路上に新品のニラが落ちてた
ネギとかニラとか長いものが新品の状態で路上に落ちているケースが結構ある
以前にも言ったんだけど エコバッグ的なものにネギポケット的なものがあれば落ちないんじゃないかと思うんだが
折角農家さんが丹精込めて育てたネギやニラを 路上のゴミにしてしまうのはあまりに忍びないので ナントカならんものかと思うのです
いや 別に特許的な権利をオイラは主張しないよ
他の奴はどうだか知らんけど
Ende;
路上に新品のニラが落ちてた
ネギとかニラとか長いものが新品の状態で路上に落ちているケースが結構ある
以前にも言ったんだけど エコバッグ的なものにネギポケット的なものがあれば落ちないんじゃないかと思うんだが
折角農家さんが丹精込めて育てたネギやニラを 路上のゴミにしてしまうのはあまりに忍びないので ナントカならんものかと思うのです
いや 別に特許的な権利をオイラは主張しないよ
他の奴はどうだか知らんけど
Ende;
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が 本当は哲学でも何でもないカントの妄想ファンタジーに過ぎないことを理解しておらず 「道徳律」を鵜呑みにして道徳教育に何の疑問も持っていないバカが教師が 「ハズレ親なら論理科学的に分析すれば良い」などと言い出すのは支離滅裂である
バカというのは自己の頭の悪さを認識していないので 自分にとってその場限りに都合の良い話をこじつけて何かを論証したかのような満足に浸るというバカげたことを平気でやらかすものである
それはもう「教師ガチャ」の大ハズレである
もはやネット上で曝して良いレベルであろう
生徒が「親ガチャハズした」と言うのであれば それは生徒の親を分析する絶好のチャンスであり 生徒が親のどういった部分に不満を持っているのかを詳細に聞き出し 一緒になって「ハズレ親」とはどういったものなのか 論理客観的に分析する方法論を教えることも必要である
何にも論理客観的に分析判断できないバカ教師から「ハズレ親なら分析してみろ」などと言われても 意味がさっぱりわからない
生徒が「ハズレ親」だと認識している場合なら 親が主観的気分で子供に暴力を振るってくる可能性もあることを考えれば 生徒が親に対して持っている不満は親には内緒にしておく必要もある
そういった配慮も含めて生徒の声に耳を傾ける丁寧さが教育には必要なのであって 自分の頭の悪さを棚上げにして都合の良い話だけこじつけていたら生徒は社会に対する不信感や猜疑心ばかりを持つようになってしまい それは社会にとって重大な損失となる
教師も親も社会的責任を負わないバカだらけの中で育った生徒なら そりゃバカにしか育たないのは必然というものである
ただ生活のための金稼ぎで教師をやっているだけで 教育というものの社会的役割を理解していないバカ教師は多い
バカは形式だのマナーだの手続きばかりを押し付け それで気分的に安心満足するだけで 社会の何が問題なのか 教育の何が問題なのかを全く論理客観的に分析理解できていない
論理的に分析判断できていないバカ教師から 「ハズレ親なら分析してみろ」などと言われる筋合いはない
「目上は敬え」だの「家族が悲しむようなことをすべきではない」だのといった道徳の教科書を押し付けてくるようなバカを信用してはならない
誰がバカで 誰がバカではないのかを客観的に区別し 本当のことを言っている者を見つけ出す必要がある
真理とは 本当のことというのは 論理整合性があって 論理的齟齬がない話でなければならない
バカというのは徹底的にバカなので 本能のままにマウントかけて意味のわからぬ屁理屈を押し付けてくるものである
宮台真司のように生徒に対するヘイトスピーチみたいな論説をでっち上げ 大衆から人気を得ているバカも後を絶たないだろう
ヒトとはそういう「残念な生き物」であるという前提で 「自分はそういうバカにはなりたくない」という「意思」選択においてのみ人間性は宿るのである
それは絶望的で不条理な世界だが 安物の絶望に溺れてバカ同士で群れて暴力破壊や差別排除に邁進しても それは「バカの連鎖」にしかならず やっていることは結局バカな大人と一緒なのである
本当の「賢さ」とは 学力成績偏差値のことではなく 教えられた内容の 何が間違いで 何が正しいのかを論理客観的に区別判断できることである
偏差値が低いことを根拠に「自分はバカだから」などと卑下しても それは大人が勝手にでっちあげた「ストーリー」を鵜呑みにしているに過ぎない
ヒトは先天的にバカである
その頭の悪さをどうやって克服したら良いのかは 誰が考えても良い
科学的分析は職業科学者の専売特許ではなく 誰が行っても良い
天文学が天体の分類を一般の天文マニアにも手伝ってもらうように 本来哲学も開かれた議論が必要だが 現状の「哲学者」共は古典を鵜呑み盲信し 些末な枝葉を難解風味に語って煙に巻いているだけで 根本的な論理整合性の欠落を全く認識していない
多分 認識していても ごまかしはぐらかすことしかしないだろう
ごまかしておかなければ自分の頭の悪さを認めることになり失職する可能性が高い
国会原発事故調査委員会報告書において 事故の根本的原因として「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」だと結論づけている
これは あらゆる「人災」に共通して言える原因である
現状の教育というものはあまりにもシステム手続き化が進み過ぎており 教育そのものに対する批判も検証も全く行われない傾向が強い
組織が肥大化し システム化による効率化や手続き化が進み過ぎると 組織の剛直化を招き 問題が生じても改革することが困難になる性質がある
問題に直面した場合には すぐには問題が解決できないかもしれないが 問題点は大切に覚えておいて時間をかけて解決策を探る必要がある
先日亡くなった小柴昌俊氏も 「これは違うんじゃないかなと思ったことがあれば それは大事にとっておく必要がある」と述べていた
社会の問題点を指摘できても それがすぐに改善されるわけではない
なぜならヒトは先天的に人間として欠陥品だからである
重要なのは その欠陥に自分が冒されないことである
もちろん簡単ではないが 簡単なことなら誰でもできるのであって 難しいからこそやる価値がある
世間的評価を求めるのではなく 自分が感じた不条理や絶望を後世の子供たちに味合わせるべきではないという 主体的な強い「意思」に基づいて行動選択をしなければならない
それは主体性のないバカな大人から強制される筋合いのことではない
Ende;
狩猟採集生活の時代にも紛争はあったと考える方が自然で 現代においても文明から隔絶された原住民の間では一定の部族間紛争は見られ 土地の所有を巡る争いもある
それが農耕社会になることで集団の大規模化や効率化によって生活に余裕が出たことにより いわば暇を潰す形で集団内部での序列を他者に過剰に押し付け差別がより酷くなった
ヒトという種の生物は 先天的にはそれほど大きな規模の集団において統率協調習性を満足させられるようには出来ておらず 大きな集団になると内部で不平等に対する不信感を募らせ 一方的な序列によるヒエラルキーによって封建的な統率を行うことによって「秩序」をでっちあげるようになった
ヘイトスピーチをやっているような者というのは 基本的に暇で 酒だのクソゲーだのパチンコやギャンブルといった自堕落な生活を送っている奴が 自分の境遇における不満を他人のせいにしておくことによって自己の自堕落を「なかったこと(意識から外す)」にするために差別排除に邁進するのである
忙しい人はヘイトスピーチなんぞやらない
狩猟採集生活の場合 集団内部の他者とは仲良くなければ協調的に狩りを行うことが出来ず これは個人的にも不利になるので 自分の所属する集団内部においては差別排除をしている余裕はない
差別排除という行動は 社会を破綻に陥らせる無責任で非合理な行動であり この無責任さというものは社会全体の余裕が生み出した「暇」によって統率協調習性の暴走によって生じたものである
大脳辺縁系の活動が活発な「連続殺人型」の人の場合 本能によって促される情動を抑える理性が働きづらく 感情と行動が直結し 自分が主観的に感じている不満の矛先を 気に入らない他者に全ての原因があるものだと決めつける形で「ストーリー」をでっちあげるのである
純粋行為として 自分の脳を自分で満足させることが出来ている人の場合には 不条理な差別排除などをしている暇はない
元々は狩猟採取生活に適応して進化してきたヒトが 農耕文化による集団の大規模化には適応できず また効率化による生活の余裕「暇」を持て余すことによって 社会存続にとって非合理な差別や排除を行うようになった
統率協調習性というものは 元々順位序列によって特定の「ボス」に服従することで発揮されるものであり ヒトは元々平等が嫌いなのである
ヒトは特定の「ボス」に対して盲目的に信頼し 服従しておくことによって 結果的に統率協調性を発揮し これが狩猟採集生活においては比較的正常に機能していたが ヒト自らが発見した効率化による集団大規模化には適応できていないのである
もし遺伝的に適応進化が起きるためには 適応できていない個体を片っ端から殺害し続けなければならず 遺伝的進化の構造を人間社会に導入した時点で合理性も人間性も吹き飛ぶことになる
狩猟採集生活の段階においても 土地所有を巡る部族間の争いはあり 「所有の概念が差別を生み出した」というのは辻褄が合わない
狩猟採集生活の段階においては 集団そのものがそれほど大規模ではなかったため 集団内部の個人が集団全体を把握することが出来ていたことで 気分的に安心して集団内部の他者との信頼関係が持てていたのだが 他の部族との間には不信感や猜疑心によって「一定の紛争」は起きていた
実際に 文明から隔絶された狩猟採集生活をしている未開の原住民の間では 紛争による死亡者は1%に達すると言われ 決して「狩猟採集民族の方が平和的だ」とは言えないのである
死亡率が1%であれば 種の存続にとっては影響を及ぼす程ではないため 進化的には何の影響も及ぼすことはなく むしろ一定の紛争によって個体数を環境適応させられているのであれば 遺伝的進化にとっては都合が良いことになる
