幕末~明治維新4
薩長連合
☆欧米列強は長州藩が行なった砲撃の賠償金として300万ドルを幕府に要求
*幕府は生麦事件の賠償金も払わされている
*外国からすれば「統一国家ならば、賠償金はその政府が支払うべき」という見解
☆封建制度の矛盾が幕末に至って露呈した
*幕府の財政はさらに苦しくなる
☆欧米列強はそんな幕府の混乱に乗じ、幕府に改税約書に調印させる
*輸入品の関税は五パーセントという低額になつた
*外国製の安い製品が大量に入ってきて、貿易不均衡になった
*日本の産業が著しく圧迫され、関税によつて国庫を潤すことも難しくなった
☆幕府は兵庫の開港「日米修好通商条約」の勅許で、薩摩藩との対立にも手を焼いていた
*条約は結ばれていたが、朝廷の勅許がなく、幕府はイギリスなどから勅許を求められていた
☆将軍後見職の一橋慶喜は、朝廷に半ば脅しのような言辞で勅許を取った
☆薩摩藩は怒り、反幕府の意思を固める
☆政権交代を目論んでいた土佐藩の脱藩浪人、坂本龍馬
*長州藩と薩摩藩が手を握るべきと考えた
*龍馬は、薩摩藩を通して長州藩に西洋の武器を売るという奇策を用い両藩を近づけた
*仲介役となって、薩摩藩と長州藩の同盟を成立させた
第二次長州征伐
☆弱体化する幕府に援助を申し出てきたのはフランス
*イギリスが反幕府路線を取る薩摩藩や長州藩と接近した結果より
☆両国は、日本での利権をめぐって水面下で争っていた
*フランスは幕府側についた
☆長州藩が軍備を拡充していると知った幕府
*諸藩に命じて15万人という大軍で総攻撃をかける
☆長州軍はわずか3,500人
*長州軍はイギリスから購入した最新式の武器と司令官(大村益次郎)と高杉晋作の優れた戦略
*各所で兵力において上回る幕府軍を圧倒する
*長州征伐の最中大坂城で指揮を執っていた将軍、家茂が亡くなった
*戦いは幕府軍の完敗であり、幕府の権威は完全に失墜した
☆全国を支配しているはずの幕府が、一つの外様の藩に敗れ去ったのだ
☆朝廷も全国の藩も徳川政権にはもはや何の力もないと悟った
討幕の密勅
☆急死した将軍の家茂には子供がなく将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された
☆慶喜はこれを辞退する(慶喜聡明だが損得に敏感な人物)
☆フランス軍の援助を受けて後、慶喜は徳川15代将軍となった
☆公武合体派で親幕府でもあった孝明天皇が急死し、幕府は大きな後ろ盾を失う
*孝明天皇に代わって第122代天皇になったのは、皇子の明治天皇
*皇位に就いた時は十四歳で、実際の政治は側近が行なった
☆京都での「四侯会議」(徳川慶喜・島津久光・山内豊信・松平慶永・伊達宗城)国政会議
*慶喜と久光が長州の処分で真っ向から対立し、会議が成立せず
*その結果、薩摩藩は武力による討幕に舵を切った
☆薩摩藩の大久保利通は、岩倉具視と組んで、天皇に「討幕の密勅」を出させることに成功
*「幕府の最高責任者たる徳川慶喜を討て」との明治天皇の勅書が、薩摩藩、長州藩に出された
*「会津藩の松平容保、桑名藩の松平定敬を誅殺せよ」という勅書も出された
☆勅書は天皇の直筆ではなく、おそらく作り物
*本来あるべき勅旨伝宣の奏者三人の花押もないなど不審な点が多々ある
*薩摩藩と長州藩は偽勅書で、徳川慶喜、松平容保、松平定敬を殺したかった
☆薩長にとって思いがけないことが起こる
*徳川慶喜が大政奉還をすると上表(天皇に対して書を奉ること)
*結果、薩摩藩と長州藩は、武力討幕の大義名分を失った
時代が大きく変わっていくのを民衆も感じ取っていた
☆武蔵国上名栗村で起こった「武州世直し一揆」がきっかけとなり、全国各地でも起こる
*「不当な支配や収奪を行なう」地主や豪商に対する、農民や民衆による打ちこわし
*江戸や大坂でも大規模な打ちこわしがあった
☆豊作により世直し一揆の波が鎮まる
*民衆の間で「ええじやないか」が大流行した
*集団で町々を巡って踊りまくるという不思議な社会現象である
*鬱積した民衆の不満が、踊りという形で現れた
*「日本国の世直りはええじゃないか」という囃し言葉もある
☆根底には「世直し」に対する渇望のようなものがあったのでは
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』
「討幕の密勅」は本物?(ネットより画像引用)
薩長連合
