麒麟琳記〜敏腕Pの日々のつぶやき改題

還暦手前の身の回りのこまごま。
スポーツや映画演劇など。

二番の犠打モシクハ中盤の底

2018年05月27日 | 身辺雑記

齢五十を超した世代にとっての、
野球の入門書に書いてあったのは
「打順において、一番打者は俊足、
二番はバントなど小細工が得意、
三番は強打者で打率が高く……」
てな具合で綴られていた。

今や二番に長距離砲を置いたり、
繋ぎに秀でた打者を四番に充てる、
などバリエーションが豊富である。

サッカーにおいても同様で、
かなり古い教則本の中盤は三人。
レフトハーフ、センターハーフ、
ライトハーフがフラットに並んだ。
勿論流動的な競技なので変化するが、
基本陣型という点で……。

やがて四人で四角く並ぶボックス、
菱形を組むダイヤモンドの時代に。
その一番後方で後衛の前に位置する
「中盤の底」、今風に言えば
ボランチが生まれた。

時代により移り変わるスタイル。
一方、主流は変わっても頑なに
まんまを貫くものもいる。
と。ここで唐突に「演劇」の話に。

昔の芝居は長かった。
人の気も今ほどは急いてなく、
呑気だったこともあるが、
何より技術的にそーならざを得ず。

例えば、舞台美術に関して。
固定は釘を打ち、移動の際は抜く。
そのセット自体重く頑丈で、
動かす時間もかなり要した。
新たな軽く丈夫な素材で造り、
金具材での固定脱着が可能になり、
時間は一気に短縮された。

舞台芸術特有の「暗転」。
真っ暗になり、明かりがついたら
まるで違う場面になっている!
という「魔法」についても、
近年は使わないのがクール。
中には。
開演前に役者が何となく出てきて、
一例だが、縫い物を黙々と始め…、
やがて客電は落ちるけれど
そこに暗転は噛まさず本編に入り、
物語の場面は変わるが暗転はせず
とうとう終幕で初めて真っ暗。
てな演劇もなくはないのだ。

《頑なにまんまを貫くものもいる》
と数行前に書いたが、80年代の
小劇場演劇最盛期を知る作演出の
芝居をつい最近観たけれど、
惜しげもなく暗転はしたし、
恥ずかしげもなくロスコを炊き、
(あ、舞台に使う煙のことです)
その白い霧の中に役者が消える。
とゆー、
我々世代には涙ちょちょ切れ
(この「涙ちょちょ切れ」が
古くて今や死語なんだろうか?)
の演出を堪能したのは、そうそう
花園神社のお祭りの時期でした。



暗転での転換を嫌い、歌やダンスの
どさくさに紛れて場面を変えるのも
小劇場全盛期の定番のひとつだ。

そんな頃、新劇は「若いのが、
なんか楽しそうにやってますな~」
と、しんねりむっつりの台詞劇の
伝統に立脚した演劇を続けていて、
全盛期世代よりさらに下の層は
「あれも、もー古いよね」と
新たなスタイル確立に着手。

そんな世代格差も、大きな大きな
「演劇史」の中では一刹那だ。
変わらないのは「祝祭」という事。

演劇はお祭りなのだと、
『首のないカマキリ』の本番中、
かつ、
『女の平和』の小屋入り前日に
改めて思う。
あと『iaku作品集』楽日前日でも
あったりするな、、、。

コメント
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