリードリヒ:ニーチェだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルだのといった およそ哲学とは無関係な妄想観念までをも哲学として扱っていたのは 現状の哲学界には無能なデクノボウしかいないことの証拠である

2020年の文化功労賞では哲学者が受賞していたが 哲学界の基準自体がバカげている現状で文化功労賞もヘッタクレもなかろう

松沢哲郎は「チンパンジーの行動習性から 人間としての社会性を立証できるかも知れない」などという 論理客観的には立証不可能で身勝手な予測をしておきながら 言っている本人は5億円もの研究費の不正流用をしていたのである

松沢哲郎の人間性に問題があるのに「チンパンジーの人間性」なんぞ立証できるわけなかろうて

あまりにもお粗末過ぎて話にならない

 

たとえ専門外だとしても 益川敏英や畑村洋太郎に対して論理的に説明できない話であれば これは哲学でも何でもない

益川敏英や畑村洋太郎が理解できない話を どうやって学生達に理解させるつもりであろうか

バカな学生達はニーチェを教え込むと「カッコイイ」だの「センター性がある」などと主観的感想を根拠に「素晴らしい」などという これまた主観的感想しか論ずることはない

つまり 「何も考えていない」のであって 主観的に「感じた」とか「思った」ことの強度程度に基づいて哲学(考え)だと勘違い錯覚しているに過ぎない

 

もし哲学が「絶対に役に立ってはならない」というのであれば 哲学はそもそも学問ではない

学問ではないことを学問として扱っているのであれば これは単なる嘘でしかない

菅義偉首相が どういう理由で日本学術会議の任命拒否をしているのかは知らないが 学問ではないものを学術会議に任命していたのでは国民に対する背信行為であろう

学問の名を借りたペテンであるならば それは排除する義務が首相にはあるだろう

 

 

Ende;

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ペテン

2020年11月18日 00時55分08秒 | 意識論関連
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」においては 「子供じみた好奇心=理性」という決めつけをすることによって理性を批判しているのだが

子供じみた好奇心というのは 科学や哲学の動機(きっかけ)にはなっても それだけでは論理的根拠を伴う科学的客観性になるわけではない

ただの好奇心による「答え」の追求だけでは科学として成立することはなく オカルトだろうがファンタジー妄想だろうが主観的気分が満足したことで盲目的に信じ込んでしまったのでは科学を簡単に逸脱する

単なる子供じみた好奇心というのは 欲望ではあっても理性ではない



一方で 大脳辺縁系を損傷した人に選択を求めた場合に 「わからない」としか答えないことを あたかも「子供じみた好奇心と同じだ」などと称して理性批判にこじつけている「科学哲学者」もいる

名前は忘れたが東大哲学科の教授だった

大脳辺縁系を損傷した人は 決して子供ように「なぜ?」を繰り返して「答え」を追求したりはせず あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としか答えないのであって これは好奇心とは関係がない

大脳辺縁系を損傷している人というのは 理性以外がほとんど働かない状態であるということができることから これは純粋理性状態と見て良いだろう

純粋理性状態の人は別に子供じみた「答え」の追求などすることはなく あくまで他人から選択を求められた場合に「わからない」としとしか答えないだけであり カントの純粋理性批判の論拠とは全く別のものである

にも関わらず 東大哲学科の教授は これを「同じだ」などと称してカントの純粋理性批判を正当化し 論理客観的検証性よりも主観の方が人間性を伴うかのように言い張っているのである

また繰り返しになるが カントの「純粋理性批判」の論証とは 悟性だの純粋統覚だの叡智界などといった実証不能の謎のファンタジー妄想でしかなく 論理的には何も立証しておらず そもそも「哲学」ですらない



「哲学」とは 本来「考える」ことを指すにも関わらず 東大哲学科の誰も「何も考えていない」のである

養老孟司の訳のわからぬ根拠のない「寝言」も マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルだのリチャード:ドーキンスだの 挙げたらキリがないほど論理客観性を逸脱した訳のわからぬ妄想観念が放置されてきたのは 現状の哲学界が何も「考え」ていないデクノボウの集団に過ぎないからである

哲学が主観も扱うからといって 単に個人的な主観だけで普遍性のある客観的根拠もなしに真理を勝手に決めつけて良いわけではない

個人的な好き嫌いは 個人の内部においては事実ではあるが それは「主観的な事実」に過ぎず 他者との間に共通する普遍性の論証にはならない

ある人物が「障害者は社会の負担にしかならないから殺害すべきだ」と思っているからといっても それは主観的な思い込みに過ぎず 普遍性を伴った人間性や倫理に理する論証にはならない