☆欧米列強は長州藩が行なった砲撃の賠償金として300万ドルを幕府に要求
*幕府は生麦事件の賠償金も払わされている
*外国からすれば「統一国家ならば、賠償金はその政府が支払うべき」という見解
☆封建制度の矛盾が幕末に至って露呈した
*幕府の財政はさらに苦しくなる
☆欧米列強はそんな幕府の混乱に乗じ、幕府に改税約書に調印させる
*輸入品の関税は五パーセントという低額になつた
*外国製の安い製品が大量に入ってきて、貿易不均衡になった
*日本の産業が著しく圧迫され、関税によつて国庫を潤すことも難しくなった
☆幕府は兵庫の開港「日米修好通商条約」の勅許で、薩摩藩との対立にも手を焼いていた
*条約は結ばれていたが、朝廷の勅許がなく、幕府はイギリスなどから勅許を求められていた
☆将軍後見職の一橋慶喜は、朝廷に半ば脅しのような言辞で勅許を取った
☆薩摩藩は怒り、反幕府の意思を固める
☆政権交代を目論んでいた土佐藩の脱藩浪人、坂本龍馬
*長州藩と薩摩藩が手を握るべきと考えた
*龍馬は、薩摩藩を通して長州藩に西洋の武器を売るという奇策を用い両藩を近づけた
*仲介役となって、薩摩藩と長州藩の同盟を成立させた
第二次長州征伐
☆弱体化する幕府に援助を申し出てきたのはフランス
*イギリスが反幕府路線を取る薩摩藩や長州藩と接近した結果より
☆両国は、日本での利権をめぐって水面下で争っていた
*フランスは幕府側についた
☆長州藩が軍備を拡充していると知った幕府
*諸藩に命じて15万人という大軍で総攻撃をかける
☆長州軍はわずか3,500人
*長州軍はイギリスから購入した最新式の武器と司令官(大村益次郎)と高杉晋作の優れた戦略
*各所で兵力において上回る幕府軍を圧倒する
*長州征伐の最中大坂城で指揮を執っていた将軍、家茂が亡くなった
*戦いは幕府軍の完敗であり、幕府の権威は完全に失墜した
☆全国を支配しているはずの幕府が、一つの外様の藩に敗れ去ったのだ
☆朝廷も全国の藩も徳川政権にはもはや何の力もないと悟った
討幕の密勅
☆急死した将軍の家茂には子供がなく将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された
☆慶喜はこれを辞退する(慶喜聡明だが損得に敏感な人物)
☆フランス軍の援助を受けて後、慶喜は徳川15代将軍となった
☆公武合体派で親幕府でもあった孝明天皇が急死し、幕府は大きな後ろ盾を失う
*孝明天皇に代わって第122代天皇になったのは、皇子の明治天皇
*皇位に就いた時は十四歳で、実際の政治は側近が行なった
☆京都での「四侯会議」(徳川慶喜・島津久光・山内豊信・松平慶永・伊達宗城)国政会議
*慶喜と久光が長州の処分で真っ向から対立し、会議が成立せず
*その結果、薩摩藩は武力による討幕に舵を切った
☆薩摩藩の大久保利通は、岩倉具視と組んで、天皇に「討幕の密勅」を出させることに成功
*「幕府の最高責任者たる徳川慶喜を討て」との明治天皇の勅書が、薩摩藩、長州藩に出された
*「会津藩の松平容保、桑名藩の松平定敬を誅殺せよ」という勅書も出された
☆勅書は天皇の直筆ではなく、おそらく作り物
*本来あるべき勅旨伝宣の奏者三人の花押もないなど不審な点が多々ある
*薩摩藩と長州藩は偽勅書で、徳川慶喜、松平容保、松平定敬を殺したかった
☆薩長にとって思いがけないことが起こる
*徳川慶喜が大政奉還をすると上表(天皇に対して書を奉ること)
*結果、薩摩藩と長州藩は、武力討幕の大義名分を失った
時代が大きく変わっていくのを民衆も感じ取っていた
☆武蔵国上名栗村で起こった「武州世直し一揆」がきっかけとなり、全国各地でも起こる
*「不当な支配や収奪を行なう」地主や豪商に対する、農民や民衆による打ちこわし
*江戸や大坂でも大規模な打ちこわしがあった
☆豊作により世直し一揆の波が鎮まる
*民衆の間で「ええじやないか」が大流行した
*集団で町々を巡って踊りまくるという不思議な社会現象である
*鬱積した民衆の不満が、踊りという形で現れた
*「日本国の世直りはええじゃないか」という囃し言葉もある
☆根底には「世直し」に対する渇望のようなものがあったのでは
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』
「討幕の密勅」は本物?(ネットより画像引用)
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