まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

モモ

2021-03-28 | 読書
今年、東日本の震災の年に生れた孫のmomoは10歳になった。
誕生日は2月20日だが、母親の調子が悪くて親子で再入院し、退院の日はわたしが迎えに行った。その日がまさに3月11日で、ラジオから流れる地震情報を聞きながら車を走らせていた。
病室で待っていた娘が、TVを観ながら「嘘みたい・・」と、マッチ箱のように流されていく車を見ていた。
あれから10年。
世の中もいろんなことがあった。
わたしの家族にもいろんなことがあった。

今年の誕生祝はmomoにちなんで「モモ」を、贈った。
難しいかもしれないけれど、何回も読んで、大人になっても読み返せる本なので良いかと思う。
本当のところ自分も読みたくて、孫にはハードカバーを、わたしは文庫本を買った。文庫本サイズより少し大きい岩波少年文庫。

「モモ」ミヒャエル・エンデ作  大島かおり訳
2005年6月16日 第1刷発行
2020年9月4日 第32刷発行
発行   岩波書店

子供の本というより、現代の社会に忙しく時間を過ごしている大人たちが読むべきかもしれない。
「町はずれの円形劇場あとに住んでいる不思議な少女モモは、人の話をよく聴くのが得意でした。町の人々は、喧嘩をしていてもモモに話を聴いてもらうと仲直りし、幸せな気持ちになって帰っていきます。
いつも一緒の、ペッポとジジは一番の仲良しです。
しかし、そこへ灰色の時間泥棒の男たちがやってきます。」
人々は、時間が無くなり子供の面倒をみれなくなって、子供達は同じところに集められます。
さて、どうやってこの状況を変えられるのか。

話しは今の世の中を反映しているような怖い話。
モモはカシオペイアという亀と共に立ち向かう。
亀が登場するが、浦島太郎とは違う。
亀はゆっくり過ごすから時間に関係する物語に採用されるのだろうか。
そこは分からないが、少年文庫というからには少年向けなのである。
しかし、大人も読むべきだと考えるのは、時間の奴隷のようになっていく人間たちに警鐘をならす物語のような気がする。
随所で、現実にあるような忙しい日常が描かれている。
救いはモモだ。
では、このへんでネタバレギリギリ。



花の命は短くて

2021-03-27 | 暮らし
時の流れの速さは、花の咲く移り変わりで実感する。
3月の初めに大聖寺の街並みで見かけた早咲きの桜。



3月中旬。実家の梅の花。



梅が散った後、花桃が咲いた。毎年、入学式に花桃の前で記念写真を撮る孫たち。今年はnana。その頃には満開になるだろう。





弟が裏山に遊歩道を作ったので一緒に歩くとスミレ。


ショウジョウバカマ。


杉の木にこのきのこが着いたら、寿命なのだそうだ。
つやつやのプリプリなきのこ。



一回りして戻ると、ボケの花がお出迎え。


花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき

わたしの花の命も短くて、
枯れ木となっても山の賑わいと元気に暮らすありがたさ。



天国DJ 夢で再会

2021-03-26 | 暮らし
NHKで、震災10年、亡きあなたと夢で再会する話を、リリー・フランキーと満島ひかるが朗読する。
両親を亡くした女性が、両親のいるいつもの朝の夢をみてほっとする。
助けられなかった女性の声を夢で見る。
その人は、子供を肩車し両手に一人ずつ抱えていて、助けて!という女性を助けられなかったのだ。夢を見た後、意を決して旦那さんに謝りに行ったら、旦那さんに「最後を教えてくれてありがとう」と、言われた。
津波に遭った夢をみて、母が津波で亡くなった瞬間が分かった。と、いう娘さん。
聴いているうちに泣けて泣けて仕方なかった。
「いつも卵を割りたがっていた幼い息子、もっと卵を割らせてあげればよかった・・・ずっと悲しみと共に生きていくつもりです・・」息子を亡くしたおかあさん。
わたしは、10年前震災で大切な人を亡くした人々の気持ちに寄り添える気持ちを持っていなかった。
つらいだろうなと思ったが、一緒に泣くことはなかった。
ところが、大切な人が夢に出てくること、また夢に出てきて欲しいと思うことが身をもって分かるようになってから、ちょっとしたことにぽろぽろ泣けてくる。

夢でも会いたいと思っても、なかなかうまい具合にみることはできない。
だからこそ鮮明に覚えている。

はじめて殿の夢をみた時は、癌で瘦せていて「いい薬が出来たから・・」と、励ましている夢だった。
次にみたのは、1周忌を終えた時に、スーツを着て元気な姿で出てきた。
話しはできなかった。
初めて白山に登った時「わしに黙ってどこに行ってきた?」と、言われた。その時もスーツを着ていて、前に住んでいた古い家の茶の間で、そういえば行ってくるって言わなかったなと思った。それからは、山へ行く前に必ず仏壇に向かってから行くことにした。
7回忌を終えた時、寝ている布団に入ってきた。温かいねーと言って目覚めた時に、すごく嬉しかった。目覚めた時に「ありがとー」って言っていた。
6年の間に会えたのが4回か。

