自分自身の容姿については宗教上にいうところの「諦め」に入っているが、弓道や絵を描くことの美については、もう少しどうにかならないかと思案する。そして、なかなか近づけないもどかしさがある。
真の中に美があるということは、自然の中にある法則、すなわち先日のフィボナッチ数列や、黄金比などからも分かるように、ある法則の中から生まれてくる。これは、自然の中に育った人は、生きていく中で自然に身についていて、求める美は共通するのではないかと思う。例えば桜の満開の花を観ると、誰もがため息をつくことや、天気の良い日に山を仰げばその神々しさに感動する。そのことが真の美と思う。
それで、現代美術のアートはよく分からないが、美しいものを追求しそれを壊すことも面白い物が生まれる「へうげもの」の、漫画でもあった崩れた形の茶碗や絵も芸術として認められるが、ここには好みが生じる。
好き嫌いなしに、誰もが感動する絵や弓を引く姿はそこに真実というものがあるのだろうと思うが、生半可なものでは誰も感動しないのである。
弓道は、一瞬一瞬が過ぎて、感動の射は同じ空気を吸う人の心を揺さぶる。そして、後には個々の脳裏に感動だけが残り、実体は残らない。ところが、恐ろしいことにこの頃は「you tube」で、高段の先生方の射をたやすく観ることが出来てしまう。映像に対して皆はどう思って観るのだろう。
良い物を観た後の写真は、旅行で景色の写真を撮るようなもので、そこには、本物の感動ではなく、思い出としての写真となる。この前の、皇室の宝物も、出来れば触れてみたい。もう一度見たいと思う気持ちを本で眺める。
写真家の写真は、ファインダーを通して真の美を追求していくのだと思う。芸術的な切り取りや、光の計算をしたり、別の素晴らしいものが表現されていて驚く。
さて、筆が動かない、弓が満足に引けない。こんな時、「稚拙」という言葉が浮かんでしまう。これって私のことなのだ。幼稚な拙者である。