農耕による効率化は集団の大規模化によって 「一定の紛争」までもが大規模化することになり より残虐性を増すことにもなり 効率化による「暇」は他の集団に対する不信感や猜疑心解消するために軍備拡大競争を促すことにもなった
効率化というものは 合理的に利用すれば本来生活に余裕をもたらすはずのものでありながら 先天的に狩猟採集生活に適応してしまっている「ヒト」は本能的には適応することが出来ないため 無駄な差別排除という暴走破綻への道に邁進してしまうのである
先天的 本能的に適応出来ていないとは言っても これは所詮動物的な習性や行動バイアスに過ぎず これらが無意識であることを理解認識して合理的な目的行動選択を行う「人間としての意識」が働けば 本能習性に無為に流され暴走破綻に陥ることを回避することは可能である
ヒトという種の生物の ハードウェア的な「人間性の欠陥」を 知識や知恵を用いたソフトウェア的な「パッチ」を充てることによって 欠陥をリカバリーすることは可能であり 生命科学の神に頼った「ヒトVer.2.0」などという根拠の乏しい妄想ファンタジーに過ぎぬ「ストーリー」をでっちあげる必要はない
ヒトの大脳新皮質は充分な容積があり その使い方を理解できれば先天的な「人間としての欠陥」は補うことは充分可能である
Ende;
⇨ヒトがヒエラルキーを正当化する「ストーリー」をでっち上げるのは ヒトという種の生物が先天的に順位序列を決定しておかないといられない習性があるためである
農業革命の時期と奴隷制度が始まった時期が重なるのは 狩猟採集生活においては先天的な統率協調習性が獲物を「敵」とみなせることによって仲間意識を満足させることができていたためであり 過剰なヒエラルキーを必要としなかったのだが
農業革命によって「敵」としてみなせる対象(獲物)を失うことによって 共通の「敵(獲物)」を攻撃する仲間意識を満足させることができなくなり これが進化過程に組み込まれた統率協調習性の暴走を招くことで ヒト同士の中に必要性のない過剰なヒエラルキーを生み出し 更には主観的に嫌いな相手を統率協調的に「狩る」ことによって 先天的統率協調習性が促す仲間意識を満足させる形で差別を生み出し これがヒエラルキーを正当化する「ストーリー」のでっち上げの原因になったのである
遺伝的進化によって組み込まれた行動習性というものは 環境の変化にはそんなに短期間に適応できるものではなく 農業革命による統率協調習性が促す仲間意識を満足させることができなくなったことによって 差別排除によるヒト同士の暴力で本能的満足を代替せざるを得なくなっているのである
こうした先天的本能習性に起因する暴走行為というものは 先天的本能習性というもの 行動バイアスを作り出す感情というものが「人間としての本質的な意識」ではなく 単なる機械条件反射的な無意識に過ぎないことを「理解」する論理客観性が必要である
差別排除というものが社会にとって合理性がないことを理解するためには 差別排除行動自体が先天的本能習性によって促されている「錯覚」に過ぎないことを認識する必要性がある
錯覚を錯覚だと認識できれば 錯覚によって促される間違った行動には陥らなくなるからである
暴走するのは無意識だからであり 目的意識による選択可能性によって暴走は止められるのである
イジメやアオリ運転 ヘイトスピーチに邁進している者たちは 自分がなぜ誰かを差別していなければならないのか その理由や構造原理を理解しておらず
自分が既に差別を行っていることを事後正当化することによって認知的な不協和を解消する形で差別対象に対する様々な根拠の乏しい誹謗中傷(ストーリー)をでっち上げるのである
差別には宗教や民族は実は関係がなく 主観的に嫌いな相手でありさえすれば差別攻撃の対象は「誰でも良い」のであって 差別主義者というのは差別をすること自体が目的であって 差別をしていないといられない差別中毒に過ぎない
◇
生命科学を用いてヒトを超えた「ヒト2.0」的なものを作り出すことで ヒトが抱える問題点を解消できるという話は あまりに論理的根拠が乏しく妄想ファンタジーの域を出ない
ヒトは既に充分な脳容積は先天的に持っており 問題解決能力も持っているのである
差別暴力を行う者も後を絶たないが 理性を持って人道的行動を採れる者もいるのであり 前者の「失敗」点を理解分析し 後者の「成功」例に倣えば差別暴力は駆逐できるのである
問題は その能力がありながら発揮することができない構造的原因を理解していないことにある
眠くなってきたので今日はここまでとします
おやすみなさい
Ende;
「哲学は 役に立たなくても良い」と言います
しかし これは別に「役に立つことを考えてはいけない」わけではなく
人間性や倫理について論ずるのであれば これは「役に立たない話」で済まされる訳にはいきません 論理客観的に役立つ話でなければ人間性や倫理について論じたことにはならないからです
悟性だの純粋統覚だの叡智界だのといったファンタジー妄想の陳列では「倫理や人間性について論じたこと」には一切ならないのです
役に立たないことが論理的に明らかな話を「倫理や人間性を論じた」と言い張るのは ただのバカか嘘にしかなりません
「役に立たなくても良い」というのは あくまでも「役に立っても良い」のであって イマヌエル:カントの純粋理性批判が現実的には役に立たないかどうかを考えてはいけないわけでもありません
哲学は 自然科学と異なり主観も扱います しかし 主観を扱うからといって個人的な好き嫌いの観念だけで論証することは哲学ではなく ただの個人的主観を述べただけなら読書感想文にしかならないのです
「主観とは何か」を論理客観的に検証することが許されないわけでもありません
哲学というものは「考える」ことであって 単なる主観的な「思い込み」に基づいた観念に囚われることではないのです
ニーチェだのカントだのハイデガーだのといった古典を疑ってはいけない理由もありません
一体何を根拠にしているのか知りませんが 現状の哲学者達は古典でありさえすれば何でも鵜呑みにし 疑うことや論理検証することがあたかもタブーであるかのように盲目的に信奉し 何が何でも古典に則った論証以外を許そうとしません
何の宗教なんすかね
根拠のない聖域をでっち上げて考え検証することを拒絶しておいて どうして「哲学」だと言えるんでしょうね
哲学って「考える」ことなのに 古典哲学に間違いがあることは「考えてはならない聖域」扱いし思考停止しておいて 一体何が哲学なんでしょうか
科学も哲学も 必ずしも「役に立たなければならない」わけではありません
「知りたいと思うことを知ろうとすること 考えてみたいことを考えてみること」の全てが「役に立つ」わけではなく 「役に立つ」ことを目的にしなければ「科学でも哲学でもない」というわけではありません
単純に「これって 一体どうなってんだろう?」という素朴な好奇心 知的欲求に基づいて「考えてみる」ことが科学や哲学なのです
主観が混入すると科学から逸脱してしまうことになります
それに対して哲学は主観も取り扱いますが 主観を客観的に論理検証しないことには哲学にはなりません
論理的根拠の積み重ねによる反証主義が働かなければ ただの「主観的感想」や「個人的な思い込み」にしかなっておらず 「考え=哲学」にはなっていないからです
科学や哲学というのは 真理を探求することを指します
「考える=哲学」とは 「真実を知りたいという欲求によるもの」であって 「論理的根拠を無視して個人の主観的な観念を正当化するためのもの」ではありません
イマヌエル:カントが個人的に大好きだからといって カントの論証に論理的な飛躍や勝手な決めつけが存在していることを論証されても無視して「何が何でもカントは哲学だ」と言い張るのは 論理客観性を放棄しており これは「哲学」ではありません
現状の「哲学界」というのは 古典を盲信するだけの変な宗教か何かにしかなっておらず 哲学としての「真理の探求」からは逸脱しているのです
フリードリヒ:ニーチェなんぞ ただのゾロアスター教でしかありませんからね
何が何でも哲学が「役に立ってはならない」という法律だかマナーがあるわけではありません
古典哲学だと言われていた内容が 実は根拠のない妄想ファンタジーに過ぎなかったことに気づいてはいけない理由もありませんし
根拠がないことが論証されているにも関わらず認めようとしないことも 哲学からの逸脱にしかなっていないのです
哲学というのは 何が本当に正しいのかを「考えて」はいけないわけではないはずなのに 一方的に根拠もなく「こう考えなければならない」というルールだかマナーみたいなものに縛られ 古典哲学だけは不可侵な聖域扱いにし 何が何でもカントの「純粋理性批判」を事後正当化するための屁理屈ばかりが主張され続けているのです
原因は簡単です 現状の「哲学者」共が自分達が何も検証せずにファンタジー妄想を鵜呑みにしていた頭の悪さを「なかったこと」にしようとしているからです
カントの「純粋理性批判」には論理的根拠が伴わないのに それを鵜呑みにしていた頭の悪さが露見すれば 現状「哲学者」扱いされている既得権の全てを失うことになりますから バカ「哲学者」共は必死になってはぐらかしているわけです
哲学は科学と異なり主観も取り扱いますが 主観そのものを論理客観的に検証し 論理的根拠を伴った普遍的論証でなければ哲学にはならないのです
社会安全性や持続可能性に基づいた論証でなければ人間性や倫理の論証にはなりません
「役に立たない人間性や倫理の論証」なんてものは論理的に成立しないのです
安全性というものを論ずる際に 論理客観的根拠は不可欠なものであって 「哲学でありさえすれば倫理や人間性の論証に論理客観的根拠は要らない」という話には全くならないのです
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件を起こした植松聖(うえまつ さとし)の主観では 「障害者は社会の負担にしかならないから殺すべき」という屁理屈が出てきました
果たして 植松の主張は「哲学」だと言えるでしょうか?
