長い間疑問に思うことは、わたしは本当は弓道がすごく下手なのではないかということだ。
40年も続けたら、人間国宝になるくらいなのに、そうならない時は向いていないということ。
それなのに続けるのは、人とのつながりがあってこそかもしれない。
今日は山中で、合同の月例会で矢渡をした。
矢は2本とも外れたが、ひたすら体配をこなして終えた。
山中で最近弓を再開した後輩に「カッコいい~襷かけるの」と、言われて、素直に喜べない失中の悲しみ。
しかし、いいことがひとつ。
高校の時のS先輩にお願いしてあった「わがた盆」がついに完成した。
3年越しの作品をありがたく頂く。
角の丸いのと、角ばったのと2種類。
義父の木彫りの恵比寿をあげたことで、お礼にという。
釣り好きの先輩は、大きな鯛を持つ恵比寿をいたく気に入ってくれたけど、これって、わたしがエビで鯛を釣る?
義父の作ったもので礼をされるのは、人の褌で相撲を取るというような気がする。
いつも使っている娘のおさがりの筆箱が割れて鉛筆が突き出ている。
いいタイミングだった。
友達からもらった筆箱は、筆ペンとお気に入りのペンを入れて大切に引き出しにしまってあるので、通常机に置きっぱなしにしておくペン皿が欲しかった。
栗の木で作ってあり、乾燥が悪いと反ったりするのだそうだ。
美しい。そして頑丈そうだ。
弓道が下手でも、このつながりは大切なのである。
どの弓友とも長いお付き合いになり、「あ」と言えば「ん」と答えるような息が合う。
弓道は、呼吸を合わせて体配を行うので、みんなと間を合わせることの大切さは、的中とは違う大切な学びであるなと思う。
S先輩のわがた盆を彫るように、黙々と同じことを繰り返し、一筋一筋心を籠めるように行射したいものだと思った。
だけど、弓って何も残らないよねぇ。
だから、いいのかもしれない。
欲とかをひたすら捨てて行くことが出来たらと思う。
中てたいというのも欲なのだろう。