たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

子供の頃の正月の記憶あれこれ

2023年01月03日 10時11分25秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

(当時の近所の風景)

昭和20年代から30年代前半、M男は、北陸の山村で小学生、中学生だった。
戦後10年近くが経ち、すでに、表日本(当時はそう呼ばれていた)では大都市部を中心に、目覚しい発展を遂げていたが、裏日本(当時はそう呼ばれていた)の、特に山間農村部では、まだまだ 貧しく粗末な暮らしが続いていたように思う。

11月下旬頃から日本海を渡ってくる冷たい季節風が、容赦なく日本列島の背骨にぶち当たり、大雪をもたらす北陸地方、冬季は、ほとんど快晴の日が続くこと等もなく、専ら、雪との格闘で、明け暮れたものだったが、その冬季の気候が、経済格差、生活格差をもたらしていた要因でもあったのだと思う。


◯雪に埋もれた暮らし
車社会以前の話である。暮していた集落は、交通の便が悪く、現在のような除雪車両も無く、根雪になってしまうと、雪の上をかんじきで踏み固めた1本の道を辿って登校、通勤するような地域だった。正月を迎えても、寺社に初詣はおろか、家族でどこかへ出掛けよう等ということは、皆無であり、M男達にとって、正月三ヶ日は、もっぱらおとなしく、家の中で過すものだと思っていたものだ。
それでも、子供たちにとっては、正月は特別、待ち遠しいものだった。年末には、家族総出で餅つきをし、まゆ玉の飾り付けをし、神棚に榊を上げ、すっかり正月の準備整えた大晦日、正月は、家族揃って掘り炬燵に入り、農協に注文し届けられた木の箱を開け、小さくてすっぱいミカンを喜んで食べ、カルタ取り等で遊んだ。ただ、雪深い地域故、「年末に大掃除・・、」は、無かったような気がしている。

数年前に実家を解体する直前、
財物整理廃棄処分中に物置で見付けたみかん箱、
懐かしさの余り、写真を撮っていた。

茶箪笥の上に鎮座?していた中古の真空管ラジオから、雑音混じりで聴こえてくる年末年始特別番組を、家族で耳を傾けていたものだ。 


◯「繭玉飾り(まゆ玉飾り)」
(子供の頃、意味も分からず「まいだま」と呼んでいたような気もするが)
当時のほとんどの農家の茶の間や座敷は、10畳、16畳・・・等と広く、年末に1.5m、2m・・もあろう木の枝を、天井、柱、梁等にくくりつけ、「繭玉飾り」を設え、正月気分を味わっていたが、「繭玉飾り」も、1月15日、小正月が過ぎると、とり外し、正月気分を一掃していたような気がする。年末の餅つきの際、長く伸ばした餅に、箸4本を埋め、梅の花の形にした「鏡花?」も枝に刺していたが、干からびて、囲炉裏や風呂釜の煙で煤け、ほとんど食べれなかったような気がする。

(ネットから拝借繭玉飾りの画像)


◯「神棚」と「榊」
年末、父親に指示され、積雪の裏山に分け入り、「神棚」に供える「榊」の小枝を切り取ってくる仕事は、中学生の頃、M男の役割になっていた。年末に積雪したりすると、榊が有る場所までラッセルし、スコップで掘り出して、枝ぶりや葉の艶が良いものを選んで鎌で切り取り、引き上げたような気がする。特別、信心深い父親ではなかったが、正月には、必ず神棚を清め、新しい「御札」を納め、「榊」「鏡餅」「お神酒」を供え、元日には、畏まって、神棚に向かい、柏手(かしわで)、拝礼していた姿が思い出される。寺社に「初詣」する習慣が無かったM男の家だったが、その情景で、正月を迎えたことを実感した気がする。そんな、「榊」も「鏡餅」も「お神酒」も、1月15日、小正月には、片付けられ、平生の暮らしに戻ったのだと思う。元日の朝、父親が、普段見せない真剣な顔つきで「神棚」に向かって、柏手を打ち、拝礼する姿を見て、身が引き締ったものだった。三ヶ日、父親は、親戚縁者に新年の挨拶回りに出掛けたりしたが、M男等子供には、三ヶ日だけは、近所の子供の家にも遊びに行くことを禁じられたような気がする。


