簾 満月「バスの助手席」

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京の七口(東海道歩き旅・山城の国)

2024-10-09 | Weblog
 浄水場の有る「蹴上」付近から、白川橋に到る地を「粟田口」と呼び、
京都と諸国とを結ぶために設けられた街道の出入口の一つとされていた。
この地は、奈良時代以前には既に開かれていて、粟田氏が本拠とする粟
田郷と呼ばれていた。



 平安京ができると、東国との交通、軍事上の要衝であり、粟田口また
三条口とも呼ばれ、「京の七口(きょうのしちくち)」の一つにも数え
られた。

 室町時代から江戸時代にかけては、一般的には「京の七口」と言われ、
都に入る街道の入口が七カ所有ったとされ、関(関所)が設けられ関銭
が徴収されていた所も多かったという。



 一般的な説で七つの口は、粟田口・東寺口・丹波口・鳥羽口・鞍馬口・
大原口・荒神口とされている。とは言いえ、資料によっても記述が異なっ
たり、時代と共に場所も数も変遷があり、必ずしも七つと断定できるもの
ではなさそうだ。



 実際、都への入口は7箇所よりも多く、この他にも八瀬口、長坂口・
五条口・竹田口・伏見口、五条橋口等も有ったと伝えられている。

 これらの中では、粟田口・鞍馬口・荒神口等が地名として、又丹波
口、上鳥羽口等が駅名として、現在まで引き継がれ残されている。



 『「七」は、数を示すのではなく、古代の日本の行政区画概念である
「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国へつながっ
ていることを表すというのがルーツとの説が有力(Wikipedia)』とある。



 これらの事から、七口は七カ所を断定的に特定するものではないようだ。
多数の出入口を象徴的に、「七」を用いて表現したと言うのが、今日の一
般的な解釈のようだ。(続) 





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