だいぶ前に、「十牛図」を、読んだ。その時の、禅の意味は、最終的には「空」とか「無」に返るというものだった。それでは、禅は空を求めるのかということになる。そうではない気がする。特に、弓道で言うところの「立禅」となると、どうだろう。
鈴木大拙先生が、「こうなのだろう。あるいは、こうかもしれない。いや、やっぱりこうなのだろう。」というような、書き方をしていることが、まさしく「禅とは何か」という本の趣旨であって、「禅とはこうですよ」というのではないのだということが、やっと分かってきた。
また、「日本の弓術」の中で、オイゲン・ヘリゲルが、「弓術の基をなしている精神的修練は、これを正しく解するならば、神秘的修練であり、したがって弓術は弓と矢を持って外的に何事かを行おうとするのではなく、自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。」と、書いている。そして、恐ろしいことに、「弓と矢はかならずしも弓と矢を必要としない。あることのいわば仮説に過ぎない。目的に至る道であって、目的そのものではない。この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば、神秘的合一、神性との一致、仏陀の発現である。」と、述べ、その著書の中でへリゲルが「鈴木大拙氏の禅論集の中で、日本文化と禅とはきわめて緊密な関係にある。」と、ここで鈴木大拙氏を登場させている。欧米の哲学者にも大きな影響を与えているのだ。これは、なかなか前へ進めない。
空だとか、無だとかの十牛図の掛け軸に「〇」という謎なものがあるのが頭に浮かんでくる。
さて、うちのおばばさんが、まさしくタイミングよく禅の神髄のようなキュウリを収穫してきた。そして言った。「空(食う)?」