◯「小倉百人一首カルタ取り」
父親が挨拶回りから帰ってくると、待ってましたとばかり始めたのは、家族全員でする「百人一首カルタ取り」だった。母親が好きだったことから、M男達子供もやるようになったのだろうと思うが、1対1の対戦ではなく、ランダムにばら撒いた「取り札」を、囲んだ数人で取り合う遊びである。


読み手は、必ず、父親だったが、百人一首独特の読み方は、父親にしか出来なかったからかも知れない。M男と弟が連合軍で、母親と競ったが、負けず嫌いの母親は、子供にまったく手加減せず、バシバシ取って得意顔していたような気がする。
当時、8畳の茶の間には「囲炉裏(いろり)」が有り、冬季間は、その「囲炉裏」は、「炭火の堀り炬燵」になっていたが、カルタ取り等やる時は、全員炬燵から出て、寒々しい畳の上でやることになっていた。
茶の間の隅には、大きな「薬缶(やかん)」をのせた、やはり、炭火の「火鉢」がひとつ置かれていたが、部屋全体が暖まるというものではなく、冷たく悴む手先に息を吹き掛けながら、皆、夢中になっていたものだ。
外は雪、閉ざされた正月、子供達の遊びといったら、百人一首 カルタ取り、坊主めくり、いろはカルタ取り、双六、家族合わせ、福笑い、トランプババ抜き・・位しか、無かったような気がする。
小倉百人一首が、江戸時代初期から、カルタとして正月等の遊びになった等、当時は知る由も無く ただただ、子供の遊びとしか思っていなかったが、毎年繰り返している内に 小学生、中学生のM男でも少しずつ覚えて、得意な歌がいくつか出来ていたように思う。

  「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂いぬるかな」
  「淡路島 かよふ千鳥の鳴く聲に いく夜ねざめぬ すまの関守」
  「田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
  「天津風 雲の通路ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
等々。


◯「書き初め」

       振り返り記事 2012年12月8日「書き初め」 ⇨ こちら


わずか60年~70年前の話であるが、遠い昔話となってしまった。

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コケ採り(再)

2022年12月29日 14時44分07秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、もう7年も前、2015年10月23日に、ブログ・カテゴリー「M男のあの日あの頃」に書き込んでいた記事、「コケ採り」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクしてみた。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


振り返り記事
7年前、2015年10月23日
「コケ採り」(再)

昭和20年代から昭和30年半ばまで、M男は、北陸の山村で、幼少期を過ごした。
当時、M男の家にも、僅かばかりの田畑が有って、毎年、秋の一時期は、稲刈り、ハサ掛け、脱穀、そして、農協倉庫への供出米運搬作業まで、「猫の手も借りたい」一時期が有り、家族総出でやっていた時代だった。
一連の農作業が、終わりに近づく頃、村落では、まだ「若い衆」の部類だったと思う父親が、父親の兄弟や友人と示し合わせて、かなり遠方の山奥まで、「コケ採り」に出掛けていたことを思い出した。
「コケ」とは、「キノコ」のことであるが、当時、その土地では、「キノコ」等と言う人はいなかったように思う。そんな環境で育ったため、M男は、かなり後年まで、「キノコ」のことを、「コケ」と思い込んでいて、山歩きの途中等でも、思わず、「コケが、有るぞ!」等と、言ってしまう位だった。最近になって知ったことだが、どうも、「キノコ」のことを、「コケ」と言う地方は、他にも有るようで、あながち凹むこともなさそうなのだが・・・・。

