まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

出生の物語

2019-11-25 | 暮らし
最近、母の物忘れに振り回されて忙しい。おまけに、仕事帰りに寄ると、夕飯は質素で、まともに食べているか疑わしい。時々、夕食の材料を買って寄る。この頃は、鍋料理ができるのでありがたい。
また、大好きな相撲が始まると、生き生きしているので何よりだ。

さて、母はわたしを鳥越村の実家で産んだという。雑誌に載ることになってプロフィールが求められた。生まれた場所を書かなくてはならないので、本当にそうなっているのか、市役所へ行って原戸籍をとってきた。

父母は東京でせんべい屋をしていたが、母はわたしを産むために実家の鳥越村へ帰った。
父の本籍は大聖寺で、東京で仕事をしていたが、わたしの出生届は当然生まれた証明のあるところで出したはずだ。

結婚前の戸籍は原戸籍(はらこせき)という。正確には「改生原戸籍」(かいせいげんこせき)。
戸籍謄本をもらうには本籍を記入しなくてはならない。本籍は、わたしの住んでいた実家ではなく、父の実家になっていたので、番地が分からない。番地が分からないと出せないといわれた。本人でも自分の戸籍をもらえないとは残念な話だ。
「どうしたらよいのでしょう」
市役所の人は、地図を見せてくれて、自分で番地を確認するよう言われた。大聖寺の父の実家はすでに人手に渡っているが、地図が古かったので叔父の名前があったので良かった。

鳥越村三瀬という、大日川ダムの手前でわたしは生まれた。しかし、今では「白山市」である。「わたくし生国と発しまするは、白山市でござんす。白山市といっても広うござんす・・」と、なる。
松任市、美川町、鶴来町、河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村、白峰村・・すべて白山市になってしまったからだ。

さて、戸籍には、東京で生まれた妹が載っている。3月3日に荒川区の病院で生まれて5月15日に、その病院で亡くなっている。未熟児だったのだ。
わたしは5歳で、両親と一緒に見送ったのを覚えている。小さな箱を風呂敷包みで包んであって、斎場の係の人が「風呂敷ごと燃やしますか?」と、言ったとたん、母が大泣きして父に支えられていた。
そのことを、大きくなってから母に言ったら「そんなこと言われた覚えがない」と、言う。わたしの記憶にあるのは何だったのか。たぶん母は悲しみのどん底で、係の人の声が耳に入らなかったのだと思う。でも、わたしは現実をしっかり受け止めていたのか??5歳のチコちゃんか?

戸籍謄本には、その頃の物語が刻まれている。
最後には大きなバツがつけられて終わるのである。