正岡子規が病床で俳句や、新聞の記事を書いていた。入院した時に、正岡子規の本を求めて読んだ。その気持ちが分かる気がしたのは、日ごろ俳句など無縁であるのに、じわじわと言葉が浮かび、毎日同じ景色の窓の外を眺めて、小さな変化を見つけることが病室で生きることだと思った。
からだが不自由な状態になると、気持ちが鋭くなってくるような気がする。また、書くことは、心の救いであったりする。幸いにも、正岡子規の頃と違うのは、メールがあって友達とやりとりできる幸せがあった。(正岡子規には見舞い客が大勢きていた)
書くことでエネルギーがわいてくる気がする。また、考えを整理することでもあったりする。自身を俯瞰する意味もある。大げさかもしれないけれど書くことは生きることでもある。
ブログをだらだらやっている人は、何の目的でやっているのかとかいうことを言う人がいた。ゴールが見えないブログって何?というような。また、一人ぽっちなんじゃないのとかも言われた。けれど、余計なお世話なのである。書きたい人は書けばいいし、訪問してくださる数少ないわたしの友人への近況報告でもあるし、このブログを通じて同じ意見の方がいればすごくうれしい。
ぼやいたり、泣いたり、つまづいたりしてだらだら続いて何がいけないのか。
ちなみに、アクセス解析をみると、わたしのブログの訪問数は家族が見に来る程度の少なさなので、炎上の心配もなかろうと思うし、のんびり呑気にやっているのっていいんじゃないのと思う。
今日も読んでくれてありがとう。