納棺の前に、孫のI君が、新聞記事の犯人の写真を踏んで、
「じいちゃんを返せ。返せ」と、言っていたと先輩が言っていた。
納棺のとき、I君がじいじを棺おけに入れることを、拒否していたとのこと。
防衛施設庁に勤めていた、下の娘さんが沖縄の方と結婚し、生まれて三ヶ月の赤ちゃんを連れてきていた。もっと、もっと、じいじに抱いて欲しかったと思う。
S副会長の「なぜわたしが、弔辞を読まなければならないか理解できません・・・」と、始まった。
私達もここにこうして葬儀に列席していることが理解できないのだ。
K先輩の用意してくれた5張りの弓で、弦音を次々に鳴らして出棺を見送ったとき、その弦音の響きが、むせび泣きに替わっていく。
悲しくてやりきれない。
悔しくてやりきれない。
弓道の仲間約250名ほど、この悲しみを共有してしまったことがつらい。
わたしたち以上にご家族の心のうちは、計り知れない悲しみでいっぱいと思う。
わたし達夫婦は、中陰の食事を済ませたあと、Y先輩の残してくれた弓道場に花を添えた。
夜は、Y先輩との今までの写真を整理した。
そういえば、昨年の留辺蘂の写真もあって、RYOUさんが
「最後の日に飲んだとき、みんな弓道バカばっかりや・・と言っていたのが思い出される」と、言われ、本当にそういっていた言葉を思い出した。
ビートの畑でころんだこと。思い出して可笑しくて笑い、また泣く。
違う意味で、忘れられない留辺蘂視察となってしまった。
Y先輩とバーベキューの写真。、娘さんの結婚式のときの先輩とわたし達。
預金講の家族みんなでバスで旅行したこと。
私たちの娘達には、まるで、親戚のおじさんのような存在だった。
だんなにとっては、お兄さんだった。
仲間の誰もが、そう思っていた。
かけも、矢も、弦巻も棺桶に入れたし、弓も持ったし、袴も着物もかけられていたとかで、浄土で先に逝った同級生のSさんと、Hさんに会って、チームが組めるとおっしゃっているかも。
忘れてはならないのは、ローソンの高校生のバイトの茶髪の女の子達が、見送りのときにてんでに手紙を棺桶に入れていたこと。
弓だけではなく、家族にも仕事でも、誇りに思える先輩だったのだ。
いってらっしゃい。
いずれみんな行きますから。
加賀市の協会を立ち上げ、ついに県連盟の会長に。
そして、浄土でも一番に、新製品の安土と道場を作るのですね。