どちらかというと邦画が好きだ。しみじみと言葉のやりとりをするのがすごくいい。
「セトウツミ」は、大阪の高校生、瀬戸と内海が放課後、川辺で関西弁で会話をするだけなのだ。石段に腰をおろして、川を眺めて、クスリと笑えるふたりの会話にふわっと引き込まれていく。「漫才よりおもろいやん。」と、いつのまにかこっちも大阪のおばちゃんになっていく。
しかし、これがYou Tubeで観れてしまうのがこわい。いいのかなあ。DVD売れなくなるやん。
今をときめく池松壮亮と菅田将暉。菅田将暉といえば、「greeeeen キセキ」という映画もいい。歯医者を目指しながらバンドの活動をする。厳格な医者である父に隠れて活動をするというほんとの話。と、いうか歌がいいのかも。
「しゃべるだけの青春」って、キャッチフレーズだけど、しゃべるってすごく大切で、たまらなく楽しくて、時に聞き手になると、うっとうしい時もあるけど、基本はしゃべることはストレス解消になる。
父の見舞いに行くと、いつも嬉しそうだ。元気な時はわたしと漫才みたいな会話をしていたから、寝たきりになっても何か笑わせたくて話しかけると、父も「口を動かさんから、食べ物がこぼれるようになって困る。」と、言いつつ「せんべい食べたいんな。」と、いうので「今日は酒饅頭しか持ってこなかったわ。」と、言うと「せんべいが、まんべいか・・」と、言う。「なるほどねえ。」と、いうと、いたずらっ子のように笑う。わたしと父の会話は面白くもないだろうが、刻々と過ぎる時間の中での小さな抵抗だ。「タダマコ」ただおとまさこでは、冴えないが。
先日の講習会で、誰かに譲られた四つ弽を使っている方がいた。指に合わないうえに勝手離れになっている。思い入れがあるにしても、弽に関しては三つ弽のほうが弊害が出ないと思うがどうか。
三つ弽は、矢に無理なひずみを生じさせることが少ないが、四本の指で引く四つ弽は、馬手の力が勝ってしまう。
さて、そういうわたしも、殿が残した13キロの弓が丁度よい弓力だと思って引いてきた。以前は16キロを引いていたので、少し弱くしたかった。でも、わたしの矢尺に対してこの並弓では、バネばかりで測ったら11キロにしかならなかった。結局、前に購入した寸詰まりの13キロで、会に入った時に丁度良い力のかかり具合になる気がする。
思い入れはあっても、道具を使う以上、自分に合うものでなくてはならない。気持ちの問題だけでは矢は思うように飛ばない。
でも、いい感じに道具が揃っても、身体の各部位がいうことをきかなくてはならない。これは技量という最大の要因がほんとは大切なんだということは分かってはいるが、時折、道具のせいにしてしまう。
今日などは、弦を替えただけで気分が変わってしまった。なんとナイーブなわたしであろうか。
昔の年寄りは孫の面倒をみたので、夏休みは両親は安心して勤めに行った。しかし、今は爺さんも婆さんも、自分を年寄りと認めず、働きに行っているので、学童保育に頼らざるを得ない。わたしも、月の半分は働いている。
それでも、仕事が休みの日はなるべく子供たちを休ませたい。わたしの小さい頃は、夏休みは家でぼやっーーとしていた。6時半にラジオ体操して、そのまま神社の境内で遊んだこともある。今は、体操の後、規則正しく、朝8時から夕方6時まで学童で過ごさせるというのは可哀想だと思うばば心である。
小1のmomoと、3才のnanaは、月曜の夜から泊り、近所にいるお兄ちゃん達は朝に来て、みんなで勉強。お兄ちゃんは1年生のmomoの勉強を見てくれて、わたしより上手に教えている。途中で、固定電話が鳴って、3年のkenが電話にでようとしたので、「電話番号が0120で始まったらでなくていいよー。」と、言うと、momoが「なんで?」と、訊く。「押し売りやから・・」と、言うと「押し売り?」と、訊く。すかさずお兄ちゃんが答える。「買いたくないものを、無理矢理押し付けて売るんや。」と、5年になると頼りになる。
いつもは、ふたりだけの食卓が、今日はにぎやかで、笑いが止まらない。3歳のnanaも保育園を休ませた。嬉しくてしょうがない様子。従兄がいつも会えるっていうのもいいものだ。
しかし、遊びは完全に分かれる。ゲームと、シルバニアファミリーである。シルバニアファミリーは、娘の時のを大切にしまってあったものだ。必ず箱に入れてしまってあったせいか30年経っているが綺麗だ。
お兄ちゃんたちは、午後に友達のところへ行ってしまったが、女の子は近くの神社へ行き、鉄棒をしたり、ジャングルジムで遊んで、満足満足。にぎやかで、楽しい一日だった。
友達と上高地に行く。北鉄航空のバス旅行を申し込んだ。我が家で集合、6時出発。途中、動橋の友達を拾って、小松のグリーンホテルへ到着。6時40分にバスに乗車。
「飛騨白川」9時到着。トイレ休憩。
中部山岳国立公園で、国の文化財で、特別名勝、特別天然記念物というだけあって、観光客の多いこと。本格的な登山装備の人から、ワンピース姿の人まで、多くの人が行きかう。
わたし達は、大正池でバスを降りて、写真を撮りながら絶景に感嘆の声をあげながら歩く。11時6分スタート。
焼岳が眼前にある。
梓川の水は緑色で、透き通っている。思ったより蒸し暑く、水を触ると冷たくて気持ちよい。
田代湿原。
田代橋まで45分かけて歩いた。河原に下りて景色を眺めていると、ここから動きたくないと思う。
河童橋まで1時間10分。ゆっくり話ながら歩いて到着。
お土産を買い、ソフトクリームを食べてから、岳沢湿原へ向かう。木道を通り、うっそうとした道を10分ほど行くと湿原が現れる。
水に浸かった木が枯れていて、山が見通せる。
河童橋まで戻って、もう一度、西穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳、連なる3000メートル級の山を眺める。
いいなあ、いいなあと思って観ているので、よだれがたれそうだ。雲がどんどん下りてきた。天気予報は午後に雨が降ると言っていた。
日ごろの行いの良さか、帰りのバスに乗ったとたん、雨粒が落ちてきた。良く歩いて、良い景色に包まれて、明日が休みならどんなに良いか。日曜出勤である。うーーん、ここにずっといたい。「別荘建てるか・・」と、友達に言うと「遊びに来てあげるけど、そんなにしょっちゅう来れんよ。」だよね。
いつも思うことだが、弓道をしていなかったら、この時間に、この道場で、この人達に会うことが出来ない。奇跡すら感じる。
朝に弱いわたしは、6時前に家を出て2時間走って来る自信がなくて前泊した。おかげで、美味しい寿司を頂き、聞くところによると、そこの娘さんも実は弓道をしていて、当日講習会に参加していた。
羽咋の道場へ来たのは何年ぶりだろう。県体が持ち回りで開催されていた頃、羽咋の道場へは何度か来た。懐かしい道場のたたずまい。立派な白い塀にへばりついて、県体の応援をしていた。殿と並んで立っていた気がする。あの頃、H先輩もY先輩もいた。みんな旅立ったのだ。じわーーー
挨拶に「初めまして・・小百合です」と、言いそうになった。そのくらい、雰囲気がほんわかしていた。
熱意が刺激を呼び、刺激が熱意となる。そんな風に、両S先生の熱意が能登の地に根付いて、称号者や七段の先生の誕生を助けたに違いない。その熱意はまたはね返って戻ってくる。波及する。
小さい頃、一日がとても長く感じた。きっと、目まぐるしく動いていたからだろうか。
休日の朝、朝寝坊をして、ゆっくり朝食をとって、掃除も洗濯もゆっくりしていると、もう午前中が終わって、短い半日に驚くことがある。何もできなかった・・と、いうような。
さて、土曜日、婆さんは能登へ旅行に行った。娘が仕事なので、孫に昼ごはんとプール教室へ連れていく仕事が課せられた。相変わらずゲーム好きの子供たちだが、婆ちゃんがいないので、畑の作物の収穫を手伝って欲しいというと、喜んで付いてきてくれた。
キュウリ、ナスを採り残しがないように採ったつもりだが。小さい頃から畑に行くのが好きなようで、オクラや、プチトマト、ゴーヤなどをみて回って、最後に大葉を摘んで帰った。その後、キュウリを冷やしてそのままポリポリとおやつにした。
軽い昼ごはんを済ませて、プールへ連れていき、その間に実家の母を連れて墓参りに行った。母を送り孫を迎えに行き、水着の洗濯をした後、3時に羽咋に向かう。約2時間の運転は疲れる。わたしの継続運転力は1時間半である。
高速に乗って、里山街道を走って2時間。到着前に千里浜に寄って休憩。目的地は羽咋のビジネスホテルだが、時間に余裕があるので、殿と行ったことを思い出し、渚ドライブウェイを走る。
千里浜ドライブインで車を降りて、外の空気を吸う。
砂像。何故孫悟空なのか?
目的のホテルの後は、弓道仲間と美味しい寿司屋へ。回らない寿司である。ついでに、酢牡蛎も。
この後、ココスでコーヒーとスイーツ。
なんと長い一日か。ホテルの部屋は狭く備え付けの机も小さいが、4500円なら満足。
長い一日だった。長く感じるのは、たくさん行動し、たくさん食べて、友達と楽しいひと時を過ごすことができたからだと思う。
一体わたしはなぜここにいるのか。心地よい眠りについた。
食品会社の株主優待が楽しい。今回送られてきた日清食品。
いろいろある中で、「株主様限定オリジナル製品」というのが、錦織選手のパッケージと、選手の直筆サイン入りテニスボールカマボコが入っている。
サインボールは、どっちが上なのか?分からないが食べてしまうのも惜しいが、残しても腐るだろうし。
他にもあるんだって。くっくっく・・・笑える。
15時に鶴来の白山比咩神社に到着。社務所の横にスタンプが鎖につながれていた。そこには、奥宮のスタンプもあって、白山に登らない人はここで押す。わたしは白山に登るので、室堂向かいの奥宮で押す予定だ。
3ヶ所のスタンプを社務所に提示すると、三神社のクリアファイルがもらえた。
参拝の後帰路につく。白山は今年はお祭り騒ぎだ。
この日、Mさんのインプレッサは300km走った。お疲れさま。
16時50分に大聖寺到着。無事完了。蒸し暑い一日だったが楽しいドライブだった。
中居神社からすぐ、美濃白鳥の長滝白山神社近くの道の駅に到着11時6分。ここから歩いて踏切を渡って長滝白山神社に到着。さあ、スタンプ、スタンプ・・と捜し歩くがない。スタンプラリーの冊子に問い合わせの電話番号があった。「若宮家」に電話をした。10回ほど鳴らしたが誰も出ない。
どうなる。2つ目でつまずきか。Mさんも電話をかけてくれたが音信不通。
まずは、参拝する。と、白装束の方が息を切らして、「お電話を頂きましたか?」と、電話に出る暇もなく上がって見えた様子。神主さん夫婦が駆け付けてくれて、スタンプを力強く押してくれた。よかった。よかった。
道の駅が休みで、向かいにあった「みのばんば」というレストランで、5食限定の魚定食を4人で注文した。食後のコーヒーを飲んでゆっくりした。12時30分出発。油坂峠の道を走り、大野市、勝山市、谷峠・・・先日から、この白峰の道はよく通ることとなった。今までの人生で白峰村には殆ど来たことがなかったのに、ここ1か月の間に西山2回。取立山へ行くことで1回。この日で4回。この夏に白峰村へは何回足を運ぶことになるだろうかと思う。途中「山下ミツ商店」で、Mさんが固豆腐を買い、女性たちは豆腐のソフトクリームを食べた。
順調に鶴来に向かっている。
平泉寺白山神社を出発して、運転手のMさんは、三馬場巡り以外にどうしても回らなくてはならない神社に寄るという。山岳部バリバリのMさんは、(白山自然解説員でもあった)美濃禅定道として外せないという「石徹白(いとしろ)の中居神社」へ、向かう。
大野市経由、和泉村から石徹白川を遡り崖が見える狭い道に入っていく。がけ崩れ跡もあって、窓の外を眺めると怖い、車が交差できない道である。
10時16分中居神社着。鳥居の横から回って駐車場へ入ると、駐車場から鳥居を見上げる形になった。
おぉーー!橋を渡り、石段を登り、古い神社は神聖な気配が漂う。
ちょっとした山登りだ。はあはあ・・。
小さな神社ではあるが、昔の造りがそのままだ。
巨木も多いが、ここから6キロ奥に「石徹白の大杉」が、あるらしい。国指定特別天然記念物だそうだ。(周囲13.9m)わたし達の知る山中にある「栢野の大杉」は、9.12mなので、是非とも見たいが時間がない。この厳かな杉林の下をゆっくり歩きたいが、石段を転げるように下りる。K子さんも汗だく。KOさんは写真撮影に余念がない。
ひっそりとした神社だが「郡上市白山開山1300年祭」と、のぼり旗がひらめいている。石徹白もれっきとした禅定道なのである。
参拝後10時35分出発。この時点で105km走った。今度は白鳥へ向かうヘアピンカーブの多い道を下る。
長滝白山神社経由、白山比咩神社へ4時半までには入らなくてはならない。果たして間に合うのか。
泰澄大師が信仰として白山開山したのが717年で、今年は2017年なので「白山開山1300年」と言う訳で「三馬場巡りスタンプラリー」へ、職場の仲間と出かけた。白山禅定道を学ぼうという趣旨である。決して、スタンプを押して景品を貰うことが目的ではないことを申し述べておく。
果たして一日で、三馬場を回りきることが出来るのだろうか。
7時出発。山中温泉を抜け我谷ダム、竹田から勝山へ向かう。8時23分に平泉寺白山神社に到着。社務所を探すが、寺が手前にあって間違えそうになった。古くて趣のある社務所でスタンプを押す。
平泉寺の泉の女神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)から白山の頂まで来るように告げられる。下山後に泉のそばの構えた庵がのちに平泉寺となった。もともとお寺だったということ。女神が現れたという泉。
平泉寺白山神社は巨大な宗教都市を形成したという。ここから山頂までが越前禅定道となった。
山王鳥居といって、鳥居の上に屋根がある。お寺と神社が合体したとのこと。
拝殿の奥に本殿、別山社、越南知社が並び、白山山頂の大汝峰、御前峰、別山を表している。三宮から奥宮へ向かう越前禅定道をのぞきたいし、趣のある平泉寺を堪能したいが時間がない。奥の院で参拝し8時50分に出発。平泉寺のソフトクリーム屋さんはジャージー牛乳100%で人気なのだが、開店は10時からだって!後ろ髪引かれる―。
物知りで、川柳をつくったり、随筆を書いたりしていた父はすっかり、何の気力もなくなった。寝たきり状態になってから、みるみる弱っていくのが分かる。
これは、仕方ないことだというが、わたしは過去に何回も入院して思ったのは、身動きできない状態でベットにいるのは三日と持たない。病院の白い天井と壁を見ながらただひたすら寝るという事の辛さ。癌の手術の後、麻酔が醒めたら一晩でトイレへ行けるようになって、今の医学は素晴らしいと思ったものだ。年を取ったからと言って、動かないのは当たり前のようにいわれたらきついなあと思う。父も「はよ、お迎えが来んかなあ。」と、言う。TVも、ラジオも気力がないと観ないし、耳が遠いと聴くこともできない。
