05月17日 05:00
粟ケ崎遊園周辺の鳥瞰(ちょうかん)図の一部分。手前が遊園で右奥が金沢駅方面、左奥が河北潟=内灘町所蔵
(中日新聞プラス)
本家まねるも経営基盤に難
内灘に消えた“北陸の宝塚” 大正・昭和「粟ケ崎遊園」 05月17日 05:00 粟ケ崎遊園周辺の鳥瞰(ちょうかん)図の一部分。手前が遊園で右奥が金沢駅方面、左奥が河北潟=内灘町所蔵 (中日新聞プラス) 本家まねるも経営基盤に難 石川県内灘町の内灘砂丘に、一大レジャー施設「粟ケ崎遊園」があった。大正末期の1925年に開園し、41年の太平洋戦争開戦直前に閉鎖された。にぎわいを見せた“夢の国”はなぜ砂上の楼閣のごとくなくなってしまったのか。(高橋淳) 手がかりを求めて向かったのが、「町歴史民俗資料館 風と砂の館」。学芸員の中江麻代さん(31)が、施設の概要などを教えてくれた。千人収容の大劇場や温泉、動物園、野球場、貸別荘、レストラン、六十三メートルのすべり台…。広さは兼六園の二倍近い約二十万平方メートル。「夏は近くの海水浴場と合わせて入り込みは一日一万人といわれています」 たくさんの人がいろいろなレジャーを楽しんだようだ。にぎわいぶりを知りたいと聞いたのが、当時小学生だった金沢市の斉本信子さん(88)。年に数回、家族で出掛けた。「娯楽のない時代、みんなこぞって行った。遊園に行く電車は、男性客が車両外の手すりか何かにつかまって走る混雑ぶりだった」と振り返った。 最大の呼び物は少女歌劇団。とはいえ誰がいたのか、何人いたのかは不明。風と砂の館には、ショーの断片情報をかき集めて「(かつての)女優名鑑」を作ろうと奮闘している人がいた。町文化財保護審議会長の竹田菊夫さん(72)だ。竹田さんは「二百人はいたのではないか」と推測する。 夢の国の人気はすごかったようだけど、なんで閉鎖されてしまったのか。問題を解くカギは建設のいきさつにありそうだ。 遊園には「北陸の宝塚」という異名があった。創設者で北陸一の材木商だった平沢嘉太郎(一八六四~一九三二年)が、阪急電鉄創業者で宝塚歌劇の生みの親・小林一三(一八七三~一九五七年)のアイデア-鉄道と娯楽施設を組み合わせた事業展開-をまねたためとされる。平沢は金沢から遊園に客を運ぶため、両地点を結ぶ浅野川電気鉄道(現北陸鉄道浅野川線)を敷設している。 平沢が約四十億円相当の私財を投じた遊園は、「市民の別荘を造りたい」という夢の具現化だった。だが、戦時色が強まる中で客足は遠のき、遊園は四一年に閉鎖される。 でも宝塚は戦時中に閉鎖されたが、復活を果たしている。再起できなかった遊園との差は何なのか。 地域史に詳しい金沢星稜大教授の本康宏史さん(58)が時代背景を解説してくれた。当時は「第二の宝塚」をもくろんで各地に郊外型遊園地を造る動きが広がり、粟ケ崎遊園もその一つだったという。 本康さんは「小林は鉄道を重視し、宅地開発で乗客を増やして宝塚に集客した。逆に平沢は遊園への思い入れが強く、鉄道は二の次。金沢の客頼みで経営基盤がもろかった」と経営姿勢の違いを指摘する。 遊園は閉園後、軍需工場となり鉄道事業と分離された。複数の事業で利益を生み出す見通しが立たない中、「夢をもう一度」と遊園事業を引き継ぐ経営者が現れなかったのかもしれない。』 平澤嘉一郎氏は、卓越した先見性とアイデアの持ち主で北陸の宝塚を作りましたが、経営基盤をが、出来る前に太平洋戦争に日本が突入してしまったので 時代が、悪かったと言えます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます