簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

岡山のい草 (JR乗り潰しの旅・宇野線)

2019-01-23 | Weblog

 大正7年徳冨蘆花は宇野線を旅し、こう日記に書いている。
「妹尾などを過ぎる。田には藺(い)が有る。濃緑に染めた藺を曝したりし
てある。下津井線と岐かれてから、海が見えてくる。泥の海に・・・」
今日、こんな光景を目にすることは、出来なくなってしまった。



 「藺(い)」はい草のことである。
岡山は古くから、い草の一大生産地であった。
江戸時代にかけて南部の干潟が干拓され、新田開発などで広大の農地が開発さ
れると、瀬戸内の恵まれた環境の元、早島や倉敷・岡山などの県南部ではい草
の生産が行われ、それは質・量ともに日本一と言われるものであった。



 い草の生産は、真冬に田圃の氷を割って苗を植え付け、五月頃穂の頭を刈り
込み、真夏に収穫すると言うもので、刈入れ時には九州方面からの出稼ぎの応
援を得るほどの作業であったが、これらの栽培はことのほか重労働でもあった。



 そんない草産業は江戸時代に急成長するものの、維新と共に景気が悪化した。
然しこのころ磯崎眠亀により精巧な花筵「錦莞莚」が開発されると、近隣には
数多くの花ござ工場が設立され、貴重な輸出品としてアメリカやヨーロッパに
輸出されるようになり、昭和40年代には最盛期を迎えることに成る。



 しかし、近年になって水島の工業地帯が操業を始める頃、農家の生活形態に
も変化が現れ、結果兼業が多くなり、加えてい草製品は安価な海外ものが流入
するようになった。更に追い打ちをかけるように、栽培中のい草の穂先が赤く
なる現象が出始め、商品価値が下がってしまった。



 この事は、工業地帯の排気ガスの影響が噂されたが真相は解明されないまま
で、こんない草の栽培より収入が良いサラリーマンの方が楽だと言う事で、転
職が相次ぎ、やがてはこの地方のい草産業は衰退してしまった。(続)



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