🌸鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇か(2)
⛳護良親王は、父のために尽力した「建武政権」の功労者
☆醍醐天皇は、島では幕府を倒す活動を進めることはできなかった
☆後醍醐天皇が不在のとき、鎌倉幕府を倒すための活動を行っていた人物
*後醍醐天皇の皇子、人搭宮護良親王
☆自ら還俗し、護良親王と名前を変えて、討幕活動を開始した
*皇子とはいえ、幕府に捕縛されたら殺されかねません
*皇子とはいえ、幕府に捕縛されたら殺されかねません
☆楠木正成や播磨赤松円心など
*護良親王の指令を受けて動いていたようです
☆後醍醐天皇が不在の時は護良親王が頑張っていた
*鎌倉幕府を倒すまでの大きなうねりにはなりませんでした
☆幕府に対してボディブローを与えるためには、相当効果があった
*討幕に尽力したという意味では、護良親王は大功労者だった
⛳鎌倉幕府を滅亡させたのは、新田義貞でない
☆隠岐にいる間は、後醍醐天皇は何もできない
⛳鎌倉幕府を滅亡させたのは、新田義貞でない
☆隠岐にいる間は、後醍醐天皇は何もできない
☆後醍醐天皇は、イカ釣り船に乗って隠岐島を脱出
☆帰ってきた後醍醐天皇、鳥取の大山寺というお寺を目指す
☆帰ってきた後醍醐天皇、鳥取の大山寺というお寺を目指す
*寺に立てこもり、「幕府を倒せ」と命令を出し続けた
☆鎌倉幕府を倒す上で、大きな役割を担ったのは足利高氏
*船上山にいた後醍醐天皇の再三の呼びかけに応じて
☆鎌倉幕府を倒す上で、大きな役割を担ったのは足利高氏
*船上山にいた後醍醐天皇の再三の呼びかけに応じて
*高氏は「幕府を倒そう」と決意する
☆関東で、畿内で。多くの武士たちが動いた結果
*わずか一カ月後に鎌倉幕府は潰れてしまいました
*鎌倉幕府を倒す一連の戦いの中心にいたのは、足利高氏だった
☆新田義貞が、鎌倉幕府を滅亡させた人物だと思われることもある
*鎌倉幕府を倒す一連の戦いの中心にいたのは、足利高氏だった
☆新田義貞が、鎌倉幕府を滅亡させた人物だと思われることもある
*彼は戦いの現地責任者ではありましたが
*その背後で武士たちに命令を下していたのはあくまで高氏です
☆現在の定説は
☆現在の定説は
*後醍醐天皇の命令を受けた新田義貞が、鎌倉幕府に攻め込み
*倒幕を果たしたという認識が強いです
*それでは鎌倉攻めの実態が、ぼかされてしまいます
⛳「皇国史観」で祀り上げられた後醍醐天皇の「建武の新政」
☆実際は、足利高氏の動きで鎌倉幕府は倒れた
☆実際は、足利高氏の動きで鎌倉幕府は倒れた
*高氏よりも後醍醐天皇の存在を評価する研究者が多い
*戦前の皇国史観が大きく関わっている
☆富国強兵を掲げ、自国を欧米諸国に並び立つ大国とするため
*明治政府の「日本は天皇を頂点とした神の国」の歴史観
*後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも一段上の神様のように崇められた
*戦後になっても、後醍醐天皇の威光は変わらず
☆皇国史観に基づいた日本史
*大化の改新で蘇我氏が減ぼされ、天皇による政治が始まる
*その後、武士の登場で、天皇や貴族の力は、右肩下がりになる
*そこに後醍醐天皇というヒーローが現れた
*そこに後醍醐天皇というヒーローが現れた
*武士たちが作った鎌倉幕府を倒して建武政権を作り、武士は倒れる
*建武の新政は素晴らしいものだった
*教養ない武士たちにはその有難みがわからなかった
*足利尊氏を中心とする武士たち後醍醐天皇に反旗を翻し
*建武の中興をダメにしてしまった
☆皇国史観に基づいた歴史観
*天皇の権威がV字回復していく様子を描いた物語のようなもの
*戦前はこうした歴史観が一般的だった
☆足利尊氏は、天皇の政治をダメにした一番の悪者だと考えられていた
(敬称略)
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⛳出典、NHK『日本史の論点』
鎌倉幕府を倒したのは、後醍醐天皇か(2)
(ネットより画像引用)
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