今朝もヘリコプターが飛んでいる。
元旦から、救急車や消防車のサイレンがひんぱんに聞こえる。
何が怖かったかというと、初詣の時に並んでいる人々のスマホが一斉にウォンウォン鳴りだした時だ。
けたたましく鳴る音が止み、何が起きるか分からない一瞬の静けさが恐怖を倍増させる。効果的と言えば効果的なのかもしれないが、恐怖のどん底に陥らせるので、叫びだす女性、泣く子供がいた。
その後、落ち着いたころに、TVで震度7が再びやってくると出た時、またあの音と揺れが来るのかと思った。
来ますよ、来ますよと心構えを通り越して、恐怖で震えるのは、すでに怖かったことを知っているから。
加賀市の震度5でも怖いのに、能登の方はどんなに怖かったことか。
誤報だと分かっても、緊張と恐怖は簡単に去らない。
避難して17時30分の津波予報の時間になる。
その後、少しずつ落ち着いてきて、まずお腹がすいたことに気づく。
夕食の時間だが、婆さんは防災の袋をちゃんと持って出てきたが、わたしはフリースの毛布だけつかんで出た。
寒いので、毛布は正解だったが、食べるものは大事だ。
まず食べて飲んで落ち着くことだが、乾パンの缶を出されたとき、まだいいわと思った。
TVの「にげてください!!」が、すごかったので、逃げたけど、加賀市の防災有線を聞いていない。
わたしが帰って来た時はすでに地震の後だったからだ。
後で[聞いたら、これまた怖い音だ。
効果音の後「大地震です!!」「大地震です!!」ゆっくりと落ち着き払った声だ。
でも、この緊急放送を直接聞いていた娘はすぐ電話してきて地震の後、「おかーさん、どこにおるん?」
「家内安全をお参りしていた」
「え~~!!早く帰って!!」と、そりゃ言うわね。
元旦からなんということだと思ったが、元旦で良かったのは、家族みんなが一緒にいたことだと娘は言う。
いつもの16時10分は、部活、学童、仕事とみんなばらばらだ。
とはいえ、帰省した姉妹がふたり一緒に亡くなった方もいる。
互いに連絡がつかないという不安は何とも言えない。
能登にいた弟と連絡が取れたが、無駄にスマホを使うのもどうかと思って状況が変わったら連絡してと言ったのに、体調はどうか寒くないか食べ物はあるか?と、心配の種を増やして何度もスマホを手に取って我慢していた。
地震の被害が甚大であることを今朝の新聞で知る。
珠洲の津波の被害。冷たい水に浸かって救助を待ったこと。
輪島朝市通りの容赦ない火事の被害の記事は戦後の焼け野原同然だ。
弟が動けなかった「のと里山海道」は、道路が寸断されている。
家屋倒壊、孤立。
1月20日から21日の2日間の女子講習会をどうするか判断しなくてはならないと思った。
そして、決断を下さなくてはならない。
事務局と相談しながらも、心は招聘の先生をとっ散らかった家に招くような事になるので、中止の気持ちを持っている。
また、能登の弓仲間が避難所にいる。
自分も数時間の避難で心穏やかでなかったのに、被災者の人々の心中を察するなら開催はできない。
関係者に相談するものの、決断は主催者がしなくてはならない。
それも早急に。