それと同じで カントの純粋理性批判を主観的に正当化しても それが論理客観的な普遍性ある根拠に基づいた倫理や人間性の論証になるわけではない



哲学史を研究していた奴が文化功労賞を受賞したが 過去の歴史を「知って」いるだけでは「哲学(考えた)」ことにはならない

それなら哲学史の研究は哲学ではなく ただの歴史研究に過ぎない

科学の歴史においても かつては錬金術も科学だと思われていたが それは現在科学としては扱われることはない

ところが 哲学に関しては古典を絶対的なものだと盲信し 一切批判することなく実証不能の観念であっても鵜呑みにし 未だに「叡智界」などという何の応用性も立証できない話であっても哲学扱いしているのである

これはもはや学問の名を借りた詐欺ペテンである






Ende;
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優先順位

2020年11月17日 16時17分59秒 | 意識論関連

◯道徳という欺瞞

道徳というのは基本的に「誰かが作った規範」の押し付けでしかない

その「誰かが作った規範」が どのような状況においても常に正しい結果を導く根拠が全く示されていないのである

いわば宗教における頭ごなしの「戒律」と同じで 合理的な根拠がまるでないのだ

ヒトという種の生物は 「これさえやっときゃ 全ては解決」という短絡的解決法を鵜呑みにしておけば満足する習性がある

これは統率的協調行動習性において 特定のボス(権威)に盲目的に服従する習性によるものであって その気分的安心満足によって ヒトは物事を自律的に判断することを放棄するようになるのである

 

人間性や倫理とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択をすること」であって 主観的に信じたい権威が決定した規範や規則を盲目的に信奉することではない

「個人が自律的な社会的責任判断選択」とは あくまで論理客観的根拠に基づいた本当に社会安全性や持続可能性にとって最適な判断であり 個人の主観的好き嫌いで決まるものでも 単なる主観の多数決で決まるものでもない

人間性や倫理の本質とは何か その論理客観的根拠に基づいた判断選択が伴わないから 「地下鉄に毒ガスを撒くことが人類の救済」だとか 「刑法判決で解決」などという根拠のない風説を鵜呑みにしてしまうことに陥るのである

「学力偏差値=知能」というのも大衆観念上の風説に過ぎず 「道徳が人間性や倫理に適うものである」というのも論理客観的な根拠は何もない

ルールに従うことが絶対であるならば立入禁止の鉄道線路軌道上に2歳児が迷い込んでいたとしても 助けには行かないことが「正しい」ことになってしまう

近くの踏切の警報機が鳴り出し 一刻の猶予もない事態において 機械手続き的に法律ルール規則規範を守ることが常に人間として「正しい」選択になる理屈はない

誰か「ヒト」が作った規則規範である以上 常に正しい完全無欠のものである保証はない だからこそ立法機関で改正したり新しく作ったりし続けなければならないのが法律というものであり 法手続きというものは その適用において法律の主旨に基づいた運用をしなければならないのである

誰にも迷惑がかかっていないのに「飲食店内で客が踊っていたら問答無用で店長逮捕」だとか 「メルカリで肥料売ったら犯罪だ」という話になってしまうのである

逆に 法律上禁止されていない状態であれば危険ドラッグは違法ではなかったのである

「法の下の平等」とは 所詮その程度の「平等」に過ぎない

どんなに法律を整備しても 社会を形成する市民個人個人が自律的に社会的責任を負わないのであれば 社会は崩壊にしか至ることはない

逆に言えば 個人が自律的に社会的責任判断選択を出来ていれば 最低限の法律以外は必要がない

そもそも警察官や官僚が犯罪を犯すこともある以上 法手続き自体は「絵に描いた餅」に過ぎないのである

道徳教育の危険性とは 権威に対する盲目的服従性を押し付けることによる個人の自律判断の喪失を促してしまうことである

 

◯罪とは何か

法律に触れていなくても社会的に迷惑な行為というものはあり 逆に法に触れても倫理上必要な行動というものもある

人間性や倫理の本質とは 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり 何が本当に社会的責任行動になるのかを自律的に選択できることが前提である

