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鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇か(2)

2021年10月25日 | 歴史
🌸鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇か(2)

⛳護良親王は、父のために尽力した「建武政権」の功労者

 ☆醍醐天皇は、島では幕府を倒す活動を進めることはできなかった
 ☆後醍醐天皇が不在のとき、鎌倉幕府を倒すための活動を行っていた人物
 *後醍醐天皇の皇子、人搭宮護良親王
 ☆自ら還俗し、護良親王と名前を変えて、討幕活動を開始した
 *皇子とはいえ、幕府に捕縛されたら殺されかねません
 ☆楠木正成や播磨赤松円心など
 *護良親王の指令を受けて動いていたようです
 ☆後醍醐天皇が不在の時は護良親王が頑張っていた
 *鎌倉幕府を倒すまでの大きなうねりにはなりませんでした
 ☆幕府に対してボディブローを与えるためには、相当効果があった
 *討幕に尽力したという意味では、護良親王は大功労者だった

⛳鎌倉幕府を滅亡させたのは、新田義貞でない
 ☆隠岐にいる間は、後醍醐天皇は何もできない
 ☆後醍醐天皇は、イカ釣り船に乗って隠岐島を脱出
 ☆帰ってきた後醍醐天皇、鳥取の大山寺というお寺を目指す
   *寺に立てこもり、「幕府を倒せ」と命令を出し続けた
 ☆鎌倉幕府を倒す上で、大きな役割を担ったのは足利高氏
 *船上山にいた後醍醐天皇の再三の呼びかけに応じて
 *高氏は「幕府を倒そう」と決意する
 ☆関東で、畿内で。多くの武士たちが動いた結果
 *わずか一カ月後に鎌倉幕府は潰れてしまいました
 *鎌倉幕府を倒す一連の戦いの中心にいたのは、足利高氏だった
 ☆新田義貞が、鎌倉幕府を滅亡させた人物だと思われることもある
 *彼は戦いの現地責任者ではありましたが
 *その背後で武士たちに命令を下していたのはあくまで高氏です
 ☆現在の定説は
 *後醍醐天皇の命令を受けた新田義貞が、鎌倉幕府に攻め込み
 *倒幕を果たしたという認識が強いです
 *それでは鎌倉攻めの実態が、ぼかされてしまいます

⛳「皇国史観」で祀り上げられた後醍醐天皇の「建武の新政」
 ☆実際は、足利高氏の動きで鎌倉幕府は倒れた
 *高氏よりも後醍醐天皇の存在を評価する研究者が多い
 *戦前の皇国史観が大きく関わっている
 ☆富国強兵を掲げ、自国を欧米諸国に並び立つ大国とするため
 *明治政府の「日本は天皇を頂点とした神の国」の歴史観
 *後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも一段上の神様のように崇められた
 *戦後になっても、後醍醐天皇の威光は変わらず
 ☆皇国史観に基づいた日本史
 *大化の改新で蘇我氏が減ぼされ、天皇による政治が始まる
 *その後、武士の登場で、天皇や貴族の力は、右肩下がりになる
 *そこに後醍醐天皇というヒーローが現れた
 *武士たちが作った鎌倉幕府を倒して建武政権を作り、武士は倒れる
 *建武の新政は素晴らしいものだった
 *教養ない武士たちにはその有難みがわからなかった
 *足利尊氏を中心とする武士たち後醍醐天皇に反旗を翻し
 *建武の中興をダメにしてしまった
 ☆皇国史観に基づいた歴史観
 *天皇の権威がV字回復していく様子を描いた物語のようなもの
 *戦前はこうした歴史観が一般的だった
 ☆足利尊氏は、天皇の政治をダメにした一番の悪者だと考えられていた
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、NHK『日本史の論点』




 鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇か(2)
(ネットより画像引用)

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