簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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粟田口・刑場跡(東海道歩き旅・山城の国)

2024-09-25 | Weblog


 旧東海道(三条通り)も九条山に差し掛かり、日ノ岡越えも最早ピー
クが近い。東山ドライブウェイと立体交差の辺りに、「粟田口刑場跡」
と書かれた大きな看板があった。

 その手前の崖の上には、「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれて
いるらしい二基の石碑も有ったが、草が生え過ぎ、道も定かではなく近
づけなかった。



 ここが江戸時代以前より設けられていた、京で最大級の「粟田口刑場
跡」である。天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒された
場所と言い、又京都居住のキリシタンもここで処刑された。

 江戸時代にも毎年3回程この地で公開処刑、磔(はりつけ)、獄門、
火刑が行なわれた記録が残されているらしく、その数1.5万人にも及ぶと
言われている。



 刑場は明治維新後に廃され、明治5(1872)年にはこの刑場跡地の後
山中腹に「粟田口解剖所」が設けられた。
ここでは刑死した4名の解剖が行なわれ、多くの医師がその様子を参観し
短期間ではあるが、近代医学の発展に寄与した場所とされている。



 こうした事から刑死者供養として、京都の各宗派寺院がこの地に供養
碑を建てたという。幕末頃には15基にも及ぶ供養碑が有ったらしいが、
明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として道路側溝の蓋石などに転
用されたといい、僅かに残されたのが先ほど遠望した二基の石碑である。



 この先には、晒し場であった三条川原もあり、品川宿に近い「鈴ヶ森
刑場」を始め、当時大きな街道筋にはこうした刑場が置かれていた。
人通りの多い場所に設けることで、一罰百戒の見せしめ、犯罪抑止の場
とも成っていたようだ。(続)





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