「本当に 人間として正しい行動とは何か」を 自分が置かれた状況や環境に応じて判断できる必要性がある

カルト宗教に感化されて「地下鉄に毒ガス撒くことが人類の救済だ」と盲目的に信じ込んでしまったり 政府が「1億玉砕」をスローガンにしているからといって「特攻隊は英霊だ」と盲目的に信じ込んでしまっていたのでは 人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

ここ数年では ISILのような集団組織的テロは減り 個人が各々に暴力破壊をする「ローンウルフ(孤独な狼)」が増えているという

自暴自棄な通り魔やテロリストというのは 自分が社会の中で存在し続ける根拠を持っていないのである

主観的に この社会の中で生きていても何も楽しいとも美しいとも感じないからこそ 社会もろとも破壊して「終わり」にしようと道連れにしたがるのである

だが 実際の通り魔というのは 毎晩酒に溺れ脳を麻痺させ ネット上での人気取りばかりに執着する評価承認欲求中毒患者であって 自ら能動的に人生の楽しみを見つけることができない不満を社会の所為にこじつけているからこそ 方向性や具体的合理性のない無差別暴力をやらかすのである

 

社会は確かに不平等で 不条理不公平が存在するのだが そうした社会の問題点を論理客観的に原因究明をして 問題を丹念に解決するための建設的な工夫や努力を積み重ねなければ あらゆる社会の問題は解決することはない

本当にすべきことは何なのか 最も社会にとって重要なのは何なのか そういった論理客観的な真実を見極める能力が大半のヒトには欠けているからこそ 社会が「方向性を見失った著しいバカの温床」になってしまうのである

「こんな奴は死刑にしちまぇ!」などという大衆迎合に便乗して勝手に盛り上がって満足しているバカがあまりに多いからこそ 「俺のような奴は 死刑になればええんじゃ!」などという雑な最終解決に暴走するバカが出てきてしまうのである

これは 相互に相手を「敵」とみなした報復合戦にしかならない

フォートナイトというゲームでは チームを組んで協調的に相手チーム(敵)との殺し合いを行うゲームである

競技の全ては基本的に相手よりも優位に立つことを競うものであり 団体チーム戦では協調的に相手から得点などを奪い合うことを楽しむものである

それをなぜやるのか

主観的に楽しいからである

客観的には何の役にも立たない

敢えて意味をこじつければ 団体競技で得点を競い合うことを楽しむことによって 先天的な統率協調行動習性を満足させ 暴力性の暴走を抑えることに寄与することにはなる

それなら体育会系集団でありさえすれば暴力的な行動や反社会的行動をしないのかと言えば そんなことはなく 「学生寮で大麻栽培」などというバカ丸出しなことも珍しくはない

他人からの評価や 他人との比較順位に執着することなく 個人的な楽しみとしての純粋行為によって 自分の脳内麻薬を自給自足できていなければ 本当の満足を得ることは出来ず 反社会的な行動であっても平気でできるようになるのである

何が楽しいと感じるのかは 人それぞれであり 一概に「これさえやれば満足する」といった方法論があるわけではない

なぜなら 満足を感じる脳自体がそれぞれ違うものであって 脳が違う以上 何を楽しいと感じるかもそれぞれ違うのが当たり前である

だからこそ小柴昌俊氏が言うように「実際にある程度やってみないとわからない」のである

自分の脳をどうやったら満足させられるのかは 実際にあれこれ実践してみないとわからないものなのである

他人と比較して生活水準が高いとか 手取りや資産が多いとか そんな物質的なことで個人の幸福が決まるわけではない

道徳教育的に「他人のために生きることこそがヒトは最も幸福」などと押し付けられても それを鵜呑みにできるおめでたい奴はそうそういるものではない

そもそも そんなおめでたい奴なら道徳教育などしなくても他人に迷惑をかけようとは思わないのである

 

「生育環境ガチャ」で当たりを引いて 自分が生きていること自体を楽しめている奴なら 何もわざわざ他人に迷惑をかけようとは思わないものである

自分が生きていても何も充実感を感じないように育ってしまっているからこそ 自己客観性も働かずに他人の迷惑にも一切配慮できないようになっているのであって こうした不平等は子供の養育環境からは徹底して排除しなければならない

「子供は社会の財産」であって 続き柄上の「親」の個人所有物ではないのである

 