「試しに考えてみる」という観点からは 植松の屁理屈も思考実験段階では「哲学」の範疇だとは言えますが これは倫理や人間性の論証には全くなりませんよね
過去に科学においても人間性や倫理を著しく欠いた人体実験のようなものがありましたが 科学の暴走に歯止めをかける役割として「哲学」の学術的存在価値が見いだせるのであって 「役に立たなくても良い」という話を あたかも「絶対に役に立ってはいけない」かのように勝手に解釈してカントの妄想ファンタジーを「近代哲学の最高峰」扱いしておいて良い理由には全くならないのです
現状の哲学界というのは文系の奴らしかいませんから 言葉巧みに訳のわからぬ屁理屈で煙に巻いてはぐらかすことだけは長けているため 野依良治でも簡単に騙すことが出来たのでしょう
そもそも養老孟司のようなオカルト「名誉教授」であっても誰も疑わなかった時点で 既に無能なバカしかいなかった証拠です
「哲学」分野でありさえすれば 「科学者よりも上」なわけではありません
別に科学者が絶対に口出ししてはならない不可侵な聖域であり続けなければならない根拠は何もありません
「哲学」や「哲学者」でありさえすれば 「科学者が検証してはいけない理由」はないのです
科学者が自分の領野に都合の良い解釈をしてはいけないのと同様に 哲学者もまた自分の領野に都合の良い身勝手な解釈をしてはいけないのです
いやもうね 書いててアホらしくなるわ 東大哲学科は未だにカントを盲目的に信奉してるからね
わけわかんねぇよ
哲学が主観も取り扱うからって 論理客観的な普遍的真理(本当のこと)を論証しなくても良いわけじゃないからね
今の哲学界って 「俺の主観は正しい」って言っているだけだもの
「主観も取り扱う」からといって 「個人的な主観だけで真偽を勝手に判定しても構わない」わけじゃないからね
ニーチェでも教えりゃバカ学生なら「センター性がある」だの「カッコイイ」だのと主観的感想で満足して面白がるんだろうけど それ 洗脳だからね 「哲学」じゃないからね
だって 何も「考え」てないでしょうが
「面白い」っていくら強く「感じ」たって それだけなら論理客観的根拠を伴う普遍性を伴う「哲学」と 個人的に面白がっているだけの「ただの文芸」と区別つかんだろ
どんなに多数のバカ学生が面白がっても 「哲学」であることの論証にはならないからね
「哲学は役に立たなくても良い」とは言っても 人間性や倫理の話まで論理客観的根拠が伴わなくても構わないわけじゃないからね
科学が 「トカゲ捕まえて楽しがっている」のと 「原発の運転における安全性」を同列にして良いわけじゃないのと一緒だよ
いや マジで これわざわざ説明しないとわからないかね
どんだけバカなんでしょうね
恐ろしいわー
Ende;
キヤノンがEOS KissのInstagramアンバサダーを募集しとる
http://cweb.canon.jp/eos/special/kisssp/eoskiss-Ambassador/
抽選で10名だそうで 条件は日頃からインスタにアップしていることだとか
詳細はリンク先を参照
多分「もろんのん」さんみたいなアンバサダーをキヤノンも抱え込みたいんだろうけど
そうそういないぞw
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胸鎖乳突筋(by生田絵梨花)
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
菅 義偉(すが よしひで)首相って
あんまりまばたきしないな
ドライアイにならないのかしら #余計なお世話 #どうでもいい
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
倍出んだな(何が?
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
「
カギカッコをカギカッコで括ると変なことになるので括れないんだけど
「
を入力して変換すると
蘇澳新駅
っていう変換候補が出てくる
もう読み方もわからんし そもそも
「
と蘇澳新駅の関連性もわからん
ググってみたら「そおうしんえき」と読むそうで 台湾の駅だった
でも
「
との関連性は何もわからない
わからないことってあるねぇ…
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
「まーがりん」ちゃんって何で「まーがりん」なのかと不思議だったんだが
大曲 李佳(おおまがり ももか)だからだった
植物油脂が原料ではないし トランス脂肪酸も含まれていないそうな
笑顔にちょっとクセがあって ギャップが素敵
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【悲報】
駐車場の警備員さんの誘導に従って車をバックさせていたんですけど「ガリガリガリ」って前輪をこすってしまいまして その時誘導員さんが「はい!OKです!」って真っ直ぐな目で言われてしまったんで 怒るに怒れないんですよ 「真っ直ぐな目って大事だな」って思いました(byカネオくん)
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
仮想キーボード上だと「( 」を入力するとたくさんの変換候補が出てくるんだけど
実キーボードで入力すると変換候補が2つしか出てこねぇ
なんでなん
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
ワイルドスピード森川葵は 誰にも真似できない超人的学習能力を見せつけられているだけなので チャンカワイみたいにパンピーには全く応用できず
圧倒されてテレビに釘付けにされるだけで つぶやくことが何もない
「スゲー…」と絶句するしかないだろ
番宣に来た百田夏菜子(ももいろクローバーZ)がダブルフリップ(デビルスティック)をやりやがった
やっぱ人気芸能人って能力高いんだな
トップアスリートに美形が多いのも 先天的に何か理由があるのかも知れない
不条理だな…
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
アメリカでは一日の感染者が14万人だとか言っている
そんなに感染してたら国民全員感染すんじゃねぇのかと思ってザックリ計算してみたら毎日14万人感染しても6年間近くかかることなる
実際には集団免疫ってのがあるらしいので 3〜4年程で収束することになるらしいんだが
まあ 医療現場は阿鼻叫喚の地獄絵図だわな
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
生田絵梨花とか弘中綾香って 写真撮られる時に一切緊張というものをしないんだよね
だから見ている側に親近感を与えて「恋人感」が出る
いくちゃんもひろなかちゃんも 他の娘と比べてそんなに物凄い美形ではないんだけど 映像だと凄いかわいく見える
デビューしたてのアイドルが緊張してブサイクに見えることがあるんだけど 何年か芸能界で仕事していると緊張感が抜けて自然な表情ができるようになることがある
JKミスコンでブス扱いされた女子がおったが 写真を見ると明らかに緊張しまくってポーズが不自然だったり 表情も何だかこわばって不快そうに見えたが 顔立ち自体は結構かわいいので 普段はかなりかわいい女子なんだと思う
ヒトが他者の顔を見る時 その9割は表情を見ているという説があって 緊張していると美人でもブスになってしまうらしい
なので ミスコンとかに参加するなら日頃から写真撮られるのに慣れておかないと 妬みの酷いバカ集団からのイジメの標的にされかねないので注意が必要
若干自信過剰なくらいの方が写真映りは良いんだと思うよ 人間としてどうかは知らんけど
凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹
紅一点軍団の敗因は
同じところばっか塗ってるからだろ
知らんけど
Ende;
子供にとっては親以外にはあまり頼る相手がいないわけで
「親ガチャ」ハズしてしまうと結構キツイことになるのはわかる
「親ガチャ」がハズレたという認識があるのならば 親のどこがハズレなのかを研究してみてはどうか
親とて所詮は脳神経接続のない「他者」であり それなら「親としてハズレ」なら研究材料として科学的に分析し 自分が大人になった時に子供から「親ガチャハズレた」と思われないように明文化してみてはどうか
親というのは子供にとってはほぼ唯一であるため どうしても過剰な期待をしがちだが 所詮は世の中の夫婦の中の一配偶関係に過ぎず 「そこら辺にいるオッサンやオバサンの中の一人に過ぎない」ことを客観的に理解すれば 過度な期待はすべきではないと認識できるだろう
絶望とは 時に「死に至る病」でもある
三浦春馬くんみたいに 外見的には自殺するような要素なんぞなさそうに見えていても 当人が主観的に絶望に取り憑かれてしまえば自ら命を絶ってしまうこともあるが
「絶望感」とは主観的なものであって たとえ世間的に何の絶望もなさそうに見えていても 当人にとって「逃れようのない絶望」だと「感じて」しまえば自殺に至ってしまうこともある
外見的 世間的には成功しているように見え 何の不満もなさそうに見えるとしても 主観的絶望に取り憑かれてしまえば自殺という最終解決を選択してしまうこともある
「他人と比べて 自分は不幸」というのは 「他人と比べる」から不幸なのであって 比べなければ別に不幸でも絶望でもない
人が不幸を認識できるのは 幸福を知っているからであって 一面的な不幸を嘆いて絶望するよりも どのようにすれば不幸が取り除けるのかを考える良いチャンスだと捉えることも可能である
不幸や失ったものばかりを数えるているから 益々不幸な気分に陥ってしまうのであって 小さな幸福や まだ手元に残っているリソースから 将来に役立つかも知れない知見や資料を遺すことを考えた方が良い
「まだ できることがある」というわずかな望みを忘れて 「あれができない これがない」と嘆いているのは 絶望の形態としてはかなり安易なものである
どうせ誰もが必ず死ぬのであるから まだできることがあるならやり遂げてから死ななければ悔いしか残らない
どう客観的に検証しても取り除くことが不可能な証明がある不幸や苦痛であるのならば それは自ら死を選ぶ尊厳もあるが 大抵の場合自殺する人というのは客観的には「まだ逃げられる余地がある」場合がほとんどである
ブラック広告代理店の電通の社員が自殺した例もあるが そんなに辛いなら辞めれば良かったのである
何か精神論的に「頑張らなければならない」かのような観念に取り憑かれているから 無駄な努力から逃げられなくなっているだけであって 客観的にみれば「他にあるだろ」と合理的選択をすることは不可能ではない
職業選択の自由が憲法で保証されている日本で 何が悲しくてブラック企業に執着しなければならないのか 冷静に考えればそんな企業は潰れれば良いのである
世の中には様々な不条理や不公平があるが そうしたものを一つ一つ取り除くための合理的な対策を見つけ出す「賢さ」が必要である
自分が不幸だと感じられるのであれば 他の人がどうやったらこんな不幸を感じられずに済むようになるのかについての論理客観的な原因究明と それに基づいた再発防止策を見つけられれば それは社会貢献にもつながるのである
他人と比べてどんなに金を集めても 世間的に成功しても 主観的に不幸や絶望を感じることはある
その「主観」に過ぎぬ「感じ」が 本当に構造原理的に逃れようのない永遠の地獄であることが立証されない以上 そこには望みが残されているのである
人が感じるストレスの9割以上は人間関係と言われている
人を不幸にしているのは 人なのである
自分が不幸にならないためには 自分自身が他人を不幸にさせないようにすることであって 互いが相手に配慮する社会であれば 結果的に自分も他人から配慮してもらうことになるのである
「情けは他人の為ならず」とは 他人への配慮は巡り巡って結局は自分の為のものであるという意味であって 他者を冷遇することを推奨しているわけではない
「経済」という言葉を「利己的金儲け」だと誤解している人も多いが そんなチンパンジーみたいな価値観を人間社会に持ち込むこと自体 どうかしているぜ!