今日は舅の命日で、殿の誕生日だ。
姑が墓参りに連れて行ってというのでいうので花を買って向かった。
息子を亡くした母は辛いだろうなと思った。
しかし、墓へ行く道中、近い道を指図するので、「うるさいなあ」とつぶやいた。姑は耳が遠いので聞こえないだろうが、ドライブレコーダーに残っているかなあ。嫌な世の中だなあ。
便利は不便。でも、日本一フォロワーが少なく、いいねが少ないブログだからこそ、ひっそりと何でも言える利点がある。
黙って一日を終えると変になりそうで、誰かにつぶやいている感がするのは小さな噴火をして、大爆発を抑える利点がある気がする。

何はともあれ、亡くなった方々に祈りを捧げた日であった。
南無・・






外食

2021-03-21 | 料理
金沢の県庁裏の地場産業振興センターで弓道の会議があるため早めに家を出て、食事をその辺りでとることにした。
午後1時からの会議では、食べて行くには早いし、丁度良い時間に金沢で食べるのもいいかなと思った。
金沢の友達を誘いたかったがこのご時世、会食を避けて独り外食。
美味しいコーヒーも飲めそうなところで食べることにした。

県庁のそばだ。



久々にオムライスにそそられて注文する。
凄い!メニューと全く同じものが出てきた。
寸分と違わない。


店の中は満席だ。
隣との間はアクリル板で仕切られてはいるが、席は間引きしていない。
4人で食べている人たちは、楽しそうに食べながら話している。
ひとりで美味しいものを食べるより、みんなで食べる方が楽しいと思う。


半熟の卵の美味しいこと。
最後にオムライスを食べたのはいつだっただろう。
外食をしたのはいつだっただろう。
食後のコーヒーもゆっくり飲んで、本来の目的を忘れそうになった。



日々是好日

2021-03-15 | 暮らし
お茶を習う。
弓道の会員の方の奥さんがお茶の先生で、公民館で教えている。
わたしも、会員の方に誘われて久しぶりに習うことにした。
結婚前に会社の茶道部に弓道の先輩が先生として教えていて、弓道と茶道は共通するということで誘われて、その時に扇子や袱紗や懐紙入れを揃えたので、喜んで出かけたが、昔々のことで、完全に初心者である。

さて、先生は奇しくも私と同じ名前である。
しかし、私と違って着物姿が馴染んでいて気品がある。
掛け軸は、「春宵一刻値千金」なるほど、なるほど。
春の宵の一時は値千金であるとのことだが、宵でなくてもこの穏やかな春の一刻は大事な時間である。

茶碗には飛梅と神牛の絵が描かれていて、このコロナ禍に悪いものを飛ばし今年の干支の牛は神の使いということで、良い方向に向かいますように。
飛梅と神牛は菅原道真公か・・。と、私の番になって、お茶を頂く時に「ホーホケキョ♪」と、鶯が鳴いた。
何というタイミング。
今日のお稽古は3人。正客の方が飛梅のお茶碗で飲んで春を感じ、私は素朴な唐津焼を口にした時に鶯が鳴いて、最後の方の時も、また鶯が鳴いたので、その時、みんなでわ~という声を出しながら自然と拍手が起こった。

お稽古は午前中なので宵ではなかったが、まさしくこのひと時は値千金だった。
これがテレビドラマならべたなシュチュエーションである。

午後のおやつの時間に、縁側でお茶を立てた。
ひとりでは静かである。カラスが鳴いているだけだ。
誰かあたいにお金をください。あたい千金。
ひとりでボケて突っ込んでもしゃあないわ。
品の良さはこういうところからは生れてこない。





小林秀雄と深田久弥

2021-03-13 | 読書
深田久弥と小林秀雄のやりとりが面白いことを見つけた。
それで、図書館で小林秀雄のあらゆる本に、深田久弥の名前が出てこないか調べたくなり、図書館へ行くと、Sさんが奥の書庫にあるということで、小林秀雄全集全13巻を、ワゴンに載せてきてくれた。
それを目次で調べていって、深田久弥と山に登った話を探しあてる。
結局9冊に散らばっていた。
「何冊借りれますか?」と、訊くと「9冊です」とのこと。


全部借りて、関係のある所だけを見つけて読んだ。
なにしろ、小林秀雄は難しいのが多くて分からない。「ゴッホ」や「モーツァルト」や、訳のわからない思想についてはどんどんとばす。
しかし、深田久弥との山行や鎌倉での話は楽しそうではまり込んでいく。
そこに、今日出海も登場するとしっちゃかめっちゃかで笑える。
この鎌倉文士たちが書きながらも元気よく遊んでいたのは昭和の初めのころだった。

深田久弥が「小林秀雄君のこと」題して書いてあるものがいくつもある。
どうも、小林秀雄が好きなようで、
「この頃一番よく一緒に山へ行くのは小林秀雄君だ。
小柄だが燻製の鰊みたいに肉が緊まっていて負けん気で頑張るから、彼と一緒なら~~」(『山の文学全集Ⅱ』「書斎山岳家」)
「小林君の忘れ物はひどい。~略~
小林君はいつも何か考え込んでいる。鎌倉にいた時、よく一緒に散歩したが、別に話すこともなく、彼は彼で勝手に何か考えこんでいる。そんな時の彼の顔は実によかった。一種哀愁を含んだ何とも言えぬいい顔であった。
あんなに頭が考えごとでいっぱいでは、忘れ物をするのは当たり前である。」
この他に書き出すと大変なことになるのでここでやめておこう。