父親の「コケ採り」の話に戻るが、当時はまだ、村落でマイカー等を所有している家等、皆無だったので、汽車やバスで移動、駅やバス停からは、山登り同然、山に分け入ったのだろうと思う。
父親達が、どのあたりの山に出掛けたのか等、話をしているのを聞いたことがなく、話しても分からないと思って話さなかったのか、もしかしたら、仲間内だけの秘密にしておきたい、「キノコ」が良く採れる場所が有って、出来るだけ漏らしたくなかったのかも知れない。
とにかく、朝暗い内に出掛け、夜遅くなって、帰ってきたような気がする。

採った「キノコ」をギッシリ詰め込んだキスリングザックを、板の間におろすやいなや、父親は、あたかも収穫を自慢するが如し、板の間にぶちまけていたような気がする。瞬間、「キノコ」特有の異様な臭いが家中に充満したものだった。
すばやく、処理しないと痛むのかどうか分からなかったが、まったなし、その選別作業は、家族全員の仕事となり、子供達も手伝わされた。
中には、怪しげな「キノコ」も混ざっており、「これは、大丈夫」、「それは、ダメ」等と声を掛け合いながらの夜なべ仕事である。

食べ物の好き嫌い激しい子供だったM男にとっては、「キノコ」のヌメッとした感触と、独特な匂いが大嫌いで、秋の味覚の代表とも言える、「キノコ」であっても、当時は、有難くもないもので、いやいや手伝っていたような気がする。

シメジ、シイタケ、ナメタケ、ヒラダケ、シバダケ・・・・、「キノコ」の種類は多く、なかなか名前を覚えられなかったし、有毒な「キノコ」の存在も教えられたように思うが、真剣で無かった分、自信を持って見分けることが出来ないまま、今日に至っている。

あれから数十年の歳月が流れてしまったが、最近になってからのこと、中学の同級生で、地元に就職し定年退職を迎えたK氏が、やはり、「コケ採り」が趣味で、毎年、この時期、山に分け入っているらしく、宅急便で、どっさり「キノコ」を送ってきてくれたこともあった。
そんなことから、すっかり忘れていた、父親の「コケ取り」のことを思い出してしまった分けだが、K氏が、一所懸命、「キノコ」を選別している情景を想像してしまい あの日あの頃の我が家の夜なべ仕事の情景がダブって、しみじみしたものである。 
故郷は、ありがたきかな・・・、である。

(ネットから拝借画像)

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セナコウチ? (再)

2022年11月05日 09時35分12秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、10年前の2012年11月24日、gooブログに引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んでいた記事、「セナコウチ?」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」、早速、コピペ、リメイク(再編集)することにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


「セナコウチ?」

長年、空き家になっていた北陸の山村の実家を取り壊したのも、未だに、つい最近のことという気がしている爺さんだが、指折り数えて見ると、もう10年前のことになってしまった。
「光陰矢の如し」・・、だ。
実家の取り壊し、解体工事実施前の数年間は、家財や農機具等の分別整理、廃棄処分作業のため、年に数回は通ったものだったが、毎度のこと、子供の頃に馴染んだ懐かしい物が続々と出てきて、その都度、「おお!、懐かしい!」を連発、処分する前に写真を撮ったりしたものだった。ある日、作納屋(さくなや)を片付けていた際に出てきた、「セナコウチ?」も、その一つ。たしか、子供の頃、「セナコウチ?」と呼んでいたような気がする物だったが、記憶曖昧・・。

昭和20年代、30年代、まだまだ貧しかった地方の農村では、男の子で、小学校高学年、中学生、高校生ともなれば、一人前の男衆として、農作業を手伝うくらい当たり前だった。M男も、弱弱しい体質ではあったが、田植え、稲刈り、畑仕事、芝刈り、薪木運搬、等々、良く手伝ったものだ。
その「セナコウチ?」とは、重い物を背負う時に、縄が肩や背中にくいこむ痛さを和らげるための装具で、「背中当て」とでも言うべきものだった。M男も、実際、これを背中に付け、刈り取ったばかりの重い稲の束を背負い、稲架場(はさば)まで運んだり、裏山で伐採された雑木等を薪(たきぎ)にするため、背負って山道まで担ぎ下ろす仕事をしたことが有る。縄が食い込む痛さを和らげるとは言っても、子供の肩や背中には、この「セナコウチ?」自体が痛く、顔をしかめながら、歯を食いしばり、何回も何回も往復した記憶が有り、今でもその辛さを忘れることはない。多分、今日では、各地の民俗資料館等に展示されているような類の農村の装具となってしまっていると思われるが、出てきた「セナコウチ?」、カビがはえていたものの、まだ、しっかりしていたが、実家取り壊しと同時に廃棄処分した。
当時はまだ、冬期、雪に閉じ込められた山村の農家では、冬の仕事として、稲を脱穀した後のをトンテンカン、トンテンカン、叩いてやわらかくし、俵(たわら)や筵(むしろ)、藁草履(わらぞうり)、藁靴(わらぐつ)、セナコウチ?、等を、手間暇掛けて手作りする暮らしが有ったのだった。
ちなみに、新潟県の佐渡では、「セナコウジ」と呼ばれていたそうで、同じ北陸地方なので、記憶曖昧な「セナコウチ?」も、あながち見当違いの呼び方ではなさそうである。

実家の作納屋に有った「セナコウチ?」

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振り返り記事・「古い仏壇」

2022年10月07日 10時15分45秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

相互フォロワー登録している方のブログを拝見していて、ふっと11年前2011年5月21日に、解体工事直前の北陸の実家で行った「閉扉法要」のことを思い出し、懐かしくなってしまい、「ブログ内検索」してみたところ、なんと、ブログ開設日の翌日、2011年5月30日に、そのことを書き込んでいることが分かった。
「そうか、あれから、もう11年が過ぎ去ってしまったのか」、
一昔前の話となり、感慨無量、そのまま、コピペしてみた。


振り返り記事
2011年5月30日 「古い仏壇」

北陸の実家は、3年前から空き家になっています。終戦直後に建てられた木造家屋は、ボロボロで まさに廃屋の様相です。廃屋であれ、解体工事をしないことには、近所隣りに心配や迷惑を掛けることになるため、気が気でありません。なかなか、解体工事実施の決断が出来ずにきましたが、先日、やっと、先ず、仏壇の処分のために、行ってきました。

仏壇は、他の家財家具と異なるもの、粗大ゴミ、廃棄物として、処理出来るものではないとされ、ちゃんと処分するよう、解体業者から、念を押されていました。

前もって、浄土真宗の菩提寺にお願いと打ち合わせをしておき、当日、住職を迎え、仏壇を処分する前に行う法事、「閉扉法要(へいひほうよう)」を、行ってもらいました。

仏事法事に疎い人間ですが、生まれて初めて、仏壇と仏壇周りを念入りに掃除し、生花を飾り、「お華束」(おげそく)(和菓子)を供えて、緊張して住職を迎えました。 

約30分の読経が終わり、住職が、「ご本尊」(阿弥陀如来絵像、親鸞上人絵像、蓮如上人絵像)を仏壇から取り出して、法要は終了です。「ご本尊」は、住職にお寺に持ち帰ってもらい、「お焚き上げ」供養処分をしてもらうものです。

「閉扉法要」の「お布施」については、諸説有り、迷うところでしたが、「気持だけ」ということで、2万円とさせてもらいました。

法要終了後、直ぐ、あらかじめ連絡をしておいた、近くの仏壇仏具店に、仏壇仏具を持ち込み、 「お焚き上げ」供養処分の依頼をしました。持ち込みの場合、引き取り料は不要。処分手数料は、 仏壇の大きさによって異なるようですが、2万円の支払いとなりました。

日頃、仏教とは、ほとんど関わりない暮らしをしている人間にとっても、一通りの仏事法事を執り行ったことで、安堵し、穏やかな気持ちになって帰って来れました。


(追補)