ヒトはどうしても目先の快楽に取り憑かれて非合理な行動に邁進暴走して他人に多大な迷惑をかけがちであるが 折角大きな脳を生まれ持ってこれたのであるから 論理客観的に「目的」行動選択をすべきである
頭の悪い奴ほど主張や圧力が強いため どうしても「世の中バカしかいない」ような感覚に陥りがちであるが それは外見的な雰囲気であって 本当は決してそれほど悪い社会ではない
数万年前であれば過酷な自然環境下で毎日が死ぬか生きるかの瀬戸際生活しかなかったことから比べれば 現代の日本で生まれてこれたことだけでも まあまあ結構なラッキーである
ほんの75年程昔であっても 自分の主張なんぞ誰も耳を貸さずに「1億玉砕」などという訳のわからぬ集団洗脳による暴走破綻を強いられていたことに比べれば 今の社会もそんなには悪くはない
「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い(益川敏英)」とは 世の中の大半は理解せずに 「苦手を克服」だの精神論的に「努力辛抱根性」を主張したがるバカの方が大半である
そのくせノーベル賞受賞者が出る度に「どうやったらノーベル賞が獲れるんですかねぇ」なんて聞くのである
本当は「世間的に成功するにはどうしたら良いんすかね」という不順不純な下心で聞いているだけなので 益川敏英が何を言っているのかなど誰も耳を貸さないのである
大多数のバカの言っていることに耳を貸してはならない
それはバカの連鎖しか生まないからである
インテリジェンスという言葉には「情報局」の意味が含まれている 単に雑学知識の「量」ばかりを追求しても インテリジェンスが発揮できるわけではなく 雑多な情報の中から真実を見極める本当の知能が必要なのである
脳を育てるために必要なのは 「これなら一生続けることができる そういうものを見つけなさい(小柴昌俊)」である
他人との比較評価に囚われることなく 心の底からやってて楽しいと感じられる純粋行為があれば 他人への配慮も自然とできるようになるものであり 楽しいことは集中力を発揮するための絶対的必要条件である
ホリエモンみたいにすぐにブチギレて吠えだすのは しつけを間違えたイヌと同様服従対象を見失った不安に苛まされているからに過ぎず 評価承認欲求中毒患者特有の「症状」である 他人からの評価に唆(そそのか)されている限り 本当の集中力は発揮することは出来ず 結果的に「自律」も失い集団洗脳や暴走破綻に陥るだけである
ホリエモンは刑務所にぶちこまれても 自分の何がどう悪かったのかを客観的には認識理解していないので 何度でも同じような暴走を繰り返すことになる
「へずまりゅう」だの田代まさしと同様に バカというのはバカに取り憑かれているので難治性が酷いのである
マスクをしなかったために飲食店内に入れてもらえなかったことに腹を立てるだの 災害時にバラエティ番組を放送しなかっただの どうでもいいことに腹を立てて誰彼構わず噛み付くことを「カッコイイ」と思っているバカも多いものである
バカというのはバカと同調共鳴していることが先天的本能習性として大好きなので 簡単に洗脳に陥るのである
先天的本能習性に無為に流されていて 「目的」も「意識」も「合理性」もあったものではない
「親ガチャ」で「当たり」を引いた人にとっては 「ハズレ」を引いた人の気持ちはあんまりよくわからないようで 「家族が悲しむようなことをすべきではない」などという道徳の教科書みたいなことを平気で押し付けてくるものだが それなら「ハズレ」を引いた者でなければわからないことというのがあるわけで 「ハズレ」を引いたことも全面的に悪いことばかりとは言えないのである
「ハズレ」を引いた人にしかわからないことがあるなら それはそれで「当たり」を引いた人にはわかりようのない知見を持っているということでもある
それもまた貴重な知識財産として活かすことは不可能ではない
暴力や破壊や嘆きでは世の中は良くはならない
世の中を良くするためには 何がどう悪いのかを丹念に究明し 論理的根拠に基づいて具体性のある対策を立てることで 世の中は少しづつ良くなるのである
そのために必要なのは「主観」ではなく 客観性を伴う「理性」である
微力は無力ではないことを忘れてはならない
Ende;
「親ガチャでハズレ引いた」みたいな表現があるそうだが
誰も自分で親を選ぶことはできないので 一面的には真理ではある
しかし それを言うのであれば 選べないものなどいっぱいある
一面的な価値観を嘆いて被害者ヅラしても 何かが解決するわけではない
自分の遺伝子も自分では選べないし 育った環境から植え付けられた価値観も 自分の脳も その脳から促される気分感情もまた選択出来ない
時代が悪ければ空から焼夷弾が雨あられと降って何もかも焼き棄てられてしまうこともあり 国が違えば戦争で両親を殺され孤児になることもあり 「時代ガチャ」「国ガチャ」で大ハズレを引くこともある
そう考えた場合 一応現代の日本で生まれ 衣食住を保証してくれる親がいるだけでも 必ずしも「ハズレ」とは言い切れない
自分の不幸を嘆いて「絶望」するのは簡単だが その「絶望」の元である不幸の原因を究明し 後世にその不幸を受け継がないための論理的対策を立てることこそが重要である
松永莉子パパの「地獄」から比べれば 大抵の「絶望」は本当はさしたる絶望ではない
京都大学学長や 文化功労賞受賞者の嘘や誤謬を指摘しても 世間の誰も耳を貸さないが それで安易に絶望してやるべきことを放棄したのでは人間性も倫理もスッタクレもないのである
世の中はバカが多いことは確かだが だからといって多数他人をバカだと嘆いて「どうせ何を言っても理解しない」と諦めたことを「悟り」か何かだと勝手に決めつけ バカをどうすれば治せるのかを追求しなくても良い理由にはならない
他人と比べて自分が不幸であることをいくら主張しても それは他人から慰めてもらおうという下心の表象に過ぎず 糞の役にも立たない愚痴にしかならないのである
自己の幸福というものは 他人との比較で決まるものではない
自己の幸福というものは 自己自身の内部における主観によるものであって これは他人との比較できるようなものでは最初からない
どんなに他人よりも物質数値的な豊かさを追求しても 物質数値的価値観自体が時代や社会に依存したものに過ぎず 本当の自己自身における本質的な豊かさとは無関係なものであって 比較に意味などない
そもそも脳神経接続が他人とはない以上 他人よりも自分の方が幸福かどうかを比較すること自体無意味なのである
トンボの羽が本当は七色に輝くことを他人に見せても 昆虫嫌いな人なら興味すら持たない
昆虫が好きな人であっても 逆にトンボの種類の方に興味が注がれ羽の色など興味を持たない場合もある
何かを「美しい」と感じるかどうかは 人それぞれであって 興味がなければそれはそれで構わないものである
主観的に何かを「感じる」ことというのは 人それぞれ価値観が異なり 比較競争しても意味がないのである
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を美しいと感じるかどうか それともヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の方が美しいと感じるか それは各々個人で違うものであり 池田エライザちゃんと上白石萌歌ちゃんのどちらがかわいいと感じるかを競っても意味がないのと同じである
幸福という「主観的感覚」の比較には意味がないのである
又吉直樹氏が言うように 「本当は他人の気持ちはわからない」のであって わかるのは本当は自分の気持ちだけなのである
松永莉子パパの地獄は私にはわからない なぜなら私は莉子ちゃん達との一緒に暮らした何年間かの思い出がないからである
私がわかるのは 近所の小学生が同じように事故で亡くなることを想像したらいたたまれず飯がマズくなるという 個人的な主観だけである
何に どんなに幸福を感じるとしても 社会安全性や持続可能性が保証されない社会であるならば あらゆる主観的幸福は意味がなくなる
どんなに大金を出して立派なご馳走が食べられるとしても パレスチナで丸焦げにされた赤ん坊の映像を見せられたら 味もヘッタクレも何もわからなくなるものである
宮沢賢治は「全ての人が幸福にならなければ 自分の幸福もあり得ない」と述べたが ヒトという種の生物として生まれてきた以上 他人の不幸を無視して自分だけ幸福になれることは出来ないのである
チンパンジーならできるだろう 他者を騙してでも自分だけ旨い餌にありついておけば満足できる遺伝的性質に「進化」した生物だからである
ならばチンパンジーを羨ましいと思うバカがいるだろうか
他人の不幸を何とかして取り除きたいと配慮することが嫌ならば ヒトに生まれてきたことを恨み 呪い 死ねば良いのである
別に生存自体に意味があるわけではない ヒトは必ず死ぬのであって ヒトという種の生物に生まれてきたことが気に入らないというのであれば 別に生き続けなければならない理由などないのである
「人が人を殺してはいけない理由」がないのと同時に「他人を殺してまで生き続けなければならない理由」も 「人が人と殺し合いをするような社会で生き続けなければならない理由」もないのである
