街道ウォーク>旧中山道>奈良井宿~木曽福島駅
2012年7月28日 11回目
高瀬家資料館
木曽町福島
島崎藤村の姉、園(その)が嫁いだ家として知られる高瀬家は、藤村の小説「家」のモデルになっていることで有名です。現在は資料館になっており、藤村ゆかりの写真や手紙などが展示されています。 さわやか信州旅
ここ高瀬家は、文豪島崎藤村の姉,"園“の嫁ぎ先で、作品「家」のモデルとして知られています。”園“は作品「家」に登場する,お種“であり又、「夜明け前」の”お粂”です。高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄を祖としその後高瀬と改め、則澄より四代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のころ木曽福島に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕えて以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失したものの旧家の風情を今も伺うことができます。島崎藤村に関わる史料と関所番や生活に関わる道具類が所蔵、展示されています。 木曽町
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2012年7月28日 11回目
福島関所跡
長野県木曽郡木曽町
福島宿には江戸幕府が江戸防衛のために、東海道の箱根関所や新居関所、中山道の碓井関所などと並ぶ日本四大関所の一つで、木曽川を真近かに見下ろす高台にあり、創設以来約270年間、中山道の要衝として入鉄砲、出女等を厳しく取り締まった所です。 木曽町観光協会
▲木曽五木のひとつ「こうやまき」
▲トビグチ
関所の三道具
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経塚
・・・・・・・・この経塚は、初代木曽代官山村良候が、慶長年中に家臣の
川崎又右衛門(祖要坊)を伴って、全国の霊場を廻って大乗経を納め
記念として塚を築いて松を植えた。年を経て知る人もなくなったので、第五代の山村良忠が曾祖父良候(号道祐)の百年忌にあたって、碑文を刻み建立したもので、「①」は山村氏の家紋である。文は長男の山村良林で後の第六代代官山村良景の書である。建立は元禄十四年(1701)十一月二十日さらに左の大日如来座像は、元禄十五年に造立したものである。 木曽町
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手習天神
木曽郡木曽町町組
このお宮は、古くは山下天神とよび、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ'中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参詣したものといわれています。このお宮の祭は、毎年八月二十四日、二十五日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行うわれています。 木曽町
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中山道中間点
ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里三十八町(約二六八キロ)に位置しています。中山道は、東海道とともに江戸と京都を 結ぶ二大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。木曽路というと深山幽谷の難所と思われ がちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された慶長六年(一六〇一)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壷道中などの通行に利用されていました。英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。 木曽町
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