街道ウォーク>旧中山道>奈良井宿~木曽福島駅
2012年7月28日 11回目
経塚
・・・・・・・・この経塚は、初代木曽代官山村良候が、慶長年中に家臣の
川崎又右衛門(祖要坊)を伴って、全国の霊場を廻って大乗経を納め
記念として塚を築いて松を植えた。年を経て知る人もなくなったので、第五代の山村良忠が曾祖父良候(号道祐)の百年忌にあたって、碑文を刻み建立したもので、「①」は山村氏の家紋である。文は長男の山村良林で後の第六代代官山村良景の書である。建立は元禄十四年(1701)十一月二十日さらに左の大日如来座像は、元禄十五年に造立したものである。 木曽町
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2012年7月28日 11回目
手習天神
木曽郡木曽町町組
このお宮は、古くは山下天神とよび、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ'中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参詣したものといわれています。このお宮の祭は、毎年八月二十四日、二十五日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行うわれています。 木曽町
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中山道中間点
ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里三十八町(約二六八キロ)に位置しています。中山道は、東海道とともに江戸と京都を 結ぶ二大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。木曽路というと深山幽谷の難所と思われ がちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された慶長六年(一六〇一)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壷道中などの通行に利用されていました。英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。 木曽町
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