ヒトが生き続ける理由とは あくまで主観的な幸福を感じることであって 夕焼けの空の色が美しいと写真を撮ってネット上にアップロードするのも 共感して楽しみを分かち合う他者の存在ありきの話である
誰も何も感じることの出来ない地獄であれば もはや何をしても全部意味などなくなるのである
上白石萌歌ちゃんが どんなに澄んだ美しい歌声で歌おうとも 大切な人を失った人の心を癒やすことはできない
それは 上白石萌歌ちゃんにとっても絶望であろう
松永莉子パパの望みとは 「こんな地獄は他の人には二度と味わって欲しくはない」という願いだけである
ロダンの彫刻「考える人」とは 金儲けの手口を考えているわけでも 他人を騙して研究費を5億円も騙し取ろうと考えているわけでもなく 「地獄について考えている」のである
本当に「考える」とは 「地獄について考える」ことを指すのである
安物の「絶望」に溺れ 思考停止に陥って満足することは簡単だが それは「豚小屋の満足」に過ぎない そういう豚なら場末の居酒屋に腐る程いる 「豚で満足だ」と言うのであればこの文章を読む必要はなく 感染症拡大だろうが何だろうがエタノールで脳を麻痺させて騒いでいればよろしい
どのような選択を行うかは 個人の自由であり 私の知ったことではない
Ende;
形式とかマナーというものは あくまで主観的安心感を与えるだけのものではあり 形式やマナーさえ踏襲しておけば人間性の論証になるわけではありません
とは言え 店員さんや駅員さんの対応がチンピラ学生みたいだったら企業全体に対する不信感を抱かれてしまうことはあるだけに 不特定多数に応対をする社会人としてのスキルとして形式やマナーは学んでおく必要性はあるわけです
でも 「マナーだ」と言い張りさえすれば何でも鵜呑みにして従っておけば良いというものでもなく マナー産業がでっちあげたデマは見抜く必要もあります
世の中というのは不特定多数の人で構成されていますから 誰もが形式やマナーには論理的根拠がないことを理解しているわけでもありませんから 企業に勤めるのであれば形式やマナーは踏襲する必要があるわけです
個人で何でもできるというのであれば 形式やマナーを逸脱していても 実質的に社会的迷惑にさえならなければ構わないのですが 実際には社会生活を送る上においては最低限の形式やマナーは必要になるのです
実際に私のように論文査読の形式を踏襲せずに権威を批判しても 誰も耳を貸してはくれません 本論のように学術権威に対して批判するような場合以外においては 形式やマナーは無視できないものなのです
拳銃を携帯している警察官が制帽を斜めにかぶったり だらしない行動や言動をしていたら 多くの人は恐怖を抱くでしょう
もちろん 外見上形式的に「キチンとした態度や言動」さえしておけば人間性の保証になるわけではありませんが 一応形式というものは最低限は踏襲しておかなければならないことは理解しておく必要があります
詐欺師は形式やマナーに対する一般人の観念的安心感を利用して 丁寧な言葉遣いで相手を騙しますし マナー産業のデマもマナーに対する大衆の盲目的な服従性を利用することでセミナーを開いて金儲けをしているのですが だからといって「形式やマナーの全ては要らない」とばかりにチンピラ学生のように誰彼構わずタメ口でダラダラ話しても良い理由にはなりません
自分の個人的な主観に基づく観念にとって都合の良い話だけを抽出してきて 個人的に嫌な話の全てを頭ごなしに否定することは 結局は「自分で考えるのは10年早い 教えたことを何でも鵜呑みにしろ」と言い出すキチガイと同じレベルの身勝手な傲慢さにしかなりません
アオリ運転で逮捕された男に「自己愛性パーソナリティ障害」という精神病の診断が下されましたが 自分が主張している内容が 本当に論理客観的根拠に基づく主張なのかを検証する自己客観性なくして人間性も倫理もヘッタクレもないのです
学力成績が人間としての本質的知能の論証にならないことや 学術権威でさえあれば常に正しい判断ができる保証もありませんが 論理客観的な根拠の積み重ねによる反証に耐えられる論証は 「真実に より近い」と判断しても良いわけです
科学や哲学の理論の全ては常にかりそめの真実でしかないという謙虚さを持つ必要があり 「俺様は絶対だ」的な全能感に溺れてしまえば「自己愛性パーソナリティ障害」でしかないのです
全能感に溺れている人物というのは 自分の主観的好き嫌いに過ぎない個人的価値観や観念であっても 都合の良い屁理屈を説明して大多数の大衆を丸め込んで人気を得ることしかしなくなります
「自分は絶対に間違えない」と思っている人物というのは 外見上威厳に満ち溢れ あたかも言っている内容の全てに一貫した理論を伴う論理客観的根拠のある論証であるかのように言い張り 大衆に対して観念的な「信頼感」を得ることができます
「サイコパス」というのは ヒトという種の生物が持っている観念的信頼感や 権威に対する盲目性を利用する形で人心を掌握し 多くの人々から真実を見極める意識を奪うことができます
ヒトというのは主観的に安心できたり 満足感が得られる話ばかりを信じたがる先天的習性がありますから 多くのヒトは論理客観的根拠のない話であっても簡単に鵜呑みにし信用して疑うことを忘れてしまいます
バカ教師とバカ生徒の罵り合いには意味がありません
バカを見つけたからといって バカのカウンターに入っても 結局はバカ同士の殴り合いにしかなっておらず
「どうしてバカになったのか」についての論理客観的な原因究明や再発防止のための具体性のある対策にまで言及しなければ 社会的には何の意味もない自己満足にしかならないのです
刑罰というのは 犯罪に対するカウンターでしかありません ですから社会的には安全性にも持続可能性にも寄与することがないのです
踏み間違い事故を起こした老人を厳罰に処しても その論理客観的な原因の究明にも対策にもなりません
アクセルとブレーキを踏み間違えることは老人の専売特許じゃありませんから 誰でも間違える可能性のある危険性に違いはなく 根本的なり抜本的な再発防止対策を徹底することの方が重要なのです
しかし 現状の司法刑罰裁判においては 罰の判決以上の何も決まることはありません
こうした社会制度上の欠陥について国民の半数以上が認識理解しないことには 松永莉子ちゃん達が巻き込まれた「失敗」も教訓として生かされることはないのです
Ende;
これからも「生き続ける理由」というものは
「何に命をかけるか」「どう死ぬか」と同義である
死ぬことから逆算して人生を考えないことには 目的意識として働かないからである
ヒトが生きることに執着するのは 「いままでずっと生きてきた」からに過ぎない
生きていることに安心しているからこそ 生きていないことに対する恐怖も感じるのである
麻薬中毒などの原因となるドーパミンによる常習性というものは 動物の本能的行動習性の根幹を成すものであるが それはあくまで進化の「結果」に過ぎないために 時に暴走破綻への原因となることもある
先天的な習性というものは 進化の過程において生存にとって必然的な「結果」ではあるものの 社会持続可能性や安全性にとっての合理的な「目的」に適するわけではない
死を考えると 反射的に恐怖が先立ってしまいがちだが 子供のことを考えればどうしたって子供を残して親が先に死ななざるを得ないのであって
社会持続可能性なくして安心して死ぬことも出来ないのである
たとえ幼い子供がいるのに病気で余命幾ばくもないとしても 社会(他者)が代わりに子供を守ってくれるのであれば安心して死ぬこともできるのである
病気にならなくても 事故で突然亡くなることもある
人が社会の中で生きていゆく上においては 社会(他者)との助け合いなくして「人間社会」とは言えないのである
イヌの一種は共同で子育てと狩りを分担するものがいるという
一方でペンギンやライオンは他者の子供は平気で殺すのである
先天的本能習性がどうあれ 自分達の社会がどうあるべきかを主体的に「選択」することができるからこその「意識」であり「知性」なのである
ヒトという種の生物は 過酷な自然環境から逃れて文明社会を構築することによって 淘汰圧力からも免れたため 遺伝的な進化をしなくなった
そのため 先天的な行動バイアス習性も多様化はするものの 特定の傾向性への収斂収束はしなくなり 先天的に誰の子供でも大切にしようとする人もいれば 自分の子供だけしか守ろうとしない人もおり 更には子供自体を全く興味を持たない人もいて 多様性が非常に拡大することになった
でも それは「結果」であって 社会にとって何が重要なのかは「目的」意識的に選択することは可能である
自分がどのように育てられたかったのか どう育てられるべきだったのかを 論理客観的に検証し 最適な選択を行うことは可能である
誰も虐待されて育ちたいと思っている奴はいないし 何も考えられないバカになりたいとも思っている奴もいないだろう
それなら 子供をどう扱うべきなのかは自ずから決まってくるのである
「人間」としての観点からは むしろ選択の余地など最初からないのである
「洗脳か 洗脳ではないのか」とか
