湖西線の大津京駅は乗降客も少なく、天智天皇の都のあとも定かでない古都はどこか哀愁を帯びていました。
石山寺には何度もお詣りしているし、三井寺は初めてという三人にあわせて、今回は大津に出かけることにしました。
一つには大津市歴史博物館で開館20周年の記念展として「大津 国宝への旅」が開催されていて、大津の名宝の国宝35点、重文55点が、展示替えはあっても今までにない規模で展示されているという妹の情報で、こちらに決めました。
湖西のみ仏にはお目にかかる機会も少ないので期待を持って向いました。この日から後期の展示で県内初公開という国宝「御骨大師」の坐像(木造智証大師坐像―三井寺に伝わる円珍の遺骨を納めているので「お骨大師」と呼ばれるわが国肖像彫刻の白眉といわれている)をはじめ、大津の代表格で、多くのファンを持つ盛安寺の木造十一面観音(重文・平安時代)にも初にお目にかかりました。穏やかなイ化のも平安朝のみ仏という風情で温かく出迎えてくださいました。
聖衆来迎寺に伝わる国宝の六道図は、13幅も並べられると、地獄絵の最高傑作とされるだけ、その鬼気迫るおぞましさには目を背けたくなりました。
バルコニーの展望台に出て、琵琶湖を眺めながら、昔とはすっかり様変わりした湖岸に建つ色鮮やかな建造物に目をやりながら、もはや近江朝の興亡も人麻呂の嘆きも幻影としても浮かんではきません。午後の時間をたっぷり堪能して、直ぐ隣の園城寺へと向いました。
三井寺は昔のままの面影を漂わせてひっそりと紅葉の季節を迎えようとしていました。
重文の仁王門、三井の晩鐘で知られた鐘楼、閼伽井屋(み井寺の呼び名の起源の霊泉)などを巡りましたが、私はここで回遊をやめ、天台寺門宗の総本山、国宝の園城寺金堂のきざはしに腰をおろして、三人が帰ってくるのを待ちました。
平安朝で「寺」とだけいえば、この園城寺を意味した長い歴史と再三の兵火でかつての偉容は失なわれているとはいえ、もの古りた樹木のたたずまいにも、今、弁慶が鐘を引きずって現れても不思議ではないパワーのようなものを感じていました。
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石山寺には何度もお詣りしているし、三井寺は初めてという三人にあわせて、今回は大津に出かけることにしました。
一つには大津市歴史博物館で開館20周年の記念展として「大津 国宝への旅」が開催されていて、大津の名宝の国宝35点、重文55点が、展示替えはあっても今までにない規模で展示されているという妹の情報で、こちらに決めました。
湖西のみ仏にはお目にかかる機会も少ないので期待を持って向いました。この日から後期の展示で県内初公開という国宝「御骨大師」の坐像(木造智証大師坐像―三井寺に伝わる円珍の遺骨を納めているので「お骨大師」と呼ばれるわが国肖像彫刻の白眉といわれている)をはじめ、大津の代表格で、多くのファンを持つ盛安寺の木造十一面観音(重文・平安時代)にも初にお目にかかりました。穏やかなイ化のも平安朝のみ仏という風情で温かく出迎えてくださいました。
聖衆来迎寺に伝わる国宝の六道図は、13幅も並べられると、地獄絵の最高傑作とされるだけ、その鬼気迫るおぞましさには目を背けたくなりました。
バルコニーの展望台に出て、琵琶湖を眺めながら、昔とはすっかり様変わりした湖岸に建つ色鮮やかな建造物に目をやりながら、もはや近江朝の興亡も人麻呂の嘆きも幻影としても浮かんではきません。午後の時間をたっぷり堪能して、直ぐ隣の園城寺へと向いました。
三井寺は昔のままの面影を漂わせてひっそりと紅葉の季節を迎えようとしていました。
重文の仁王門、三井の晩鐘で知られた鐘楼、閼伽井屋(み井寺の呼び名の起源の霊泉)などを巡りましたが、私はここで回遊をやめ、天台寺門宗の総本山、国宝の園城寺金堂のきざはしに腰をおろして、三人が帰ってくるのを待ちました。
平安朝で「寺」とだけいえば、この園城寺を意味した長い歴史と再三の兵火でかつての偉容は失なわれているとはいえ、もの古りた樹木のたたずまいにも、今、弁慶が鐘を引きずって現れても不思議ではないパワーのようなものを感じていました。
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画像は三枚です。