茂一一行が冥途へ旅立った。しかし、一行と続けたら納まり悪い。茂一様御一行となるのか。ともかく、爺さんとふたりの法要を一昨日終えた。
家族が集まって七日参りをしながら、49日まで過ごすのは、なかなか考えてあるなあと思う。
「冥途の旅はなぜ四十九日なのか」という本があった。殿の枕元にあったのだ。殿のベッドは枕元が本棚になっている。しかし、この本を長い間、そのままにしてあって、先日ベッドの上にぶちまけて整理したら、その晩から身体が痒くなった。どうも、紙には何か住んでいるのだ。床に下ろすべきだった。でも、殿が被害に遭わなくてよかった。わたしの柔肌は大変なことになった。
さて、そんなことより、その本は「極楽浄土までの距離に見る、仏教のすごい自然観」「西方十万億仏土」という不思議な単位。ということで、数学からみる四十九日だった。
死んだ人は、中有(ちゅうう)(中陰)という、現世と来世の間にある世界をさまよいます。七日間すつ七回さまよって、七回の審判を受けます。それで、本来七日ごとに追善供養をし、最後が四十九日の法要となるのです。
と、書かれていたが、これは大変。審判で地獄界・餓鬼界などに落ちるはずなかろうと思う。法要の意味が書いてあるが、殿はどこに線を引いたのだろう。時折、殿はマーカーなどで線を引くことがある。この本は、数学者が読み解く仏教世界ということの面白さだと思う。
と、唯一、殿がマーカーしてあるところを見つけた。「人間は赤ちゃんから大人になっていく段階で、数を認識していきます。最初は一と二の区別です。(禅宗でいうと、これが自分と他を区別することとなり、最初の堕落となるそうです)。次の三が、最初のハードルとなります。一、二、そして、たくさんという認識を人間がしていたという形跡があります。」「人間の脳が一度に数を数えられるのは、五つが限度だということです。」
なるほど、そういえば、「髪を切ったらみんなが可愛いって言ったわ。」というわたしに、殿は「みんなって誰や?」というので、「みーさんと、んーさんと、なーさん」というと、「お前のみんなは、3人か」と、笑ったことがあるが、これはある意味自然なのだ。それに、友達5人寄ったら、会話が成り立たなくなる。なんか正しい気がする。
殿はそういう意味でマーカーしたのではなさそうだが。