寺田屋を後にして、竹田通りに出て左折、50m程南進して京橋を渡る。
流れる川を「豪川」といい「宇治川」に注ぎその後淀川に合流している。
豊臣秀吉は伏見に城を築くと、この二つの川に城の外堀の役割を持たせ、
宇治川の付け替えや堤防の改修、街道の整備に力を入れ、併せて城下町
の開発を行なった。
江戸期に入ると城は廃城となるも、慶長年間には角倉了以による高瀬
川の開削により、京・洛中と伏見を結ぶ高瀬舟が運行されるようになり、
商業都市としての機能が高められる。
ここ京橋には古くから伏見湊があり、高札場があり、舟番所も置かれ、
大坂への三十石船、山城への二十石船、宇治への芝船などの運行が頻り
に行なわれていた。
伏見は、街道の結節点として、陸運の要衝であると同時に、京・大坂
を結び、また琵琶湖を経て遠く東海道や北陸とも連絡する海上交通の大
動脈の中心でもあった。伏見湊には、数十軒の舟宿が建ち並び、千数百
隻にも及ぶ舟運で賑わっていたという。
「日も西にかたぶき、往来の人、足はやく下りの船の人を集める船頭
の声やかましく・・」
夕方ともなると、大坂に向かう旅人が湊に集まり、淀川の下り夜船の
乗客を確保しようと船頭の声が喧しかったという。
川を下る大阪行きは72文と言い、流れに乗り早かった。
反対に京への上りは川の流れに逆らうため、その倍も船賃がかかるわり
には時間がかかり、そのスピードは歩くよりも遅かったらしい。
こんな賑わいを見せた伏見の町も、明治に入ると京都大阪間の鉄道が、
遙か北の方に逸れて開通すると、町は次第に寂れ、やがては川湊も衰退
することになる。(続)
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