簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

繊維の町・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

2022-04-22 | Weblog

 瀬戸内海に面した児島は、明治時代から繊維の町として栄え、岡山県
下ではアパレル製品の産地として知られたところである。
今でも関連する企業が多く立地している。



 元々ここは海に浮かぶ小島で、江戸時代から行われた干拓により地続
きに成り、新田が造成され広げられた地であった。
しかし塩分の多い土はコメ造りには適さないことから、変って塩気に強
い綿花の栽培がおこなわれる様になったという。



 当時からこの近辺には人口が多く、労働力が豊富にあったため、綿花
を栽培し、糸を紡ぎ、機を織った。
それが今日の主要な産業に成長した歴史を秘めている。
 
 大正時代に入り県外から大手の企業が進出するようになると、いち早く
生活様式変化に目を付け、足袋や学生服・作業服への製造に舵を切った。



 学校や企業のユニフォーム、作業着、スポーツウエア、介護ウエア、
子供服など、多岐にわたるユニフォーム類の生産実績は、たちまち日本
トップクラスに成長した。
その中心がここ児島地区で、中でも昭和初期の学生服は、その9割が当
地で生産されていた。



 大正2(1913)年には、味野町(後の児島)と茶屋町との間に下津井
軽便鉄道が開通し、国鉄宇野線との接続が可能になった。
同鉄道はその後、児島の市街地を抜け瀬戸内に面した湊町、下津井まで
延伸され港からは四国への舟便連絡も便利になった。



 こうして交通の利便性も高まった町は、活気に溢れていた。
そんな街の「味野商店街」は、購買意欲も盛んな多くの人口に支えられ、
かつてはこの近辺では最も栄えた商店街だった言う。

 しかし何時しか、通りからは人の姿が見られなくなる。
やがて店舗もそれにつれ減少、空きが目立つようになり、気が付けばネ
コが闊歩するシャッター通りに変わり果てていたそうだ。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする