まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

殿の誕生日

2015-03-29 | 暮らし

3月26日は殿の65歳の誕生日だ。誕生日を目の前にして逝ってしまったという感慨にふける間もない出来事が起きた。

舅であるうちの爺さんが亡くなった。姑がデイサービスの支度をする為、8時15分に起こしたら様子がおかしく、慌ててわたしを呼んだ。すでに息をしていなかったが、とにかく救急車に連絡すると、心臓マッサージをするよう言われ、救急隊員が来るまでマッサージしたが、病院に運ばれしばらくして息を引き取った。93歳だった。前の晩まで食欲もあり元気だったので信じられない出来事だった。しかし、殿の死に遭い大泣きし、ショックは大きかったに違いない。

同じ月に2つも葬式を出さなくてはならないとは、おまけに喪主である。殿は大勢の方に見送られ葬儀場は一杯で控えの部屋も満員だった。香典返しも足らなくなって慌てる場面もあった。しかし、そのような葬儀はもうできない。親戚の手前申し訳なく、家族葬で親戚だけで終了した。けれど、することは同じなので、さすがにへとへとになった。警察に調べられたのは余分だった。

爺さんの葬儀後のお参りと同時に初七日も済ませ、引き続き、ろうそくを替えて殿の七日参りもしたので、お経は延々と続き、孫はいびきをかいて寝てしまうし、親戚の人も半数は舟をこいでいたらしい。娘が後から言っていた。わたしは一番前にいて、気が遠くなりそうだった。

こんなことあるかなあと、さすがにダメージを受けた感じ。殿の入院中は、娘たちが夕食の弁当を作ってくれて、スープポットに温かいシチューや味噌汁を、代わる代わる持ってきてくれて、しっかり食べていたので乗り切れた気がする。が、ここ何日かは何をどう食べたか。

そんなわたしに、近くにいる娘が孫と泊まりにきてくれた。家族が多いと気が紛れる。娘は「おとうさんは、おかあさんの肩の荷をひとつ降ろすために、爺ちゃんを迎えに来たんやとおもうよ」と、話しながら並んだ遺影の前で一緒に少し泣いた。実は、ずっと泣いていなかった。親子が並んじゃって。まいったまいった。

信心深くないので、あまり考えたことはなかったが、たしかに49日まではいるのかもしれない気がした。

 


ミスター・ベースボール

2015-03-23 | 映画

23日BSプレミアムで、高倉健主演の「ミスター・べースボール」が、放映される。殿は高倉健さんと、長嶋茂雄さんの大ファンで、CMに出ているだけでも正座したくなると言っていた。言っただけで実際は正座しなかったが。

しかし、必ず録画してDVDにおとしてアーカイブズを増やしていた。そんなに増やして見直す暇はないだろうと思っていた。

なのに今日録画したらDVDにおとしてアーカイブズを増やそうと思っている自分にびっくり。誰が観るのかと娘達にしかられそうだ。

 

 


新発田市の思い出

2015-03-22 | 弓道

弓道大会に顔を出して家に戻り昼食の準備をしていると、新発田市の弓道協会のH会長さんとAさんが弓道着のままみえて、線香をあげてくださる。

退職したので夫婦そろって、新発田市の弓道大会へ行こうと思っていたのに残念だったことを述べた。前に1度だけみんなと行って美味しいお酒を買って帰ったことを思い出した。そうそうコンビニの前で朝ごはんを食べたっけ。

仮設の道場で大会を行い、運営が素晴らしかった。また、加賀市と姉妹都市ということで、お客様扱いで別室に控室を設けてくれていた。

あんなことも、こんなこともこれからはひとりだ。

桜を見ることが出来なかった。kenの入学式を見ることが出来ないとか思わないことにした。年金も貰わんと・・と、言われたが、それとて、欲を言ったらきりがない。欲と執着は悔しさと無念さしか生まない。

今ここの状態で、生かされている自分に感謝する。

 


開設記念弓道大会

2015-03-22 | 弓道

3/22この日に、殿は協会長として開会式に挨拶をしなくてはならないことを思っていたようだ。おまけに1月には、先輩から7キロの弓で矢渡をして生きざまを見せてくれとも言われて、その言葉が嬉しかったようだ。出来ないと分かりながらも、希望があった。

癌との壮絶な闘いが始まったのは発症してから5年目の昨年の4月の入院から4回の入退院を繰り返すうち、20キロ痩せ、出かけるときは杖から車椅子に変わっていった。

しかし、殆ど自宅で最後まで過ごした。おまけに、毎日2階の寝室にあがって寝ていたので医者が驚いていた。わたしは、今回の9日間の付添での入院で、もう殿に楽になってもらいたいと最後には思った。

葬儀後、やっと市役所へ出かけ除籍謄本とかの存在を知り、銀行や年金の手続きに追われ開設記念の手伝いも、もちろん出席も考えていなかった。

しかし、矢渡の掲示のコピーを頼まれていたので、〇久保君の力を借りに出かけ、先輩に取りに来てもらい、それでも道場へは顔を出す気も起きなかった。

ところが、今朝「香典を預かっているので」との電話があって、急いで香典返しを持って出かけた。長い間会わなかった訳ではないのに、みんなの顔が懐かしかった。

県連会長に挨拶をし、お世話になった方々に挨拶をしていたらきりがなくなりそうだった。話をしながら涙が浮かんだり、みんなの言葉がありがたかった。「そのうち、ぼちぼち始めるから・・・」と、言って久々に気持ちが晴れた。

