3歳の新米お姉ちゃんを連れて田んぼの向こうまで散歩に出かけた。田植えが済んで湖畔はすっかり田んぼに替わっていた。
「ママとななちゃんにお花を摘んでいきたい・・」と、やはり女の子。家の横の都忘れもくわえて、親子で生けていた。野の花といえども、なかなか可愛いのである。
大輪の花であろうと、野の花であろうと、どちらも必死で咲いている。それで思い出した。
先日、病院で「週刊文春」を読んでいて、中村うさぎの「さすらいの女王」に書いてあったことを改めて読み直した。結構強烈な生き方の彼女が、命を賭けてい書いている気がした。
「生きていればしばしば、我々は己の無力感に打ちのめされる。・・略・・・しかし、どんなにささやかな人生であろうと、本人にとって、それはたった一度きりの人生ではないか。そのかけがえのない人生が無意味であるはずがない。たとえ無力でちっぽけでも、当人が必死に生きている限り、そこには必ず「生きる価値」が生ずるのだ。
・・・略・・・・どんなに些細な悩みでも人生でも、当人にとっては深刻な苦しみであり、大切な人生なのだ。それを理解せずして大雑把な人生論を得々と語るな。己の人生の大切さを理解できない人間に、他人の人生を大事にすることができようか?無力だからこそ互いに支え合い、他人の人生が自分の人生と同じくらいかけがえのないものだということを理解して、我々は初めて己の価値を知る。生きることがこんなにも尊いものなのだということを知るのだ。」
はあぁ。3回も死にかけたという彼女の言葉は重みがあると思う。「わかるよ。分かる、分かる。」と、簡単に言う人には分からないのである。ちょっと前までのわたしは、本当に分からなかったのである。だからといって、分からないことは悪くない。なぜなら、いつか嫌でも分かってしまう日が来るからだ。