ブログ開設当初は、ブログに写真をアップすることも出来なかったものだが、その日の写真が外付けHDに残って折り、引っ張り出してみた。
座敷の床の間の横の仏壇、子供の頃からずっと馴染んでいた仏壇、すでにかなり朽ちてもいたが、見納めに撮った写真だ。


 

 

 

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「村」が「市」になった日の記憶

2022年10月06日 13時38分56秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

昭和20年代から30年代後半、幼少期を北陸の山村で過ごしたM男である。
その頃の記憶は、すでにほとんどは喪失しているが、ただ、なにかのきっかけで、ふっと、断片的な記憶が炙り出されてくることが有るから、不思議なことだと思っている。

古いアルバムに、当時、毎年、学年進級する毎に撮っていた集合写真が貼って有るが、M男が小学校5年生の時の集合写真を見ていて思い出した。
その年(昭和29年)の6月1日に、M男の暮らしていた「O村」が、隣の町等と合併して、「I市」となったことだ。
M男達にとっては、学校の門標が、「O村立」から「I市立」に変わったなくらいにしか感じられらい出来事であったと思うが、当時の井の中の蛙の山村の子供達の頭の中では、「市」というと、「都市」、「都会」のイメージが有って、こんな、田んぼと山ばかりの村が、「市」等と呼ばれることには、大いなる違和感もあった気がする。多分、全国的な町村合併推進の流れで、地元町村もそれに乗ったのだと思われるが、それまで、隣りの町の人達のことを、「町の衆」と呼び、一種へりくだっていた「村の衆」が、いきなり、同じ「市民」と呼ばれることが、なんとも面映ゆくも感じ、一方では、まんざらでもない気もしたものだった。
その当日だったかその前後だったかは思い出せないが、祝賀行事の一環だったのだろうか、小中学校の生徒児童全員が(とは言っても、全員で250人程度だったが)、日の丸の小旗を持たされ 暑い中を、集落の隅から隅までを一周するパレードをしたような気がする。パレードと言っても、学校には、鼓笛や吹奏の楽器も全く無い時代、放送車も無く、ただただ、日の丸の小旗を振りながら、ぞろぞろ歩いただけだったと思うが、その山村にしたら歴史的な日だったということなのだろう。
まだまだ、大都市と地方の農村部との格差は大きく、中学卒業と同時に、大半が、関東園、関西園、中京園等へ集団就職する時代になりつつあった頃の話である。
その後、何度かの市町村合併が為され、「村」を探す方が難しい程になり、「平成の大合併」後等では、子供の頃の日本地図が全く役に立たない程に、行政区画が変わってしまっている。隔世の感有りだ。

(ネットから拝借イラスト)

童謡「ふるさと」 (YouTubeから共有)

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「中学生日記より」その62

2022年09月12日 18時22分36秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

 


「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その62 「稲刈りと夜なべ仕事」

昭和30年(1955年)9月25日、日曜日、天気 晴、
起床 6時30分、

1、昼前(午前中)、川原の稲刈り(の手伝い)
2、昼から(午後は)、(稲を稲架(はさ)に)かけて(掛けて)、ほとんど遊び、
3、新聞体み(休み)、
4、上刈に、軽い火事(ボヤ)があった。
5、全部で、くり(栗)が、13つる(吊)、(出来た)

当時は、9月下旬が、稲刈り最盛期だったようだ。毎日、学校から帰ると、直ぐ稲刈りの手伝いをしていたが、この日は、日曜日。父親も勤めは休みで、母親と3人で、午前中、家から歩いて15~20分の川沿いに有った田んぼの稲刈りだったようだ。もちろん稲刈り機等無く、1株づつ、稲刈り鎌で刈る作業で、毎日、母親と、少しずつ熟していたが、全部終わらせたのだと思う。
午後、運んだ稲を稲架(はさ)に掛けた後は、手伝いから解放されたようで、「ほとんど遊び」と書いてある。
この日も、野良仕事には、一切、手を貸さなかった祖父が、裏山から大量の山栗を拾ってきたようで、大鍋で茹でて、綿糸で繋ぐ、夜なべ仕事が有ったようだ。全部で、13吊、出来たと書いてある。吊るしにした栗は、軒下等にぶら下げて乾燥させ、石のようにカチカチになった栗は、正月等に、コタツで、子供達のおやつになったものだった。今では信じられないが、カリポリ、カリポリ、よくも食べられたものだと思う。

