簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

川越人足 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-05-06 | Weblog
 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
徒で渡るより方法がない大井川だが、旅人にとって慣れない土地の
知らない川を渡るには余りにも危険が多すぎる。

 その為川渡しを手伝う川越人足が誕生した。
人足は当初対岸の金谷と同じそれぞれ350人と定められていたようだが、
交通量の増加に伴って幕末の頃には、650人ほどに増えたそうだ。





 越すに越されぬ大井川はただ単に川越しの難儀だけではなく、水嵩
によってはほぼ倍にまで跳ね上がる渡し賃の高さも旅人、取分け銭を
持たない庶民を苦しめていたようだ。

 例えば股通しと言われる一番水の少ない時に肩車渡しなら川札は1枚
48文ですむが、四人が担ぐ蓮台渡しともなると川札は4枚となり、さら
に蓮台用に2枚の合計6枚必要となった。
これは今の価値に換算すると8,000円から1万円程度というから驚きだ。





 参勤交代の大名等大人数になると時に支払いは数十両にも上るという。
その上川留めともなれば宿泊費も嵩み、その出費は想像を絶するものが
あったようだ。これは参勤交代で大名の体力を削ごうと目論む幕府の思
う壷であるが、とばっちりを受ける庶民はこれではたまらない。





 かの弥次さん喜多さんもなんとか値切ろうと詭弁を弄して頑張るが、
嘘がばれ480文払って蓮台で、肝を冷やしながら渡っている。
こうして銭を持った旅人はまだいいが、銭を持たない庶民となると川会
所に事情を説明し、認められれば、無銭奉仕の人足が担ぐ丸太に、数人
単位でしがみついて渡ったというから正に命がけの川越である。(続)

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大井川川越遺跡 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-05-04 | Weblog


 伝馬制が制定され整備の進む東海道であったが、幕府は多くの川に
橋を架けるのを禁止し、ここ大井川では渡船さえ禁じていた。
これは偏に江戸の治安維持が目的とされるが、旅人にとっては迷惑こ
の上ないことである。



 島田宿の外れにある大善寺前を過ぎると、正面遠くに白い大きな製
紙工場の煙突が見えてくる。
工場の正門を見てその先で県道を左に外れ、しばらく工場の外壁に沿っ
て進むとやがて江戸時代にタイムスリップしたような街並みが現れる。
「島田宿大井川川越遺跡」である。



 通りには、川越人足が詰めていた番宿が幾つも再現されている。
また人足を退いた人たちの集まりの場として「仲間の宿」や「立会宿」
もあったと言い、それらも再現されている。
これは今で言うなら老人クラブのようなものらしい。



 ここには川越を取締まる「川会所」が設けられ、川越人足が置かれた。
川会所ではその日の水量を計り、川越賃金を決め旅人に川札の販売を行っ
ていた。旅人はこの札を購入し渡川の折人足に渡し、人足は後ほど「札場」
で銭に代えていたという。



 「川会所」の庭には、松尾芭蕉の「馬方はしらじ時雨の大井川」の
句が残されている。
またその先の朝顔の松公園内にも多くの歌碑や句碑があり、当時から
文人墨客も感慨深く川越をしていた様子を窺い知ることができる。



 島田宿を水害から守った「島田大堤」や、あふれる水をここで防い
だと言う「せぎ跡」など、ここには水との壮絶な戦いの跡も幾つか残
されている。そんな歴史や川越の様子は、川の堤防に上る手前右側に
ある「島田市博物館」でも知ることができる。(続)

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島田宿(東海道歩き旅・駿河の国)

2020-05-01 | Weblog
 藤枝宿の出口に当たる瀬戸川を渡ると、右手にフェンスに囲まれた
中に一里塚跡の碑と並んで秋葉神社の常夜灯が立っている。
ここらあたりは昔から火伏の神としての秋葉神社信仰が根強いらしく、
これまでにも何度か見てきたが、藤枝宿の蓮正寺入り口前にも立派な
常夜灯が残されていた。
ちなみにこの寺は熊谷次郎直実ゆかりの寺である。





 橋の欄干に「田沼街道」と書かれた銘板が張られている。
江戸中期に権勢を誇った老中・田沼意次が自地相良にお国入りするため
に相良湊まで整備させたと言われる約七里の脇往還・田沼街道で、ここ
がその起点と言うことらしい。

 権力者の一声で交通インフラが整えられるのは、今も昔も同じらしい。
最も当時の街道は海岸部と山間部を結ぶ物資の輸送ルート、特に塩の道
として盛んに利用されたというから、私利私欲だけでもなかったようだ。





 島田宿は背後に天下の難所、大井川を控えているだけにその規模は
可成りのもので有ったようだ。
本陣も三軒あり旅籠の数も四八軒、宿内の人数も七千人近い。
当時宿場の中心はJR島田駅近くの島田本道り辺りと言うが、通りは
典型的な地方都市のメインストリートで、当時を彷彿させるものは何
も残されてはいない。





 商店街を外れると大井神社の豊かな森が見えてくる。
輿入れした新嫁の代わりに、帯を披露する「帯祭り」が有名と聞くが、
どんな祭りなのかはよく知らない。

 その先に大善寺がある。
よく手入れされた境内に鐘堂があり、時の鐘が備え付けられている。
昼夜二時間おきに宿民に刻を告げると同時に、大井川川越しの始まり
と終わりの合図ともなっていた。(続)

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