路面電車は、室戸台風の水害や、岡山空襲による架線柱全焼失と言う
被害からも力強く復旧し、戦後の復興事業に貢献を果たしてきた。
戦後経済の復興は、「石炭」、「水力発電の電力」、そし「鉄道」によ
り成されたと言われている。
路面電車も多くの都市で路線が拡充され、人々の移動手段として重宝
されて来た。しかし、東京オリンピックを契機に道路網の整備が進むと、
日本経済の牽引は自動車が担う事がより顕著となり、加えて電車の大敵、
バス事業者の乱立と路線網の急伸があった。
自動車や路線バスの増加を見越し、既存の道路が拡幅され、新道の計
画が相次ぐと、路面電車の存続には懐疑的な声が高くなった。
道路整備よりも、車の普及速度が上回る時代で有る。
至る所で道路が渋滞し、路面電車も巻き込まれ思うように走れない。
それどころか、邪魔者扱されるようになる。
岡山市内でも戦後の市街地復興の一環で、番町交差点の国道53号線と、
原尾島交差点の国道2号線(現250号線)を結ぶ2.3㎞の県道402号線が
計画され、その途中の旭川には、出石地区と対岸・浜地区とを結ぶ新た
な橋が架けられる事になる。
昭和46(1971)年「新鶴見橋」の完成を待って新たな県道が開通する。
その3年前、新道には無用とばかりに役割を終えた番町線は、惜しまれつ
つこの道路から完全に姿を消した。
モータリゼーションの波は、延伸どころか、廃線に追いやってしまった。
余談になるがこの原尾島の国道2号線は、昭和41(1966)年日本で
最初に点字ブロックが道路に敷設された場所である。
交差点には記念のモニュメントが建てられている(続)
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