簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

亀山城 (東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-07 | Weblog


 亀山は、15世紀の終わり頃には、文献にその名が見られる様になり、
町の成立時期と考えられている。16世紀には町のシンボルとも言える
亀山城が築かれ、以後は関氏等の城下町として発展を続けてきた。



 伊勢の亀山城は、文永2(1265)年に、今の城の北西に当たる若山の
地に、関氏が築いたのが始まりとされている。
織田信長の伊勢侵攻以降、度々戦場となった。

 天正18(1590)年、豊臣秀吉の時代に現在の鈴鹿川を見下ろす地に移
され、小田原攻めで功のあった岡本氏が入城し、城地はその後ほぼここに
確定していると言う。
その後、関ヶ原の合戦で西軍に与した岡本氏は、破れて当地で自刃した。



 江戸時代に入って、寛永9(1632)年、幕府より丹波亀山城の天守解
体を命じられた堀尾忠晴は、何を勘違いしたのか、ここ伊勢の亀山城の
天守を壊してしまった。
以後天守は再建されることも無く、明治を迎えたと言う。



 しかしこれには裏があり、敢えて間違えたように見せかけ、小大名に
不釣り合いな華美な天守を解体した、との説も有るらしい。
 当の堀尾は翌年34歳の若さで死亡、この時嫡子は無く、養子によりお
家の存続を願い出るが、幕府に認められず、大名としての堀尾家は断絶
しているのも、何か因縁めいた謎を秘めている。



 かつてこのお城は別名を「胡蝶城」と言い、姿の優美な城であったが、
明治の廃城令で、城内の建造物は悉く破壊された。
現在は天守台、石垣や堀、土塁の一部が残るのみで、正保年間に建てら
れた本丸東南隅の多門櫓が唯一の遺構として、今日の亀山城の代表的な
景観となっている。(続)



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伊勢亀山藩(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-05 | Weblog


 亀山宿は、伊勢亀山藩六万石の城下町である。
戦国時代は信長・秀吉に仕えた関氏が領し、その後岡本氏が入城した。
関ヶ原の合戦以降は、東海道の交通の要衝とされ、代々幕府直轄の城持
ち譜代大名、関氏、松平氏、三宅氏、本多氏等が入り、最後は石川氏が
11代に渡り統治してきた。



 城主の幕府格付けは、江戸城「帝鑑之間」詰めとされている。
登城した大名は、将軍との拝謁の場合、格付けにより定められた控えの
間で待つのが仕来りで、これは徳川御三家の「大廊下」、大老・老中格
などの「溜之間」、国持ち大名などの「大広間」に次ぐ序列である。



 更に控えの間は、城主クラスの譜代大名などの「雁之間」、それ以下
の親藩、譜代大名などの「菊之間」、その他の外様大名などの「柳之間」
と続き大名の序列が視覚化されていた。

 全国凡そ300藩と言われているので、亀山藩は可成り上位に位付けられ
譜代大名の中でも高位とされた大名である。



 この事から西国大名は、これを憚り、と言うよりは嫌い、宿泊地とし
ては敬遠したらしい。
庶民にとっても鈴鹿峠越の宿としては少し距離が離れ過ぎている。

 又、お伊勢さん参りの多くは、日永の追分けから伊勢参宮道に入り、
帰路で京・大坂に立寄る場合でも脇往還で次の宿場・関に向かう事が多
く、亀山には泊まらない。
そんな事から、宿場は賑わいに乏しかったらしい。



 街道筋を外れ少し北に入った西丸町に、藩の家老を務めた加藤家(六
百石)の屋敷がある。江戸延享年間以前に建てられた長屋門や海鼠壁の
土蔵、稲荷社などが残されている。武家建築の様式を今に伝える遺構で、
市の文化財の指定を受け、内部は郷土資料館として公開されている。(続)



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亀山宿(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-07-03 | Weblog


 東海道は伊勢の国・亀山宿に入ってきた。
通りの建物には、市民グループによる屋号看板が下げられている。
本町に入れば宿内となり、大きく左にカーブしながら宿場町の中心へと
入り、それは途中の江戸口門を経て、その先の京口門まで続いていた。



 「熊褒野神社」二の鳥居の先の茶屋町に入ると、「露心庵跡」がある。
天正年間この付近で行われた合戦の戦死者を弔う小さなお堂があった場
所だ。街道は東台町から左にカーブし、突き当った辺りが江戸口門跡で、
街道はここを右に曲がる。



 その先で左に折れると東町の道筋で、それは城下町らしく曲がりくねっ
た道である。加えて緩やかに上り下る細い道の両側には、幾らか古い家並
みも残され、それらしい雰囲気が感じられる。
 しかし主要な施設は何も現存せず、東町には本陣、脇本陣の跡があり、
大手門の辺りに高札場跡が、西町にある西町問屋場跡も案内板のみだ。



 そんな中特筆すべきは、旧舘(たち)家住宅で、元は枡屋という呉服
商の建物である。母屋は明治6年に造られた「出桁造り(梁を建物から
突きだしそれで桁を受ける構造)」と呼ばれる形式だ。
宿を代表する商家建物と言われ、休日に限り内部は無料で公開されている。



 東海道46番目の亀山宿は、人口1,549人、家数567軒、本陣と脇本陣が
各1軒、旅籠21軒とあり、規模的には中程度である。
「城下の市中賑わい無し」と言われた様に、宿場としての賑わいは左程
無かったようだ。その辺の事情は、先の石薬師や庄野宿と同じであるが、
この宿場ならではの特殊な事情も有ったらしい。(続)



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