わたしの蔵書である「虚数の情緒」は、読むには難しいので、あちこちつまみ食いのような読み方をしている。もともと理数系が苦手なので、興味のある所だけ読んでいる。
そして、興味深いところをまた見つけた。「子供とは如何なる存在か」というところだ。どうして、数学の本にそのようなことが書いてあるのか。まず、第0章 方法序説:学問の散歩道 というとこらから、数学教育の問題点という項目があり、その後に、「選択の自由と個性」という項目があり、次に「子供は如何なる存在か」というところにつながっていく。
そして、「子供は無邪気か」というところで、思わず息もつかずに読んでしまった。なぜなら、日ごろ辛辣なことを言われ、子供に「先生、しわ何本あるんや。」とか、「白髪ある?」とか、「ばあちゃんや。」とか、遠慮せずに、ありのままに言うので、たまらんなあと思うが、子供のいうことだからしゃあないわとも思うし、まったくもって本当のことではあるしと思う毎日なので、この本の作者は何と言うだろうかと興味深く読んだ。
「子供は無邪気ではなく有邪気である」と、そうだそうだ。その前に、この文章は誰に向かって書いているかと言えば、この本の対象者である中学生に対して書いている。なので、「無邪気な子供という表現を多用する子供天使論である。諸君は本当にそんなに美しかったのであろうか。」と、問いかけている。わたしは中学生の学力しかないが、(今はもっとやばいかも)中学生ではない。大人が読んでも面白いのである。子供に媚びない作者の力強さ。また、子供を一人前の大人として語っているところ。
ナイーブなわたしは、子供たちからの本当の言葉を受け入れながら、心が折れそうな日々を、この作者は豪快に切りつけているのだ。子供が大好きで保育士をしたいという若い女の子が不思議だった。わたしは、子供を育ててきたが、親として自分の子は可愛いが、よその子は同じように可愛いかと言えば、そうではない。
その理由を、この作者はうまく語っている。わたしがどうしても好きになれない部分を指摘している。
子供たちと日々駆け引きをしているようなところがある。彼ら(あるいは、彼女ら)は、毎日一緒にいると、日々わがままで、自分本位で、行儀が悪く、ずるいところを見てしまう。でも、それが子供なのだ。それを、子供は無邪気で可愛いとひとくくりにすると、子供から反撃を食らう。
真剣に、緊張関係を作り、信頼を得るためには、子供には媚びらず本音を言う。なんでもかんでもほめない。彼らは見破るのだ。