「傲慢なのか そうではないのか」を見極めるために必要なのは論理客観性である
「本当に洗脳ではないのか」 「本当に傲慢なのは誰なのか」を見極めるためには 論理客観的に検証し考えなければ見極め 区別することはできない
本論は「これさえやっときゃ全ては解決」みたいな安易な方法論は提供しない
各々個人が普通に信じ込んでいる「常識」に 本当に論理客観的な根拠が存在しているのかどうかを 本人が主体的に検証していただくための本質的な「意識」とは何かを論じているに過ぎない
私が挙げた事例は あくまで一例に過ぎず 失敗例を参考にして自分自身が陥っている頭の悪さを理解し 認識することによってバカに陥らないようにして頂くことこそが重要なのであって 養老孟司や松沢哲郎が嘘つきだと教えられたからといって養老孟司らを悪者として排除差別しても 教えられるまで信じて疑わなかった頭の悪さを「なかったこと」には出来ないのである
Ende;
ヒトの多くは自分で自律的に物事を論理客観的に検証し 「その話には根拠があるのか?」どうかを考えずに 主観的に「好き」な相手が言っている「面白い」話や「楽しい」話に同調して満足する
文学芸術やスポーツなどの分野であれば そもそも主観の世界なので論理客観性など不要だが
科学や哲学といった分野では論理客観的検証を抜きにしたらオカルトにしかならない
科学や哲学の社会的役割とは 論理客観的な根拠に基づいて「真理(本当のこと)」が何かを見極めることによって 持続可能性や効率を高め 社会の安全性に寄与することである
理性とか効率といった言葉を用いると 大衆の多くは「経済効率」などと称して「利己的金儲けの効率」と結びつけ あたかも冷徹な人間性を欠いた機械的な判断だと勝手に妄想して怖がるが
これこそが論理客観的根拠を欠いた大衆観念というものである
そもそも「経済」とは 「経世済民(世を経て民を救済する)」ことを意味(目的)とするものであって 経済性を短絡的に利己的金儲けに結びつけたのはアダム:スミスの「見えざる神の手」などという根拠のない神話に基づく大衆観念妄想によるものである
安全性の話をするためには 危険性の話を避けて通ることは出来ない
航空機の安全性を論ずる時に事故の事例を避けていたのでは安全性の話には全くならないからである
安全性を優先しなければ 人間性も倫理も一切成立することはないのである
大衆の多くは 主観的に安心満足さえして「優しい気持ち」にでもなっておけば人間性か何かだと勝手に勘違いしたがるが それは自分の主観的感覚を絶対的なものだと勝手に勘違いしている傲慢さに他ならない
犯罪や事故が起きた際に 被害者の感情に同調して加害者への厳罰化でも主張しておけば「私は被害者のお気持ちがわかる心優しい人間なんだわ」とでも勝手に妄想して満足するのは簡単である
だが 被害者が深い考えに基づいて「再発防止を優先して欲しい」と主張しても この主張の真意を汲み取って理解する者はほとんどいない
薄っぺらな浅い主観的観念で感情的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも主張し 多数派で同調しておけば安心満足して何も考えなくなるのである
私であっても迷惑な糞DQNに遭遇すれば「死ねよコイツ」としか「思わ」ないが それはその場限りの個人的な主観的感想に過ぎないことを私は理解している
糞DQNなり通り魔やテロリストを死刑にしておけば糞DQNや通り魔事件の類いがなくなるかと言えば 客観的に考えれば「なくなる根拠」が何もないのである
「俺のような奴は死刑になったらええんじゃぁ!」などと自暴自棄になっている通り魔を お望み通りに死刑にしても それは抑止力には全くならないばかりか 自暴自棄になった奴が「通り魔事件でも起こせば死刑にしてもらえる」とばかりに助長してしまう可能性の方が高い
社会の持続可能性や安全性を配慮せずに 自分だけ持続可能性や安全性を求めていたら それは利己的としか言いようがない
自己がこれからも生き続けるに価する社会とはどのようなものであるのかに配慮してこそ人間性や倫理として働くのである
利己的な利益をどんなに追求しても 最終的に誰もが必ず死ぬのであって これは不可避である
「どのように生きるのか」というのは「どのように死ぬのか」と同義であって 目先の「利己的に生存にとって有利な行動」を追求しても それが本当に自分の人生にとって最も優先されるべきものだとは言えないのである
ところが ヒトという種の生物は 目先の「他人との競争(勝ち負け)」に囚われ 個人の存在としての尊厳よりも 目先の他人との比較にばかり意識を奪われ 物質的な欲望ばかりを追求してしまうことで 簡単に倫理も尊厳も見失ってしまうのである
金儲けに成功して資産を増やせば「勝ち組」だと衆生は満足する
物的人的な社会資源を浪費して金儲けすることは そんなに難しいことではない だからこそブラック企業が後を絶たないのである
汚いことをして金儲けをするのはバカでもできる
むしろ バカだからこそ汚いことで金儲けをするのである
しかし どんなに物質的な豊かさを追求しても 汚いことで儲けたことによる深層心理の良心の痛みによって ヒトは本当の満足を得ることにはならないため 結局は薬物に手を出したり 酒に溺れたりして破綻するのである
「悪銭身につかず」と言われるが これは「悪いことで儲けた金は 自らの悪行を紛らわすために浪費しなければならなくなる」という ヒトの性(習性)によるものである
世間の多数派が競う価値観に踊らされ 他人との比較による勝ち負け競争に邁進した結果 人間としての尊厳を忘れ 人間としての「目的」意識もないまま暴走した末路は全て地獄である
幼少期から学力競争に「勝って」きたことで誉められ その安易な満足にそそのかされて学力成績ばかりを追求しても むしろ「学力成績=知能」という大衆観念を鵜呑みにしていた頭の悪さには気付かず 教えられた内容に間違いがあっても誰も気付かないという頭の悪さを発揮するばかりである
養老孟司やマルクス:ガブリエル マイケル:サンデル リチャード:ドーキンス 挙げたらキリがないが 論理客観的根拠のない嘘や誤謬(間違い)を誰も指摘できなかったのは 学力が高いだけで自分自身では何も「考え」ないバカしか大量生産してこなかったからである
茂木健一郎のように「これが脳に良い あれが脳に良い」と根拠もない嘘を陳列しておけば 「人気脳科学者」という薄っぺらな権威性を鵜呑みにした衆愚からの人気だけは得られるであろうが こうした嘘を批判したり反論したりするの「脳科学者」が一人もいないのというのは学界全体が茂木同様のペテン師の集まりであることの証明でもある
個人的な好き嫌いがあるのは構わないが 個人的な好き嫌いを社会的安全性や倫理に結びつけてしまったのでは無責任も甚だしい
茂木健一郎の嘘が見抜けないバカなら 振り込め詐欺にも簡単にカモられるであろう
個人的にカモられている分には自己責任の範疇であろうが 集団でカモられていることに気付かず多数で嘘を鵜呑みにしていることによって嘘が蔓延して社会安全性を損なうリスクに配慮しなくても良い理由にはならない
リチャード:ドーキンスは 「ヒトという種の生物は進化の過程で人間性を獲得した可能性がある」という予想を立てたが これには科学的根拠はなく あるのは大衆人気だけである
大衆の多くは「自分(ヒトという種の生物)には先天的に人間性が組み込まれた優秀な生物なんだ」という科学的には何の根拠もない妄想観念を与えてしまえば主観的に満足し 安心して鵜呑みにして何も考えなくなる
遺伝的進化というものは あくまで「結果的に死ななかった個体種の形質や習性」への収束であって 偶発的変異と淘汰圧力による「結果」以上の何も介在する力学はない
死にさえしなければ寄生生物であろうと托卵であろうと 凶暴であろうが何だろうが「生存」であり それを「生物」と分類しているに過ぎず そこに選択可能な目的や意図や戦略や合理性があるわけではない
あくまで「生存にとって必然的」だった個体種への淘汰に過ぎず 騙し合いであろうが殺し合いであろうが結果的に絶滅していなければ「生物」なのである
一面的な統率的協調行動の結果が 集団組織内部にとって利他的に働いたとしても それだけで人間性や倫理の論証には全くならない
統率的協調行動というものは差別排除や暴力集団の暴走においても働く習性であって ドーキンスのお伽話というのは大衆ウケの良いこじつけ論証に過ぎないのである
それが40年もの間 大衆から人気を得ているとしても それが社会安全性や持続可能性にとって何かの応用性があるわけではない
バカな衆愚が読んで満足して安心して「好き」になっているだけなのである
個人的な好き嫌いを持つのは勝手だが 個人の主観的好き嫌いを 論理客観的根拠に基づく科学的論証か何かと錯覚して気付かないというのは あまりにバカすぎて社会的に無責任である
バカであることをイノセント(無害)だと思っていることもまた錯覚である
「平均的で多数派に属している」ことが「正常」であることの論証にもならないし 「学力偏差値が高いことが頭が良い」ことの論証にもならない