(追記)
ネットから拝借、「干し栗」の画像、
懐かしい情景

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三角乗り(再)

2022年08月29日 10時33分43秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
先日、10年も前、gooブログに引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んでいた記事「三角乗り」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」、早速、コピペ、リメイク(再編集)することにした。
そんな古い記事をクリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


「三角乗り」(再)

昭和20年代後半から30年代前半頃、北陸の山村で、M男が小学4年から6年頃の話であるが、一時、自転車の「三角乗り」に夢中になって挑戦していた時期があった。終戦後10年程経っても、農村部の貧しい暮らしは相変わらずだったが、ちらほら、自転車を保有する家が出始めていた頃だった。

自転車と言っても、今のような、軽量で乗り心地の良い作りではなく、後部には、大きな荷台が付き、鉄厚、重いフレーム、コールタールを塗ったようなゴッツイ作りの自転車がほとんどで 主として、通勤通学用というより、むしろ荷物の運搬が目的だったようなものだった。しかも、なかなか新車購入とはいかず、自転車店で販売していたポンコツに近い中古自転車が多かったと思う。おそらく、都市部で用無しになったものが、格差のあった地方に流れてきて、出回っていたのだと思われる。当然、子供用の自転車等有るはずもなく、子供達は、そんな大人用のデカい自転車に何とかして乗ろうと、必死に挑戦していたのだが、その方法が「三角乗り」」だった。

M男の家でも、ある時、父親が、中古の自転車を手に入れたが、多分、勤務先の印刷店の口利きで 同じ商店会の自転車屋から、安く買ったのだと思われる。昼間、自転車の有る家の子供達は、いち早く、自転車に乗れるようになり誇らしげにしていたが、自転車を父親が通勤に使っていたM男の家には、昼間自転車は無く、遅れをとっていたM男は、毎日イライラしていたように思う。一刻でも早く、自転車に乗りたくて仕方なかったM男は、夕方、父親の帰ってくる時間帯には、国道から 家に向かってくる農道の途中まで行って待ちかまえ、奪うようにして借りて乗ったものだった。三角フレーム、サドルの調節も出来ない大人用自転車とて、小学生がまたがってペダルをこぐことは不可能。乗り方は、三角フレームの間に、右足をくの字に曲げて突っ込み、右のペダルを踏み、自転車をやや右に傾けて、体で微妙なバランスをとりながらこぐという、なんとも不安定な、危なっかしい乗り方で、それを、「三角乗り」と呼んでいたのだ。

当時の農道は、もちろん舗装も無し、リヤカーの轍有り、雑草の盛り上がり有り、石ころ有り、凸凹、軟弱な道。倒れた自転車を起こすのもやっとの子供にとっては、四苦八苦の連続。倒したり ぶつけたり。父親にとって、大事な通勤用の「マイカー」。ヒヤヒヤしていたに違いない。実際 あちこち壊して修理に出すはめになったこともあったような気がする。M男自身も、打撲、擦り傷、切り傷、あざが絶えなかったが、当時の大人達は、だから「やめろ」と言わなかったような気がする。家に戻り、赤チン軟膏を塗って、「治療終了」。多少の怪我で大騒ぎするような時代ではなかったのだ。
「三角乗り」で連続して長い距離を走れる訳はなかったが、ほんの10数メートルでも、走れた瞬間は嬉しくて仕方なかったものだ。
発育盛りとて背丈はどんどん伸び、やがてサドルにまたがって、なんとかペダルに足が触れるようになると、今度は、腰、尻を大きくシーソーさせて、こぐ乗り方に変化。この乗り方であっても 悪路を走るとなるとハンドルがくねくねし、かなり危なっかしい。しかし、曲りなりにも大人の自転車に乗れたという喜びで有頂天だったものだ。

