簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

 倉敷川(水島臨海鉄道に乗る)

2022-08-08 | Weblog


 倉敷美観地区の中央を流れる倉敷川は、江戸時代には上方への物資の
輸送、明治に入ると倉敷紡績の原綿運搬用の川として使用されていた。
 
 一時は高梁川の酒津取水門から流れる新川と繋がり、瀬戸内海の児島
湾に開けた運河で、言わば当時は倉敷を支える大動脈で、盛時には凡そ
40艘の川船が運航していたという。
その後都市化の影響で新川が埋め立てられると、今では源流を持たない
川となった。



 また昭和34(1959)年に児島湾が堤防で締め切られると、運河として
の役割を終えることになる。
役割のなくなった川は衰退し、20m程有った川幅も半分ほどになり僅か
に残るのみで、忘れられた川と成り果ててしまった。
更に放置されて、水質も悪化するなど、一時受難の時代が続く事になる。



 やがて昭和40年代に全国で観光ブームが巻き起こると、川沿いに残る
土蔵や町屋等の建物に注目が集まり、観光客の来場を当て込んで周辺一
帯の整備が進むこととなった。するとこれまで見捨てられていた川の存
在にも着目され、再び脚光を浴びるようになる。



 今では浚渫が行われ、高梁川から取水する農業用水とも繋がり、水質
も改善した。船溜り跡や雁木、積み降ろし場等の沿岸は親水公園として
整備され、早咲きの河津桜やソメイヨシノを中心とした桜の植樹などの
改善施策が頻りに行われてきた。



 「大原美術館」等のある、観光の中心的な場所では、今橋と高砂橋の
間を周遊する観光用の遊覧舟「くらしき川舟流し」の運航も始まった。
今では岸辺のシンボルとも言える柳並木とともに、倉敷観光には欠かせ
ない存在になっている。(続)





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大原美術館(水島臨海鉄道に乗る)

2022-08-05 | Weblog
 「エヲカッテヨシ カネオクル」
本場欧州での絵画勉強に励む画家・児島虎次郎から、再三に渡る「絵画
を買いたい」との申し出の熱意に押され、彼を支援する倉敷紡績二代目
社長・大原孫三郎はこう電報を打った。



 第一次大戦後、孫三郎の依嘱を受けた虎次郎は、二回に渡り欧州に赴
き西洋絵画、彫刻、古代エジプト美術品、中近東の古陶器等を蒐集した。
それが今日の「大原美術館」の所蔵品の基礎を成す品々である。



 倉敷美観地区を象徴する「大原美術館」は、昭和5(1930)に日本で
最初の西洋近代美術館として開館した。
 その前年に死亡した虎次郎を記念するため、孫三郎が設立したもので、
建物を設計したのは、大原奨学生であった建築家の薬師寺主計である。



 『この蒐集は我が国に西洋美術の本格的な根を植え付け、日本画壇の
向上発展に寄与しょうとする児島虎次郎の念願と、彼の画業をその生涯
を通じて少しも変わることなく支援し続けてきた大原孫三郎の深い友愛
との結晶』と言われている。
(「大原美術館 OHARA MUSEUM OF ART Ⅰ」)



 蒐集は先代の死後も遺志を継いだ嗣子・総一郎により第二次大戦後も
行われ、新たにセザンヌ、ドガ、シスレー、ルオー、ピカソ、ユトリロ
等20世紀を代表する画家の作品が加えられた。

 同時に、近代日本洋画の代表作品の他、陶器(バーナード・リーチ、
富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司)、版画(棟方志功)、染色品(芹沢
銈介)等、民芸作品も多数集められた。
これらは新たに建設された新館、工芸館や東洋館などで展示されている。



 誰もが一度は、教科書等で目にした、実物・本物のアートと出会える
大原美術館の立上げは、大原孫三郎の執念とも言えるものであった。
本業が悪化するさ中、これが最後の社会事業となった。(続)





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倉敷美観地区(水島臨海鉄道に乗る)

2022-08-03 | Weblog


 倉敷は江戸時代になると、幕府直轄の「天領」として、又倉敷川の水
運を利用した物資の集積地として繁栄を極めることとなる。
川沿いには、年貢米などを納める蔵屋敷等が多数建ち並んだと伝えられ、
これが地名の由来とされている。
その地は「倉敷美観地区」と呼ばれ、倉敷地域を代表する観光地となった。



 「美観地区」へは、倉敷駅南口を出てペデストリアンデッキで、駅前
を東西に貫く国道429号線を跨いで、中央通りを600m程行った先にある。
一帯は、白壁土蔵造りや、塗壁造り・格子窓の瓦葺き町屋、浪漫薫る洋
風建築等が建ち並び、柳並木と共に独特の景観を見せ、国の重要伝統的
建造物群保存地区に指定されている。



 その観光拠点となるのが、観光案内所「倉敷館」である。
大正年間に町役場として建てられた白い洋風建築で、市の重要文化財に
登録されている。
内部は観光案内所で、各種パンフレット等が用意されている。
無料で使える休憩所には、コインロッカーや自動販売機等を備えている。



 倉敷は、古い町並の中に斬新なデザインの洋風建築がアクセントとし
て上手く溶け込み、浪漫溢れる町並を見せている。
歴史を感じるのにどこかモダンで新しい町。
また「和」と「洋」が混在、する美観地区を中心とした町並。
これらが大きな魅力となっている。



 庶民の日常の生活に根付いた民衆的な工芸を略して「民芸」と言うが、
ここ倉敷には今もその運動の精神が根強く引き継がれている。
倉敷民芸館を始め、町中には倉敷ガラスや緞通、花むしろなどを扱う民
芸ショップも多い。最近で言えば、マスキングテープも仲間入り。
倉敷のもう一つの顔を訪ね歩くのも良いだろう。(続)






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倉敷みらい公園(水島臨海鉄道に乗る)

2022-08-01 | Weblog
 都市型テーマパーク「倉敷チボリ公園」は僅か11年の短命で閉園した。
開園直後には東京ディズニーランドに次ぐ入園者数を誇り、輝かしい時
期もあったが、年々に来場者は減退し、終には開園当初の半分にも満た
ない状況になった。



 立て直し策も検討されたが、肝心なデンマークのチボリ社と運営会社
の間で、運営契約が更新できず「チボリ」の名称使用が出来なくなった
ことが致命的となった。
様々な対案が飛び交ったと記憶しているが、どれも具体化出来ないまま
撤退が決まった。



 多くの遊具などは解体され、現在その跡地は平成23(2011)年11月、
「倉敷みらい公園」として再開発されオープンした。
JR倉敷駅からは、北口のペデストリアンデッキと直結している。
倉敷用水の流れに沿って、幅22m往復約600mの緑道が整備され、加えて
広々とした芝生広場から成る、広さ2.1㏊の公園である。



 芝生広場は体力増進遊具、水遊びの出来る流れ、ツリーハウスなど、
「未来の子供達への贈り物」が配置されている。
又災害時の一時避難場所として使用する為、トイレになるマンホールや
かまどとして使えるベンチ、LEDソーラー照明など様々な災害対策機能
も施されている。



 園の緑地帯は、かつて公園内にあった「アンデルセン広場」の名残で、
空中木デッキやベンチを配した水と緑の癒やしの空間となっている。



 公園に隣接して、複合商業施設の「アリオ倉敷」や、アウトレット店
「三井アウトレットパーク倉敷」などが立地した。
駐車場も再整備され、一帯はこれまでとは異なった賑わいを見せている。(続)





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