叔父が亡くなった。母の弟だ。2月の終わりに会ったときは、自分で風呂へも入り、声は小さいが、わたしの体を心配してくれて、病状について話をしていたが、先日、酸素マスクをして、意識が薄れていく中で辛そうだったので、声をかけずに母の後ろで見守るだけだった。母が、叔父に静かに話しかけているのを聞いていて涙が出た。先に逝ったらいかんやろ・・と。母は82歳。叔父は73歳。
斎場で、従弟達6人でテーブルを囲んで話をした。母は8人兄弟で、わたしには従弟全部を認識できない。今回、テーブルを囲んだときに、従弟と話をして改めて、血縁というものはすごいと思った。何年も会わないが、何故か懐かしい面々なのである。小さいときに、お盆に集まった遠い記憶。何といっても、祖父母が同じなのだから(当たり前だが)、不思議な気持ちだ。本家の従姉は2年前にお父さんを亡くしている。伯父も酒のみだったという話。棟梁だった叔父も酒を呑んだらしい。「おじいちゃんも、90を過ぎても、茶碗酒だったよねぇ。」と、みんなで納得する。
母方は、鳥越の山奥の出なのだが、通夜の席で、白峰村の林西寺の住職のお話で、やんごとなきルーツを改めて聞いた。1300年前に、藤原氏が都から落ち延びてきたという、平家の落ち武者ではないということが、明らかになった。
従弟たちが、自分の名前で苦労した話を聞いて、盛り上がってしまった。ちなみに、「十佐近」(じゅうさこん)と、いうのが、母方の名前だ。「とさちか」とか、呼ばれて、なかなか読んでもらえなかったり、試験の時にマークシートに入りきらなかったり、極めつけは、野球の試合でバッターボックスに立った時に、「5番 ライト トサキン君」と、呼ばれて、打つ前から空振りの気持ちになったとか。こんな場で、がはがは笑っていてもいいのだろうかと思いながらも、棟梁である叔父の話を従弟兄弟がたくさん語ってくれた。こうやって、みんなで思い出を語るのが、供養なんだなあと思った。
別れはつらいが、私たちは生きていかなくてはならない。