多数派に迎合することへの主観的安心感は 同時に多数派への批判に対する観念的恐怖心や猜疑心も醸成することによって 多数派の間違いに気づいたとしても傍観放置しておいた方が個人的には安心ではあるが それによって社会安全性が損なわれることによる被害が自分に及んでも文句を言う権利も失うのである
法的権利ではなく 無責任であったことの罪に違いはないのである
たかが精々100年程度の生存において 自己が存在した「意味」というものを 他者との比較競争などという時代や社会環境に依存した価値観だけに浪費するのか
それとも社会全体にとって重要な安全性や持続可能性への配慮に費やすのか
その「選択」にこそ人間性や尊厳が介在するのである
何も選択せずに本能習性のままに無意識に流されていて 人間性も倫理もスッタクレもないのである
Ende;
「自分の主張が全て正しいと思うことは傲慢だ」と言い出すバカがおったのだが
そう述べている本人自身も自分の主張だけは全て正しいと思っているのである
本当に傲慢かどうかを判定するために必要な基準とは論理客観的根拠の有無である
根拠のないデマや主観的好き嫌いを あたかも社会的正義であるかのように錯覚していれば傲慢だとしか言いようがない
自分の個人的な好き嫌いや観念を 他人に押し付けるからこそ傲慢なのであり
論理客観的に合理性を持った根拠に基づき「こうすべき」と主張することは傲慢ではない
「何が本当に傲慢なのか」を見分けるための論理客観性こそが重要なのであって 論理的な根拠もなく「お前は傲慢だ だけど そう主張している俺様は傲慢ではない」などという支離滅裂な話を鵜呑みにすべきではない
それくらいは自分で「考え」て判別して欲しいんだけどな
「考え」ないんだな 多くのヒトは
困ったもんだ
Ende;
オキシトシンのシーケンスというのは 親子間などの特定の個体間における盲目的信頼関係を作り出すものであり それ以外の個体に対する疎外感や排除行動や猜疑心をも作り出すものである
子供が身近な大人以外には簡単に従わない方が生存にとっては有利であり こうした行動バイアスというのはヒト以前の進化過程において組み込まれた無意識な行動習性バイアスである
ペンギンは他の子供を殺害することもある 自分の子供は身を呈してでも守ろうとするが 他の子供は殺してでも排除したがる先天的本能習性がある
特定の個体や集団組織に対しての安心感を持つことによって それ以外の個体や集団に対する観念的猜疑心や恐怖心をも醸成し これが疎外や排除行動バイアスをも作り出すのである
イジメやヘイトスピーチなどの 合理的根拠のない差別排除行動をする集団というのは その集団内部においては家族のような盲目的信頼関係を持ち 論理客観的な批判精神というものが全く働かない
なぜなら 彼らは動物的な本能習性によって集団統率的な協調行動をしてさえいれば満足なだけで 主観的に満足してさえいればそれ以上何も考えることはないからである
民族や国籍が人間性の格差となる科学的根拠は何もなく 遺伝的見地からもヒトは全てヒトであって同じ生物である
同じ「ヒト」でありながら論理客観的な根拠に基づいた行動が採れない者がいるのは 脳容積が充分に「人間」として働いていないからである
何せ論理客観的な検証が出来ないので 思考が極めて短絡的で「暴力的威圧や攻撃さえしておけば解決だ」というサルのような発想でしか行動できないのである
主観的な安心を過剰に求めるが故に 合理的根拠もなしに不安をも過剰に排除しようとすることによって差別や暴力が生ずるのである
主観が求める欲望というものが合理性がない錯覚であることを認識するのは論理的な客観性である
誰か特定の相手を「敵」とみなして集団統率的に協調して攻撃していれば 攻撃している側の集団内部における仲間意識による満足感が得られ しかも攻撃している相手よりも自分達の方が順位序列が「上」だという感覚による優越感も得られるため 一度イジメや差別が起き始めると中毒的な暴走を促すことになる
これらの「人間としての欠陥」は 全て「ヒトという種の生物」における先天的な本能習性に組み込まれたものであって 機械的シーケンシャルに 自動的に発動するようになっているからこそ 子供達だけで集団生活をさせるとイジメ差別が自動的自然に発生するのである
先天的な本能習性に由来する「人間としての欠陥」は 論理客観的な理解や検証によって「パッチ」をあてることで 思考や行動に補正をかけて動作を正常化させることが可能である
それは決して罰による威圧的な行動抑圧ではなく 当人の主体的な人間としての意思選択として行動できるように促すことで 自律的な社会的責任判断選択ができるようにならないことには あらゆる「人災」の根源的原因を根絶することは出来ないのである
◇
ハンセン病患者に不条理な差別をしていたことも 法手続き上は「当時は法律がなかったから違法ではなく 賠償の責務はない」などという決定が出るのが司法制度であり 到底憲法上の「平等」など一切担保されることはないのである
それが「法の下の平等」の正体である
機械的手続きに過ぎぬ法律に 人間性も倫理もないことを 多くのヒトは理解していないが 大衆観念上では複雑な法手続きさえ行っておけば何か論理客観的な根拠のある処分だとでも錯覚するのである
刑罰の重さというのは 被害者の個人的報復感情の問題に過ぎず 社会的には原因を徹底的に究明して再発防止策を立てることの方が重要なのである
訳のわからぬ観念に基づいて「女子中学生を誘拐監禁することは 高価な美術品を盗むよりは刑が軽いと思った」などと言い出すような頭のイカれた奴であっても 「誘拐監禁は殺人よりは軽い」という司法役人の屁理屈によって9年程度で刑務所を釈放されてくるが 治っている保証なんぞ一切ないのである
司法が「他の犯罪者との罰の平等性」に執着するのは それが「罰」だからであって 治っていないキチガイを社会に釈放することで被害が再発することに対しては司法役人の誰も責任を負う制度が一切存在しておらず 司法役人にとっては社会安全性など考慮しても業績にはならないので興味すらないのである
「当時法律がなかった」云々という話も 要するに司法の目的が「罰」の判決しか頭にないからであって 社会にとって最も重要なのは安全性であり 再発防止策を立てることなのであるが それが現状の司法制度上には全く存在していないのである
刑法罰を廃止して徹底した犯罪の再発防止策を立てるための社会制度を構築するには「100年早い」と言ったバカがいるが 「100年」という数字に根拠はなく 100年後にはできることを今やらない理由も一切説明していない
議論もしなければ周知もしないで 頭ごなしに観念的基準で「100年早い」と言い出すのは 自分達の頭の悪さを隠蔽するためのはぐらかし以外に理由はない
罰を与えて満足することも 結局はオキシトシンが促す本能のシーケンスに起因する錯覚である
多数派同調迎合性というものは 論理客観的な根拠なんぞなくても主観的に安心満足するからこそ生ずるものであり ヒトは主観的に安心さえしてしまえば論理客観的安全性の根拠がなくても満足して思考を停止してしまうという先天的欠陥を持っているのである
許す許さないというのも主観である 犯罪者であってもよくよく調べてみたら酷い生育環境で育っていた事実を知ってしまうと 不憫な気持ちになって許したくなることもある
日大アメフト部による違反行為も 指導者達のパワハラの実態を知れば 違反行為をした部員だけに責任を押し付けることは不条理だと思うであろう
ヒトは誰しも間違えるものであり 間違えたら原因を見つけ出して同じ原因による間違いに陥らないよう対策を立てることこそが 社会安全性にとって最も重要なのである
社会安全性よりも 主観的な報復感情や懲罰感情を優先しておいて 人間性も倫理もスッタクレもないのである
ヘイトスピーチをやっているネトウヨも イジメも 彼らは懲罰感情を満たすことで満足しようとしているのである
ヒトという種の生物に普遍的に見られる欠陥を認識していないからカウンター的に「反撃」をすることが正義だと勘違いしがちだが 被害者を守るための便宜的措置に過ぎず「現場の正義」以上には意味がないのである
薬物中毒のジャンキーが包丁振り回して暴れていたら こちらも凶器で応戦しないことには現場は収まらないこともあるだろうが そもそも薬物中毒のジャンキーが社会から出てくる原因から根絶しないことには社会安全性は高まらないのである
通り魔を死刑にしても通り魔事件はなくならないし 踏み間違い事故の加害者を厳罰にしても踏み間違い事故はなくならない
虐待による子供の死傷も 親に罰を与えたらなくなるようなものでもないのである
主観的に「優しい気持ち」になりさえすれば人間性だと勘違いしているのは簡単だが それは自分を必要以上に正常だと錯覚している傲慢さに過ぎない
マルクス:ガブリエルだの養老孟司だのマイケル:サンデルだの フリードリヒ:ニーチェやイマヌエル:カントだのといった論理的根拠のないオカルト観念の蔓延を 世界中の科学界が放置した責任を誰も取ろうとはせず 曖昧なはぐらかしでごまかす気満々である
その上ノーベル賞受賞者の野依良治まで「主観が大事」などと言い出す始末である
どんだけバカが多いんだと 呆れるばかりである
