簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

大津事件(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-08 | Weblog


 「此附近露國皇太子遭難之地」
旧東海道沿い、中央二丁目交差点の角に、所謂「大津事件」の碑が立っ
ている。うっかりしていると、見過ごしてしまうほど目立たない石碑で
あるが、歴史教科書で習った記憶がある重大な事件発生場所を示す碑だ。



 事件は明治24(1891)年、大津を遊覧中のロシア皇太子ニコライに、
警備中の巡査・津田三蔵がサーベルで斬りつけて発生した。
 大国ロシアの次期皇帝となる人物に怪我を負わせ、同国から国際問題
として圧力のかかるのを恐れる明治政府は、津田三蔵を大逆罪で死刑に
するよう司法に迫った。



 問題は、政府と司法との抗争にまで発展したが、時の大審院長の児島
惟謙は、それを拒み刑法どおり無期徒刑とし、最後まで司法権の独立を
貫いた、と後に賞賛されることになった。

 背景は色々取り沙汰されているが、津田は裁判で「愛国の情、忍ぶこ
と能わざるに至りたるより、害を加え奉りしものなり」と述べたと伝え
られている。



 当時ロシアは全世界の6分の1の領土を有し、世界最強の陸軍を持ち、
更にシベリア鉄道の建設によりアジアへの進出をはかっていると見られ
ていた。こうした中、今回の来日では各地を探り、日本侵略の為の下調
だとの噂が流れ、日本にとって非常に大きな脅威となる国との認識が背
景には有ったと言われている。



 事件碑を過ぎると京町で、この辺りには、嘗ての旅籠を思わすような
連子格子の町屋が幾らか残されている。

 京町の西の外れが「札の辻」で、大津宿の中心的な場所である。
道路脇の片隅に、「大津市道路元標」がある。
ここは北国街道の追分けでもあり、東海道はこの辻を左に曲がる。(続)





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大津百町 三筋の通り(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-05 | Weblog
 大津市は、歴史的風土を守り、活かしながら、古都にふさわしい風格
あるまちづくりを進めるために、平成16(2004)年4月「古都大津の風
格ある景観をつくる基本計画」を策定した。
 市域を7つの景観地域と2つの景観軸に区分し、それぞれの景観づくり
の方針を定めた。(大津市HPより)



 比良山系などの「山地景観地域」、比叡山・坂本や、近江大津京跡、
園城寺、石山寺などの「古都緑地景観地域」、湖岸等から丘陵部にかけ
て広がる「田園集落景観地域」、大津の都心に位置づけられる浜大津か
ら膳所、副都心に位置づけられる堅田駅周辺、石山駅周辺、瀬田駅周辺
の「都心景観地域」などである。



 景観造りは、東海道で繋がる草津市とも連携し行われている。
施策の中心は、「東海道統一案内看板設置」で、既に大津市内の街道筋
にも20カ所近い場所に看板が掲げられている。草津市で見てきた物と同
じ物である。



 琵琶湖水運で栄えた湊町でもある大津宿は、実際には96町ではあるが、
「大津百町」と言わ、町の大きさが誇示されていた。
東西に長い町並は、東海道を初め、三本の大通り沿いに形成されている。

 この辺りには、嘗て繁栄を誇った往時の名残か、登録有形文化財に指定
された町屋が多く残されている。



 北に面して建つ平入町家、「小川家住宅主屋」もそのひとつだ。
大津祭巡行がある通り側には大きく窓を開ける、という特長を持っている。
近世の小規模町家を、近代風に改修した歴史をよく伝える住宅が評価され
ているらしい。



 「大津魚忠」は、呉服商の住居として建てられた物だが、現在は料亭を
営む町家だ。正面1階は格子、2階には虫籠窓を設け、深い軒を腕木と出
桁で受けている。軒高が高く、木割の細い繊細な構えは,明治後期の商家
の姿を良く留めていると言われている。(続)





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大津宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-03 | Weblog
 東海道は、何時しか大津宿の中心地に入ってきた。
東海道では53番目、中山道では69番目に当たる宿場町で、北国街道の追
分けでもある。



 京都から辿ればここまで三里、初めての宿である。
草津から三里半歩いた旅人は、ようやく長い旅の終わりが見え、訛り言
葉にも京を間近に感じる事が出来たであろう。



 町の数96町、家数3,650軒と言われるだけに、東海道筋でも最大級の
1,5万人に近い人口を抱えていて、男女比では女が200人ほど多かった。

 本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠は71軒を数えたという。
同じ湊町として栄え、七里の渡しが控えた宮宿の248軒とは比べようも
無いが、可成りの規模の宿場であった。



 大津に稲作の弥生文化が伝わったのは、弥生時代前期中頃らしい。
古墳時代には、この辺りにも首長の大古墳が出現している。

 「大津の名は天智天皇の都より言い始め・・・」と言われるとおり、
7世紀の天智天皇の時代には、飛鳥の岡本の宮から近江大津宮(大津
京、大津宮或は志賀の都とも言う)に都が移され、これが大津の名の
初めとされている。



 しかし、大津宮跡の推定地は市内に幾つかあり、未だに明確には分か
っていないらしい。これまでは穴太(あのう)、滋賀里(しがさと)、
南志賀町廃寺跡(みなみしがちょうはいじあと)、粟津(あわず)など
が有力な候補地とされていた。



 しかし近年、南志賀の榿木原遺跡では瓦が大量に発見され、俄に注目
を集めたという。
 ところが、近江神宮西の「近江大津宮錦織遺跡〈国史跡・名勝〉」では、
昭和49(1974)年の発掘で、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。
今日ではこちらが最有力地とされているが、まだ混沌としている。(続)





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大津・旧境川町(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-01 | Weblog


 松本の交差点からは、「旧琵琶湖文化会館」の城の様な建物が見える。
ただ、現在は休館中で、「新・琵琶湖文化館基本計画」により、装いも
新たに2027年度の開館を目指し準備中らしい。



 粟津の晴嵐から西の大津港ターミナルまで、約4.8kmに渡って続く細
長い公園「大津湖岸なぎさ公園」の西端に近い場所には、びわ湖ホール
などの文化施設や、ホテル、商業施設などが多く立地していて文化会館
もそのひとつだ。



 左側には「滋賀県庁舎本館」が見える。
鉄筋コンクリート4階建て、中央に塔屋が聳えるルネッサンス様式の建
物だ。総工費200万円をかけて昭和14(1939)年5月に竣工した建物で、
国の登録有形文化財の指定を受けている。



 「旧境川町」の案内板が建てられている。昔は東西に開けた宿内の東
の端に当たる場所で、吾妻川が流れ川を越えれば東国で、川の東を関東、
或は坂東とも呼んだ。
関東二十八州、関西三十八州と呼ばれた区切りの場所である。



 現在の大津市は滋賀県の県庁所在地である。
総世帯数は155,913世帯、人口は344,552人で、男女比では昔と変わらず
1.2万人ほど女性の方が多い。(令和5年1月1日現在 大津市HPより)
京阪神のベッドタウンとして発展を続けているという。



 大津は、古くから琵琶湖の物資が集散する湊町としても栄えていた。
宿内の琵琶湖に面した海岸寄りの通りには、諸侯の蔵屋敷が沢山見られ
たらしい。北越や近江の国中の産物や魚物などが舟で運ばれ、日毎に市
を成す賑わいであったという。
 又、京までは残り三里、大阪までが十四里と近いこともあり、こちら
とも頻りに交易が行なわれていたようだ。(続)




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