運悪く劣悪な環境で育ってしまったことを嘆いても仕方ないことであり 自分が何をしていたら楽しいと思えるのかは もはや他人を頼ってもどうにもならないものである

自分の取り扱い方は 自分でみつける他はない

清原和博は麻薬に手を出してしまってから「世の中のためになりたい」などと言い出したが 「世の中のためになる」以前に 「世の中の迷惑になるようなことに手を出さない自分」をみつけることが先である

優先順位を間違えたまま無駄な努力を積み重ねようとすることが そもそもの間違いの素なのである

自分が生きていて楽しいと感じられれば 自ずと社会(他人)への配慮もできるようになるものである

それは私のような「ヒト嫌い」であってもである

 

 

Ende;

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選択の真理

2020年11月17日 11時51分39秒 | 意識論関連

身勝手な実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけたがる奴というのが時折いる

集団組織的に誰かを「悪者」や「敵」とみなして統率協調的に同じ観念を共有して攻撃することで 先天的な社会形成習性を満足させられることができるため 半ばシーケンシャル(自動的自然・条件反射的)にイジメや差別というものは発生する

 

イジメや差別を行うための屁理屈として 根拠の乏しいこじつけ「ストーリー」を様々にでっちあげ これを誰も客観的に検証することなく主観的満足や安心を満たす形で集団統率的に協調して「実証不能の観念の振り回し」を引き起こすのである

それは宗教や民族とは無関係に 個人が主観的に嫌いな相手を攻撃するためにでっち上げたものに過ぎず 差別やイジメというのは集団組織的に誰かを攻撃することで主観的に満足するための中毒症状であり 本能の暴走に過ぎない

「仲間同士で誰かを攻撃していると楽しい」のである

そういう人間としての欠陥が ヒトには先天的に存在している

 

「嗜虐」というものは 獲物を捕る際に発揮される情動であり 獲物を押さえ付けて殺害して喰うという行動を促す動物的本能の一つであるが これは必ずしも狩猟捕食以外では発揮されないわけではなく 性欲を満たす場合にも発揮されるものでもある

女性の身体に勃起したペニスを挿入して喘ぎ声に興奮する場合にも 嗜虐性は発揮されるものである

かつてヒトがヒトにまで進化する遙か昔 祖先が森の中で巨大恐竜達に怯えながら生きていたい時代には 異性を見つけたらとにかく強制的に交尾しないことには繁殖にはならなかったため 繁殖行動が暴力的になるという「生存や種の保存にとっての必然性」はあったと言えるが そもそも生存自体が結果に過ぎない以上 繁殖にも目的などなく あくまで繁殖した個体種が「死なずに生き残った」ものを「生物」と分類しているに過ぎない

 

集団レイプをしても「自分の遺伝子を遺す」ことにはならない

輪姦してしまったら誰の子供かわからなくなってしまうし そもそも集団レイプというのは子供を作ることが目的ですらない

単に妙齢の女性を強姦して楽しむことだけが目的であり この場合における「目的」とは 目先の本能欲望を満たすことだけであり 合理性は一切伴わない

本能欲望に合理性があろうがなかろうが 進化の過程において特定環境下における「生存や種の保存にとっての必然性」はあるとしても それは生存という結果にとっての必然性だけであって それ以上には意味がなく そもそも本能欲望自体は自発的に選択することのできない「結果」でしかなく 選択不可能なものに目的も合理性もヘッタクレもないのである

 

先天的本能習性によって促される行動バイアス(欲望)には 合理性が伴う必要性がなく あくまで欲望によって促された行動が結果的に特定環境下において生存や種の保存に適した「結果」以上には意味がない

先天的な本能習性というものは 急激な環境変化には対応できるものではなく 環境変化にその都度適応するにはかなりのコストが必要であり 失敗(絶滅)する可能性も充分にあり 遺伝的な進化というものは不確実で偶発的な「結果」以上に意味はない

従って 本能習性のままに行動した結果 絶滅しても 誰も責任を取ってはくれないのである

 

ヒトが現代社会において塩分や糖を過剰摂取したがるのも 祖先が塩分や糖の乏しい生息環境下において積極的に塩分や糖を摂取する習性を持った個体種への淘汰圧力が働いた結果であって それが現代社会への適応を妨げ 生活習慣病の根源的要因となっているのである

ヒトは 農耕などの文明社会を作り出したことによって 生活に余裕を持てるようになり 交易を発達させたことによって 持て余した「暇」を同種同士の無駄な暴力によって先天的本能欲望を満たそうとして差別や紛争暴力を引き起こしているのである