殿の小さな遺影を審判席に置いてもらった。加賀の道場は3階にあるので、昨年4月からついに上がることが出来ずに終わったので、久々に殿は審判席に登場したのだ。笑顔が良い。そして、みんなに会うと笑顔になれる。ありがたい。

 

 

 

 

 

 


煩わしい事は

2015-03-19 | 暮らし

夜、勤めていた会社の友達が来てくれて、久々に笑えた。

職場のETCを、聞いているうちに、人は厄介だねえ。仕事もクレームとか、お客のわがままだとか厄介だねぇ。と、言いつつ、前に自分が言った「煩わしさで人生は出来ている。」に、加えて「だから、寂しさが紛れる」を、加えて今日のまこ語録にした。友達は「それは、いいね。」と言って、その後、意外な事を言い出した。

前の職場で働かないかということ。産休で休む人の代わりということだ。懐かしい皆の顔を思い出し、今の落ち込みから救い出されるような日常に戻りたい気がした。嬉しい事だったが、家に94と86の年寄り、実家に90になる入院中の父と、一人で頑張っている母がいる。近くに小さな子供を抱えている娘たちがいる。ぶら下がっているものがたくさんあるので、残念ながらお断りのお返事。

ぶら下がり健康法というのがあったが、ぶら下がられは不健康か?


鳥越村へ行く

2015-03-19 | 暮らし

鳥越村の山奥に母の里がある。今は白山市とひとくくりにされているが、旧鳥越村である。

伯母たちに通夜へ来てもらったのと、盛り籠のお礼と持ち帰りの中陰を渡しにいくために、母を連れて行った。通夜と葬儀の日は加賀も雪が降ったが、鳥越の山奥三瀬や左礫は、2メートル雪が降ったらしい。母は、長い間会えなかった自分の姉と妹に会って嬉しそうだった。

いろりを囲んで、山の水が引いてあって。若者はいない。超限界集落。子供たちは鶴来とかへ出てしまって、夫を亡くした伯母ふたりと話しながら、泣いたり笑ったり。

血がつながってるって、友達とまた違う何かがある。母とふたりの伯母の3人を見て、みんな年を重ねたなあと思った。

伯母がおにぎりとゼンマイを煮て、待っていてくれた。


喪主になるということ

2015-03-12 | 暮らし

会葬くださった多くの方々には本当にありがとうございました。ホールからあふれるほどの人たちに囲まれ、殿はさぞかし幸せだったと思います。

会社を昨年6月に辞めた殿に、大勢の会社の方々が見えたのに驚きました。また、弓道の多くの方々もみえて感謝致します。

しかし、娘と婿たちに支えられ、何も分からないままにいろいろな手配などで、悲しむ間は殆どなく、式の間に頭を下げていたら頭のどこかが白塗りされて、感情が壊れたようになっていました。涙は涸れたと思いました。

しかし、弔辞を読んでいただいて泣けました。会社の同僚のN氏と同期入社の仲間と、家族ぐるみで毎年子供たちも連れて温泉へ行ったこと。ハワイ、イタリアへ行ったことを思い出しました。忘れていました。ここ1年の間、楽しかった思い出は封印していました。毎日、小さな喜びを拾い集めて過ごしていました。少し、ジュースが飲めたこと。天気が良くて「久しぶりに日光浴」と、殿のメモ帳に書いてありました。そんな小さな小さな思い出を残していたので、二度とありえない旅行などは忘れていました。

中学からの友達のSさんの弔辞にあったように、部活をさぼっていた殿を5キロの道を自転車に乗って呼びに来てくれたお蔭で、弓道を止めなかったので、私たちは会うことが出来たのかもしれません。Sさんは最後の最後まで弓を引かせてくれました。そして、温泉へも誘ってくれました。ありえないほどの衰弱した身体を洗ってくれました。

Kさんからも弔辞を読ませてほしいとの思いを聞き、ありがたく読んでいただきました。審査部での仕事、数々の思い出、家へ来てくださったこと。さりげない会話を思い出させてくれました。

葬儀屋の方は近年弔辞を読まれる方は殆どいませんとのことで、3名の弔辞はやはり泣けました。弔辞は芸能人の葬儀だけかと思ってましたから、何よりのことでした。

納棺の儀で最後に弓道の着物とゆがけを入れました。「あの世では先輩が3人待っているので補欠やね。」と、心で思いました。28日から9日間ずっと病院に泊まり、昼も夜も何回も泣きました。そのせいか、弔辞以外は、葬儀のどの場面でも泣けませんでした。 

中陰の数が合うかどうか、葬儀のバスに乗れるかどうか。そんなことも最中に考えていました。通夜の夜も、焼香順を決めるのに夜中の2時になってしまい、大変でした。皆に支えられて出せた葬式でした。

無事終了しほっとしました。そして「世帯主」になりました。


入院

2015-03-06 | 暮らし

土曜の昼、自分で歩けなくなった。車椅子は補助的に使っていたので、家の中ではなんとか頑張って歩いていたのだ。殿は自分から「救急車を呼んでくれ」と、言った。娘がちょうど来ていたので後を任せ、救急車を呼んだ。

病院につき処置をした後、病室に入って開口一番「死ぬかと思った」だった。返す言葉がなかった。私も娘も主治医から「腎臓の機能が悪いので、もって2、3日です。」と、言われたからだ。本人はまだ生きる気力たっぷりだ。

 生きる事は無常だ。常はなく、刻一刻と変わっていく。それを受けいれなくてはならない。闘っている本人に、もう闘わなくてもいいのだとは言えない。病室に泊まり込み明日で一週間になる。殿の笑顔を見られるので、横でタブレット端末を開くことにした。