簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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殉難の歴史(JR乗り潰しの旅・信越本線)

2019-10-28 | Weblog
 熊ノ平停車場跡からは横川駅前の入口に向けて、標高差300mを下る約6キロ
の「アプトの道」は、10カ所のトンネルくぐり抜ける道である。

 構内に「碓日嶺(うすいみね)鉄道碑(アプト式開通の碑)」が建っている。
元々軽井沢駅前にあったものだが、関東大震災で倒壊し放置されていたものを
この地に移したものだとか。
幾つかに割れたものをつなぎ合わせたように見えるのはその性のようだ。
大きな石に開通に伴う経緯や関わった人々のことが書かれているようだが、漢
字ばかりで、素人には中々読み下せない。





 変電所を右に見て、旧線の踏切を渡るとその先には、「殉難の碑」が有る。
昭和25(1950)年6月8日の早朝に大規模な山崩れが起きた。
その復旧作業中に土砂崩れが発生し、この二次崩壊により職員とその官舎に住
む家族数十名が一瞬にして埋め去られた。





 これは死亡50名、重軽傷者23名にも上る大惨事となった。
押しつぶされた官舎からは、乳飲み子を抱き抱えた若い母親の遺体が発見され、
救助隊員の涙を誘ったと言う。それを悼んで建てられたのが霊堂と母子像である。





 厳しい峠の上り下りをする旧碓氷線には、僅かな区間ながら26カ所のトンネ
ルと18の橋梁が造られた。当時の蒸気機関車にとっては、このトンネルの連続
は常に煤煙との戦いを強いられていた。暖まった煤煙は、煙突効果となったト
ンネルを下から上へと流れ、その中を時速8キロで走る機関車の機関室には煤煙
と蒸気が充満し、機関士や乗務員の中には窒息や失神する者が続出したという。
機関士達は生死をかけて運転していたようだ。(続)




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