BSでやっていた映画「博士の愛した数式」は、本も読んだし前にも一度観ているのに、忘れているところが多く、改めて楽しめた。忘れるということは、楽しい事や感動をもう一度味わえるという意味では悪くないものだ。
記憶が80分しかない数学博士を寺尾聡が演じるが、穏やかでいい。通いの家政婦の10歳の息子に、世界が驚きと喜びに満ちていることを数式で示した。10歳の息子が大きくなって数学の先生になるのだが、その先生が授業で教えるシーンで、数学をこんなに魅力的に語ってくれたらもっと興味をもっていたかもしれないが、どちらにしろ、わたしの記憶も集中力も80分とさして変わらないことがある。
さて、数学は苦手だが、わたしが宝物にしている「虚数の情緒」を時折読むと、面白いものに出会う。なぜこの本を宝物に思うかと言えば、わたしにとって「謎」と、非常に硬いダイヤモンドばりの内容で、咀嚼できないということが宝物なのだ。手が届かないのは魅力的だ。
しかし、この本の副題は「中学生からの全方位独学法」とのこと。相当に中学の時に学ばなかったのだ。殿にいろいろ尋ねると、あっさりと「わからん」と返ってきた。そうだった、彼は社会の先生系だった。わたしは美形と言いたいところだ。
前にひまわりを描いた時の「フィボナッチ数列」は、私の中では感動だった。複写用紙と黄金分割の比率は違う。もっとも美しい黄金分割の方程式の根が黄金数である。この分割に美を見る。ここから、フィボナッチが黄金数に近づいていく式がある。そして、段々数式をみていると気が遠くなる人と、美しいと感じる人の違いが数学を愛するか敬遠するかなのだと思う。
黄金数と、フィボナッチ数列と、パスカルの三角形と、これらの定義が全く異なった三つの数学的要素が、ここで一つに合流するのだそうだ。わたしの頭では合流する前に流され、おぼれてしまった。数式は分からないが、この本の良いところは数式の間にある文章だ。「美には論理があり、論理には美がある」と、このことに不思議を感じ、好奇心を刺激されたりしない人が、科学の道を志すことは、大いに危険を伴うとのこと。
さて、映画の話に戻ると、「オイラーの法則」や、「虚数」との出会いが愛に通じるという魅力的なお話。この映画を観ている間だけは「数学が好きになるかも」と勘違いするのである。
映画が終わって翌日、買い物に出かけると勘違いだったことに気づくのだ。財布を開けると、札の減っていることに気づき、数学どころか算数にも弱いことを自覚する。おおっ!もう年の瀬、落としても困らない財布の軽さに寒さが忍び寄る。「わたしが愛した札束」はどこへ。