差別や紛争暴力には 何の合理性もない

それは強姦と同様に何か目的意識によって主体的に選択した行動ではなく あくまで先天的に組み込まれた動物的な行動習性である本能欲望に基づいた行動であり 合理的な目的など介在する余地はない

凶悪殺人犯に対して「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と 感情的に怒鳴り散らすことによって大衆の人気を得ることは簡単であるが テロリストや通り魔を死刑にしてもテロや通り魔事件の原因究明にも再発防止にもならず 死刑などの刑罰自体が社会安全性にとって無駄なものであり 社会的に無責任な制度に過ぎないことを無視した犯罪者差別にしかなっていないのである

そりゃ 私とて殺したいバカはいるものだが それは私個人の主観的感情論であって 殺したところで社会安全性が高まる合理的根拠は何もない

社会安全性や持続可能性を優先しない倫理や人間性は成立しない

どんなに多数の個人的主観を多数決で集計しても そもそもヒトの先天的本能である限りそこに合理的な目的など存在せず バカや通り魔を何人死刑にしても通り魔が発生する原因究明や再発防止になるわけではない

「司法判決で解決だ」という錯覚は 言うなれば生活習慣病のようなものに過ぎず 「塩中毒」同様に「刑罰中毒」に陥っているのであり これはヒトの先天的本能習性によって促される無意識な行動バイアスの結果であって 合理的な目的が存在するわけではない

刑罰などの暴力的な威圧によって 何かが解決すると「思って」いるのが錯覚なのであり 本当は暴力威圧というのは「それを実行しておけば主観的に満足で安心できる行動」に過ぎない

司法の本来の社会的役割とは 安全性を高めることであって 法手続きに則って多数大衆のご機嫌取りを優先しておけば安全性は無視しても良い理由にはならない

罰というものが多数大衆の合意の元に正当化されていても それが社会安全性にとって非合理なものであることが反証できるわけではない

何度も言うが 社会安全性を優先しない倫理や人間性は成立しないのである

罰というのは いうなれば犯罪者差別に過ぎず 法に触れた場合にのみ手続き的に罰を与えているだけであって 合理的な安全性の確立には全くならない

刑法罰という 社会的に無責任な制度を鵜呑みにしていることに合理性は何もないのであり 社会的に無責任な制度に何の疑問も持たないことが法手続き上違法ではないとしても 道義的には「罪」なのである

 

人類は歴史上様々な罪を犯してきた それに対してどう「償えば良いのか」という発想自体が間違いなのである

危険学や失敗学では 賠償よりも再発防止が優先される

「失敗」そのものが起きないようにすることの方が社会にとっては重要なのであって 事が起きてから償ったり贖(あがな)ったりしていても 被害は減らないからである

松永莉子パパが「再発防止を優先して欲しい」と主張するのは 罰がどうであれ 既に起きてしまった事象は回復のしようがない以上 もはや「二度と自分のような地獄を誰にも遭わせたくない」という「考え」に基づいたものである

感情的には 「どうして重大事故になるまで誰も止めずに放置した」と 無責任な行動を取ったあらゆる特定人物の全てを糾弾したいであろうが ヒトである以上同じ過ちを犯す可能性は誰にでもある以上 事故を教訓として家族の死を無駄にしないための選択をしているのである

松永莉子パパは もはや自らの地獄を解消することは叶わないからこそ 自らの感情を後回しにして 他人である社会全体の安全性を優先する選択をしているのである

何か重大事象が起きる度に「死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして軽薄に大衆人気を集めることは簡単であろうが あまりに考えが浅すぎて無責任極まりない大衆迎合であって 社会安全性を蔑ろにした戯言である

松永莉子パパの真意を汲み取らず 漫然と多数派に同調し 国家権力に迎合している無責任さを 多くのヒトは全く自覚していない

そうした愚かさこそが「人類の罪」であり 「罪」は償うことよりも先に原因を究明し再発防止を優先する理性の方が重要なのである

罰などの報復感情には合理性はない 報復感情は社会安全性に一切寄与しないからである

感情などの先天的本能習性の全てには合理性はないのである

先天的本能習性によって促される様々な感情の中から 最も自己存在にとって優先されるべきものは何なのか それを論理客観的根拠に基づいた「本当の選択」をすることによってのみ 人間性や倫理として機能するのである

「本当の選択」を見極めるためには 論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)の追求が必要であり 目先の感情や行動バイアスにふらふら無意識に流されていて人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

 

Ende;

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