簾 満月「バスの助手席」

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擬宝珠の刀傷(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-04 | Weblog
 鴨川の河原でのさらし首が始まったのは、平安時代と言われている。
関東で乱を起こした平将門は、戦に敗れ捉えられ、彼の首は京に送られ、
七条河原で晒されている。天慶3(940)年の事という。



 平安時代のさらし場は、六条から七条にかけてが多かったらしい。
その後鎌倉時代に入ると、四条が加わり、安土桃山時代になると三条川
原が多用されるようになる。これは東海道が整備され、三条粟田口が京
への入り口になったとこと密接な関係もあるようだ。
見せしめとしての処刑が行われたもので有ろう。



 血生臭い出来事は、鴨川の河原だけではなく、橋の上でも数々の事件
が伝えられている。
橋の擬宝珠には、「池田屋事件」で付いたとされる刀傷が残されている。



 江戸時代、「公儀橋」上での抜刀は禁じられていた。
ここから150m程離れた池田屋での乱闘は、この橋まで流れ込んでの斬
り合となった。
その時振り下ろした刀が擬宝珠に当たって付いたとされる傷が擬宝珠に
克明に残されている。



 橋の西詰め北側には、嘗て「高札場」があった。
この高札場を巡っては、江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士と、
それを阻止しようした新選組の衝突が知られている。
いわゆる慶応2(1866)年8月28日の「三条高札事件」である。



 新選組三隊、総勢36名の隊士が警戒する中、土佐藩士8名が制札を抜
きに高札場に現れ、橋を舞台に大乱闘になった。
 1人を斬り殺し、1人を捉えたものの、8人の内6人も捕り逃がす失
態を新撰組が犯してしまう。
事件は長州藩を逆賊とする内容が高札に書かれていた事が発端らしい。(続)





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