春の香り(蕗の薹)

2021-03-07 | 料理
実家のフキノトウが次々に顔を出したので30個ほど採って、フキノトウ味噌を作った。
それにしても、蕗の薹という字はなんと難しいのだろう。
読んでも書けない字のひとつだ。
「薔薇」「林檎」「檸檬」
ながめていると、どれも高級な品種のように思う。
しかし、「憂鬱」は、ながめているとゆううつになるが、この字を書けるようになった。鬱は、「リンカーンが、アメリカンコーヒーを3杯飲んだ」と、書くのである。「林」(りん)の間に「缶」ワ、米の字に似たのを横にして、コーヒーカップで受ける。コーヒーのヒの字はカップの下に。三倍は右の三本斜め線。
ここまで読んだら、鬱になりそう?
麒麟・・・蝸牛・・読めない。難しい字でもキーボードで出せるが、さて書けと言われたら、簡単な字も書けなくなっている。
とっさに言われても、咄嗟など出てこない。いや、もっと簡単な字も出てこない。最近、森山良子の『Ale Ale Ale』を、友達から紹介され、ガハハハッと笑ってこの後の人生を誤魔化そうとしている。


あ、フキノトウの話しだった。
少し開いたのは、天ぷらにした。
どちらも春を運んでくる。
字が書けなくても、食すのは簡単だ。美味と飽食という字は忘れない。




中原中也と小林秀雄と深田久弥

2021-03-03 | 読書
過日の中日新聞で「文豪の恋文」と言うのがあって、しげしげと読みながら、谷崎潤一郎という人はとんでもない人やな。とか、中原中也の恋人を小林秀雄が奪ったとか、これまたとんでもないことだな。というか、いつの世もいろいろあるだろうが、今ならネットで炎上してしまいそうなこの文豪たち。


仕事で、古い本を調べることがある。
小林秀雄と深田久弥が鎌倉に住んでいた頃、よく一緒に山へ出かけたり、一夏を山で過ごしたりということが書かれている。
小林秀雄の「私の人生観」という本の中に書いてある。
ところが、その人生観の最後に、中原中也との心のやり取りが書いてあった。
どういう人生観か。人生観というより、若気のいたりの文章。

今なら週刊誌が書くだろうことを、この時代の人は「実は・・」と、自虐的に語りだす凄さ。筆で稼ぐのだから、ある意味身を削っている感じもする。
さて、ふたりが取り合いになった女性はもと女優だというので、さぞかし美人で魅力あふれる女性なのだろうと思うが、大学1年の小林秀雄は彼女を養いきれず別れてしまうのである。

この鎌倉文士たちは、大正浪漫時代を生き、自由、開放、躍動の上、自由恋愛による心中や自殺も作家や芸術家の間に流行したようだ。

そんな中で、小林秀雄は、深田久弥と山へ行ったりするとなると、これは健康的な仲間たちのように思うが、これも読んでいくと、若い人ならではの力任せの登山、スキーの様子が描かれてくるので、こうなるとどんどん頭の中で、二人の声まで聞こえてきそうな具合だ。
ちなみに、小林秀雄の若かりし頃はすごく男前である。
これでは、中也の彼女がついていってしまうのも考えられるのである。
と、言うわけで小林秀雄の本を図書館で探し始めるはめになった。



廊下でスケート

2021-03-02 | 暮らし
夜中、暴風雨で心配だったが、良く寝ていた。
そして、休みの朝が雨だと、なんとなく嬉しい。
「山が呼んでいる」ということはないし、ぬくぬくと朝寝坊するのがいい。
しかし、お腹がすくし、婆さんは階下から戸をガタピシと開閉する音が聞こえるので、そうそう寝てはいられない。
91才だが元気で畑をする。
最近はさすがに廊下を走ることはなくなったが、ほんの少し前までは、トトト・・・と、小走りの音がした。
ちょくちょく転ぶようになってから静かになった。

人のことは言えないのである。
先日、雪かき用のスコップをきれいにして、次回の為にシリコーンを吹き付けた。
玄関でしたのだが自分のスリッパに少しついたようで、廊下を歩くと滑る。
面白がって、スース―滑りながら、まだまだバランスいいねと楽しんでいた。
「ごはんですよー」と、婆さんの部屋へ滑りながら行ったら、部屋の前でつんのめってドデンと見事に転んだ。
婆さんの部屋の前は、なぜか滑り止めでもしてあるような、水でもこぼして拭いたのか、全く滑らなくなっていた。
わたしは、蛙が窓にくっついたような転び方をした。
どこも怪我はしなかったが、ダイナミックに廊下にへばりついたようになっていた。
高い鼻をぶつけなくてよかった。
もう廊下を滑るのは止めよう。