弓を引く
再伝達講習会では、いかに自分に曖昧なところがあるか明るみに出た感じ。それが、教える怖さかと思う。しかし、皆で指導するということは、怪しいところを補い合えるので助かる。こんなでは、まだまだダメだ。しかし、道場へ行くと体も心も軽くなる。弓を引くことは誰のためでもなく、自分の身体のために良いという気がする。
そもそも、身体のあちこちを伸ばす運動は気持ちがいい。離れた瞬間の解放感も気持ちがいい。中たればもっといいのだが。
会社へ行っていたころ、資格を取る勉強をしているとき、「弓なんて引いとれん。」と、言った。二交代で10時に帰っていたころも「弓なんて・・」と言った。7時過ぎまで仕事をしていた時も、そう言っていた。結局、真摯に弓に向き合わない中途半端な自分を、認めたくなかったのだと思う。今は、何の言い訳もなく、ひたすら勉強不足、努力不足を反省する。
その、中途半端さは「射」に現れる。自分たちのサッカーができなかったというように、自分の弓が引けなかったと、試合や審査の後で言う人がいる。自分の弓とは一体?晴れの舞台で出るものが自分の弓であって、それは自分が認めたくない自分に出会うのだと思う。それを、謙虚に受け止めなくては前へは行けないような気がする。とはいえ、ダメな自分に甘んじるのも怖い。最近は、こんな程度の自分というものに諦めを持っていはしないか。と、考えていても始まらない。ひたすら、引いてみること。
日本は、集団的自衛権行使を容認するための閣議決定が迫る。憲法9条はどうなってしまうのか。弓なんて引いてる場合ではない世の中になりませんように。