雀の手箱

折々の記録と墨彩画

お施餓鬼法要

2009年07月20日 | 雀の足跡
 昨日の日曜日は、菩提寺でのお施餓鬼法要に行って来ました。今年は二人揃っての参加です。

母の初施餓鬼の折とは違い、ゆっくり施餓鬼を考えてみました。

 お施餓鬼は文字通り飢えに苦しむ餓鬼への施しで、阿難尊者の説話に習って食べ物や水を供えるわけですが、欲深の自分のやがて墜ちる行き先の先住たちに、想いをこめてお供えをしました。
 この功徳が自分だけではなく先祖達の追善供養にもなるならばというわけです。

 一年のうち一度くらいは、食べることでー他の命を奪うことでー命を繋いでいる自分の罪深さを自覚し、今も生きながら飢えに苦しむ何億という地球上の人々に想いを馳せ、食べ物に感謝する法要と考えれば意味があることです。

 寺の昼食の接待は薄味で、お吸物も二段の弁当も全部残さずに頂きました。今日ばかりは宮崎駿氏の「天空のラピュタ」の”生き物は自分だけで生きているわけではない”を思い浮かべながら心から「いただきます」を唱えました。

  お施餓鬼法要の日



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2 コメント

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功徳 ()
2009-07-22 07:01:19
 自分だけではなく先祖たちの追善供養…
法要を終えると 心の内が清々しく浄められ、これは自分のためと 実感します。
そして 先祖のおかげをかみしめます。

 遠い日、梵天の五色や金銀の薄紙にこころを奪われました。美意識の最初の記憶です。その紙で七夕飾り等も作ったよう… 時季になると、 一軒一軒おじさんが売りに来たように思います。
 祖父の傍らで切れ端を自分の籠にたくさん集めていました。うつくしいものが身の回りになかった、今のように溢れていなかったのを思い出します。
 散華をありがとうございました。 梅雨が明けた埼玉も、戻ったような曇り日がつづきます。ふくら雀さんもどうぞおだいじに
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あどけない童女 (ふくら雀)
2009-07-24 06:34:42
遠い日の記憶を辿る蛙さんを思っています。
美しいものへの憧れの最初の記憶が、こうしたあたたかな色彩に充ちたものであったことは、絵に向う必然に繋がったのかもしれませんね。

食べることにも貪欲だったはずの身も、何時しか気力、体力の衰えを自覚しながら、彼岸への傾斜を実感しています。
昨日も掛かりつけ医に、嘆き節の愚痴をこぼすと、車と同じですよ。年数が経つと一箇所修理したとおもうと次が具合悪くなってきます。部品交換というわけにも参りませんのですから。と。家族ぐるみの長い付き合いで気心が知れているだけお互い遠慮がありません。
動きの悪くなったパソコンも、もう宥め透かしが効かないのかもしれません。

生かされてある間は、前を見て歩くことにします。過ごしがたいこの季節お大事にお過ごしになってください。
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