簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

三条大橋の西詰(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-06 | Weblog
 橋を渡った大橋西詰北側の高札場跡近くには、旧三条大橋の花崗岩製
の石柱が残されていて、説明板も掲げられている。
石柱には天正17(1589)年の銘が有り、今の神戸市東灘区から切り出
されたものという。



 三条大橋は天正18(1590)年に、豊臣秀吉の命により増田長盛を奉
行として石柱橋に改修されたが、これが日本で初めての石柱橋である。
現在の橋の下流側の橋脚にも、当時のこの石柱が使われているという。



 道路を隔てた反対側は小公園になっていて、江戸時代の十返舎一九作
の「「東海道中膝栗毛の主役、「弥次郎兵衛と喜多八」の像がある。
彫刻家・小山由寿氏の作といい、平成5(1994)年に、三条小橋商店街
振興組合が建立した。



 弥次さん喜多さんというと、東海道五十三次の膝栗毛と思いがちだが、
二人は四日市・日永の追分から伊勢街道に入り、白子、津、松坂を経て
お伊勢参りに向かっている。その後、大和街道に出て奈良、宇治を経て
伏見の京橋に着き、京の名所巡りを楽しんだ。



 二人は三条小橋に近い旅籠・小橋屋に泊まっている。
その後島原を見学し、朱雀野より鳥羽街道に出て淀の大橋に到り、ここ
から淀川の下り船で大阪に向かった。
日が暮れて、天満橋と天神橋の間にある船着き場八軒屋に到着し、長町
の「分銅河内屋」に宿をとり、翌日から大坂見物をしている。



 像の足元には、「無事に還り来る」の信仰で有名な還来(もどろき)
神社に倣い、旅の安全を祈願する「撫で石」も設置されている。
この石は牛若丸(義経)で有名な、京の北方、鞍馬から産出した鞍馬石
で、酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ、鉄錆色が全面を覆っている
のが特徴という。(同組合HPより)(続)





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擬宝珠の刀傷(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-04 | Weblog
 鴨川の河原でのさらし首が始まったのは、平安時代と言われている。
関東で乱を起こした平将門は、戦に敗れ捉えられ、彼の首は京に送られ、
七条河原で晒されている。天慶3(940)年の事という。



 平安時代のさらし場は、六条から七条にかけてが多かったらしい。
その後鎌倉時代に入ると、四条が加わり、安土桃山時代になると三条川
原が多用されるようになる。これは東海道が整備され、三条粟田口が京
への入り口になったとこと密接な関係もあるようだ。
見せしめとしての処刑が行われたもので有ろう。



 血生臭い出来事は、鴨川の河原だけではなく、橋の上でも数々の事件
が伝えられている。
橋の擬宝珠には、「池田屋事件」で付いたとされる刀傷が残されている。



 江戸時代、「公儀橋」上での抜刀は禁じられていた。
ここから150m程離れた池田屋での乱闘は、この橋まで流れ込んでの斬
り合となった。
その時振り下ろした刀が擬宝珠に当たって付いたとされる傷が擬宝珠に
克明に残されている。



 橋の西詰め北側には、嘗て「高札場」があった。
この高札場を巡っては、江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士と、
それを阻止しようした新選組の衝突が知られている。
いわゆる慶応2(1866)年8月28日の「三条高札事件」である。



 新選組三隊、総勢36名の隊士が警戒する中、土佐藩士8名が制札を抜
きに高札場に現れ、橋を舞台に大乱闘になった。
 1人を斬り殺し、1人を捉えたものの、8人の内6人も捕り逃がす失
態を新撰組が犯してしまう。
事件は長州藩を逆賊とする内容が高札に書かれていた事が発端らしい。(続)





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大橋の血塗られた歴史(東海道歩き旅・山城の国)

2024-11-01 | Weblog
 

 鴨川の河原を見れば、水辺の遊歩道をそぞろ歩く人、座り込んで川面
を静かに眺めいる人、ギター片手に歌う青年、それを聞く取巻きの人々。
長閑な風景が繰り広げられている。
川辺は天気の良い日には、ボォーッと日向ぼっこをする人も多いそうだ。



 特に四条からこの三条にかけては、京都の若いカップルにとっては、
「憩いの場、デートスポット」と言われていて、岸辺に何組もが並ぶ
姿が見受けられる。

 そんな長閑な場所も、嘗てのこの界隈では、ここが東海道の出入り
口であるが故に、又、権力者が在した土地故に、恐ろしいほどの血生
臭い凄惨な歴史が秘められている。



 時代小説では「三条川原に晒された・」という記述を良く目にする。
豊臣秀吉の後継者と目された豊臣秀次は、この三条河原で晒された最初
の人物である。謀反の疑いをかけられ高野山で自害をしたが、その首は
京に送られ晒された。

 その後、妻子、侍女乳母に到るまで一族悉く、39人も捉えられ、市中
引き回しのあとここで処刑され、無造作に穴に埋められたという。



 天下の盗賊・石川五右衛門は、安土桃山時代に実在した人物でほぼ間
違いないらしい。幼い頃から非行を繰り返した五右衛門は、盗みの罪に
より捕まえられ、時の天下人・豊臣秀吉により市中引き回しの上、この
三条河原で釜ゆでにされた。



 明治元(1868)年には、元新撰組の局長・近藤勇もこの川原に晒され
ている。下総国(今の千葉県)流山で、大久保大和と名乗って倒幕軍に
出頭した、が薩長軍にいた元新撰組の隊士により近藤勇と発覚、板橋の
刑場で斬首刑になり首は京都に送られた。(続)





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