菅内閣による日本学術会議任命拒否における「言えないこと」とは 一体何か 誰も説明するつもりもないらしい
本論で述べたことを「業績」として認めれば 責任問題は学界全体どころか司法制度や立法機関にまで波及することになるだろう
それなら隠蔽黙殺して知らんぷりしておいた方が平穏が保てる
それが「理由」だとしたらペテンも甚だしい
Ende;
遠藤秀紀は ヒトという種の生物は欠陥品であると述べたが 遠藤が言っているのはあくまで野生環境下における生存能力についての話である
だが 本論で扱っている「ヒトの欠陥」とは 「人間としての欠陥」を述べているので 次元が違う話である
そもそも欠陥を一切持たない究極の完全生物みたいなものは映画の中の妄想に過ぎない
生物は「生きるため」といった「目的」があって存在しているわけではなく あくまで結果的に死ななかったものをヒトが「生物」と分類しているに過ぎない
生物の多くは「死なないように行動する」性質があるが これは「死なないように行動しなかった」種が絶滅した結果に過ぎず 生存への執着(中毒)というものは動物の行動としては必然的結果である
別に生物というのは目的があって生きているわけではないのである
「生きている」こと自体には自己の選択は介在しないのであって 誰もが「気がついたら生きていた」に過ぎず 自分が「この世に生まれてこよう」といった主体的意思で生まれてきたわけではない
意思や目的といったものは 主体的選択可能性のないものには成立しない
自分で選べないのに意思も目的も戦略もヘッタクレもないのである
選べてこその意思や目的行動選択であって 自分の遺伝子は誰も自分では選んでいない以上 自分の先天的本能習性だけでは自由意志でも何でもない
生存にとって有利な行動さえ採れば人間としての優秀性の根拠にもならないし
生存にとって不利な行動が短絡的に人間として劣っていることの論証にもならない
内部告発など 自分が所属する組織集団にとって不利益な選択によって自己までもが不利になるとしても 社会全体の安全性や持続可能性にとって必要な選択をしてこその人間性や倫理である
ヒト以外の生物では 環境に依存した先天的本能習性でしか行動が決定することはなく 目先の快楽を追求する以外の目的行動選択はしない
しかし ヒトの場合はその場限りの快楽だけを追求するだけではなく 統合的に「考え」ることによって自分が死んだ後の世界についての持続可能性や安全性をも考慮することが可能である
可能であるが ヒトでありさえすれば誰でも必ず可能なわけではなく ヒトによっては目先の欲望のために他人に危害を加えたり 他人を危険に曝したりすることは珍しいことではない
虐待が世代間で「連鎖」したり 犯罪者の大半が幼少期からの虐待を受けて育っていて 犯罪者のように自律的な社会的な責任判断選択ができないようになる原因とは 「自分で主体的に物事を考えない」ように育ってしまっていることが最も大きな要因であると言える
簡単に言えば「バカ」なのだが こうした頭の悪さというものは法律に触れるような行為に及ばなくても ヒト全般に見られる普遍的性質であって テロリストや通り魔のような著しく激しいバカが出てきてしまう原因というのは それ以外の多くが自分の頭の悪さを自覚していないため 言わば社会全体が「バカの温床」になってしまっているのである
こんなことを言っていると あたかも言っている私だけが一方的に「頭が良い」かのような主観を持ちがちかも知れないが 先天的な頭の悪さに関してはむしろ私の方が記憶力や学習能力は低く 全然「頭が良い」わけではない
逆に学習能力が低いがために 脳が「整理」されることが少ないために 多くの人が気付かぬ間違いや嘘にも気付けるのではないかと思う
ドーパミンは その常習性によって思考や行動を「整理」する性質がある
中毒や執着の原因は 脳の先天的な本能習性の根幹を成すものであり 定常安定を求めることが生存にとって有利に働く行動を促すため 進化的に脳に組み込まれたからであり
薬物中毒で薬物をやめられないのは 動物的な先天的本能習性によって促されるシーケンスによるものであって 先天的な定常安定を求める本能の暴走である
動物的な先天的本能習性というものは 自己選択可能性がない
選べないものに「自由」があるわけもなく 欲望の強度程度で行動が決定していて「自由意思」もスッタクレもありゃしないのである
主体的に選択できないが故に 先天的本能習性というものは暴走性をも持ち合わせているのである
世の中の多くの人が薬物中毒で脳が麻痺したポンコツジャンキーであれば 社会安全性も持続可能性も維持できないことは よっぽどのバカでもなければ理解可能なことであり 他人に社会的責任を求める以上は自らも社会的責任を負う必要性があることくらいは もはや「考える」までもない自明なことである
エタノールは合法だが 泥酔するほど摂取してしまえば野獣のような行動に陥る事例があることは ニュース報道でよく聞く話である
客観的には「ああいう奴にはなりたくない」と思うのであれば 泥酔する程エタノールを摂取することは控えようと「考える」ものだが 実際にある程度脳が麻痺してくると歯止めがかからなくなって泥酔状態になるまで呑んでしまう
そもそもエタノールで脳を麻痺させたがるのは 主観に過ぎぬ個人的な観念を正当化するために 客観的な「考え」を麻痺させたいからである
居酒屋の酔っぱらいが主張している内容というのは 「世間からの評価がないと やる気が起きない」などといった主体性の欠けた主観(本音)ばかりである
脳を麻痺させておいて論理客観的真理が見極められるわけがないのであり そもそも酔ってなくても大半のヒトは論理客観的には何も考えないバカである
主観は主体性と同義ではない
主観の中には選択不可能なものも含まれており 様々な主観の中から客観的な選択が介在してはじめて本当の主体性だと言えるのである
主観的に「こうしたい」と思っているからといっても それが単に先天的本能習性によって促されているだけなら主体性にはならない
「違法薬物をやりたい」とか「通りすがりの女子大生に抱きついてキスしたい」という主観自体には主体的選択は介在していないのである
だが 様々な「こうしたい」という欲求の中から 統合的観点から持続可能で安全性のあるものが選択できれば これは主体性として働き 集中力や自発的思考能力を伸ばすことにもなるのである
小柴昌俊が「これなら一生続けられる そういうものを見つけなさい」と言うのも 益川敏英が「嫌いなことや苦手なことは そんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べるのも それぞれの個人が社会にとって最も役立つための効率にとって適しているからである
何が本当に社会にとって役立つのかを見極める論理客観性を身につけるために必要なのは 本当の自己の主体性を見極めることから始まるのである
単に「電車の運転手がカッコイイ」というだけなら 「暴力的なヤクザやチンピラがカッコイイ」と言っているのと大して変わらない
他人に憧れて「自分もああなりたい」と思っているだけなら 本当は興味もないことに熱中しているフリだけしても 自発的な論理検証性は全く育たない
ノーベル賞受賞者に憧れて「自分も評価されたい」と思ってウケ狙いで学問を勉強しても 教えられた内容に間違いがあっても全く気づくこともできずに鵜呑みにし その頭の悪さを指摘されても言葉たくみにはぐらかすばかりで既得権にしがみつくだけのバカなら大学や研究機関に掃いて棄てる程いるものである
私の指摘に対して気分が良くなる奴はいない
そもそも私以外誰も気付かなかった時点で「バカの一人」であることが確定するからだ
よって必然的に「人気」も得られないし稼ぎにもならない
世間的には「一人で踊っているピエロ」みたいな「笑い者」であろう
「これさえやっときゃ 頭が良くなって 世間的に成功して金が儲かり 人気が得られる」的な話の方が世間ウケは良いだろう
そういう書籍も書店に平積みされているが 大抵は嘘である
「世界は存在しない」だの「客観的事実などない」などといった 論理客観的根拠のないセンセーショナルなオカルトも人気が得られる
マルクス:ガブリエルだの養老孟司の大衆人気というのは 科学的検証に基づいた根拠もなく頭ごなしに否定するオカルトであるがゆえの人気である
「マー」だか「ミー」だかのオカルト雑誌の人気と同じ構造である
「人気」があるのは 大衆の脳にとってそれが主観的に「気持ちいい」からである
論理客観的根拠がなければ安全性の保証がないのであって どんなに大衆人気があろうとも安全性の保証のない話を鵜呑みにするのは社会的には無責任な選択に陥る可能性が高い危険なものである
主観的に気分の良くなる話ばかりを信じたがるのがヒトであるが 自分の主観の全てが常に正しいと錯覚しているのは傲慢というものである
信じたいことだけを信じておいて 「自分は他人を信用できる心の広い人物なんだわ」とでも思い込んで「やさしい気持ち」にでもなっていれば安心満足であろうが それは自分の主観的感覚を絶対的なものだと勝手に錯覚している傲慢さの自覚を欠いた身勝手な観念に過ぎない
そういうバカは簡単に詐欺のカモになる
Ende;