唯一、タブレットの写真を喜んでくれる。特に、自分の幼い頃杉の水にいたせいか、富士写ケ岳に登ったことや、職場の仲間と県民の森へ行った写真を見せると喜ぶ。深田久弥の話は自ら話す。先日行った前山の「山の茜をかえりみて・・・」の画像を見せると、すらすらと読んだ。
キャンプファイヤーを焚いて、みんなでケビンでお泊り。夏休み前の平日は誰もいないので、飲めや歌えやの楽しいひと時だった。
職場の皆の写っているのを見て、「いいとこ(職場)へ行ったんなぁ。みんなに可愛がられて、良かったんなぁ。」と、この年になっても娘として心配してくれることに涙が出そうになる。
口の悪い先輩は「みんなをいじめとるって言わなかったん?」などと言いつつ「親の面倒を看るのは大変やね。」と、言ってくれた。週2、3回しか見舞いに行っていないので、一番大変なのは母親なのである。ほぼ毎日のように行っている。そして、父は母にはわがままを言う。わたしの顔を見るとひたすら喜ぶだけなのに。
今年も燕がやってきて、何回も巣立っていった。毎年この時期は車庫は燕に占領される。車庫の中に新聞紙を敷いて、糞の始末をする。
7月4日に車庫で拾ったひなを姑が居間へ持ってきた。耳の遠い姑は軍手の中のひなを強引に机の上に置いて去って行った。もしかして、姑の大声で失神したのかもしれないくらいひなは弱っている様子。
わたしにはひなを育てる器量がないので、とりあえず巣の中へ戻すことにした。一時的な気休めかもしれない。放り出されたひなは、また放り出される可能性があるのではないか。
脚立にのぼって、ひなを巣の中へ入れようとするが、巣の中には4羽いて、落ちたひなの入る場所はない。それでも、無理矢理押し込んで脚立を降りた。4日後の朝、巣を見上げるとひな達は成長している。身体が大きくなって巣からでている胸のたくましいこと。あれっ?4羽?もう1羽は?と、不吉な予感がして下を見ると、そこにいた。あぁ・・少し大きくなってはいたようだが、じっとうずくまっているような。鳥というのは、そもそもうずくまっているような姿ではあるが。
触らずに、気にしながら仕事に出かけてしまった。帰ってから車庫を見に行ったがみつからなかった。巣立っていったとは思えないか弱いひなだった。燕のひなも救えないのである。
その日、国境なき医師団から「感謝状」と、「領収書」が届いた。先日寄付をしたことを思い出した。何も出来なくても寄付をすることによって、誰かが助かる。しかし、1回や2回の寄付では、燕のひなを巣に戻すくらいの力しかないのではないか。根本的に元気になる。あるいは、みんなが助かるというようなことにはならない。
土曜の夜は再伝達講習会だ。孫のkouの誕生会に呼ばれているが、仕事だったため何のプレゼントも用意できず、娘が注文してあったケーキを取りに行き、代金はわたしが支払うことにした。
大きなイチゴタルトで良いお値段であった。
大変おいしい食事と、ケーキの火を消すセレモニーが終わって、とろける美味しさを口に放り込んで、8時から再伝達講習会の講師をT先生とふたりですることになっているので、7時半にはおいとまして、着物を着て袴をつけて出かける。着替えただけで汗が噴き出る。
しばしも休まず・・という歌があったっけ。なぜか会長が欠席のために開始式の挨拶をして、短い時間ながらもT先生の的確な説明と、受講生の真剣さに助けられ無事講習会は終わった。汗が目に入る。喉はカラカラ。家に着いたら10時になっていた。
この日もありがたい熟睡状態。