(ネットから拝借したイラスト)
「三角乗り」

M男が中学生となった年、どんなやり取りが有ったかの記憶にないが、M男は、通学用に新しい自転車を買ってもらった。両親にしたら、かなり無理をした買い物だったに違いないが、M男の家が 学校から最も遠い集落に有り、学校側が特別自転車通学を認めてくれたといういきさつもあったのだと思う。かくして、M男は、3年間、相変わらず凸凹で、軟弱な農道を自転車で通学することになったのだった。当時、中学校のほとんどの生徒の通学用履物は、何故か、駒下駄(こまげた)、あるいは、足駄(あしだ)(高下駄)だった。M男も右へ倣えで、駒下駄、足駄で通ったものだが 雨の日には、今は禁止になっている、左手に傘を差し、右手でハンドルだった。しかも、滑りやすい下駄を履いて、泥んこ道を悪戦苦闘、まったく危険極まりない自転車通学をしていたことになる。しかし、それが当たり前だと思っており、禁止もされず、平気な時代だったのである。
わずか60年、70年前の話だが、遠い昔話、隔世の感有りである。

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「中学生日記より」その61

2022年08月25日 14時46分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記帳のことで 数年前に実家を解体する際に発見した、ボロボロのゴミ同然の日記帳のことだ。土産物の小綺麗な空き箱や包装紙、冠婚葬祭ののし袋に至るまで 廃棄処分するという感覚が全く無かった父母が、子供達の教科書やノート、通信簿、図画工作作品等も押し入れの奥に詰め込んでいたもので、その中に有った。まさに「タイムカプセル」を開けるが如くの感じで、ページを捲ってみると、すっかり喪失してしまっていた記憶が、断片的に炙り出されてくる。まさか 60数年後に、ブログで第三者の目に晒される等とは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その61 「南極観測船宗谷氷から脱出ニュース」

昭和32年(1957年)3月2日、土曜日、天気 雪

学期末考査最終日
1、保体、割に(割りと)やさしいようだったが?
2、音楽、中学生一斉に、
  どちらも思ったより(予想したより)やさしかった。

暴風のため動けなかった宗谷(が)助かった。
ソ連砕氷船オビ号は、米グレーシャー号より先に宗谷を助けた。
グレ-シャー号は、引き返した。宗谷とオビ号は、手旗信号で感激感激の心を伝えあったという。何十日も氷に閉じ込められた宗谷の乗組員は、どんなにうれしかったろう。

3学期の学期末テストの最終日だったようだ。この日は、「保健体育」と「音楽」の2科目、主要科目ではなかったが、苦手科目だったこともあり、予想していたよりやさしい問題で、ホッとした様子だ。

天気は、「雪」だったようで、3月2日、春まだ遠い北陸の山村だった。

すっかり、記憶からは喪失していたことだが、この日、南極観測船宗谷が、閉じ込められていた氷から、ソ連の砕氷船オビ号により助けられたようだ。今更になって、ネットで調べてみると、この年の2月、第一次南極観測船宗谷が、オングル島への昭和基地建設の物資輸送を終えて、南極を離れた直後に氷に閉ざされてしまい身動き出来なくなり、氷の中で越冬を覚悟したようだが、ソ連の砕氷船オビ号が駆け付け氷を割り、宗谷が救出されたという日だったのだ。
当時は、テレビも無かった時代、刻々伝わるラジオのニュースに耳傾け、1日遅れの新聞を読み、南極海の情景や宗谷の緊急事態を想像しながら、ハラハラドキドキしていたのかも知れない。
第一次南極観測隊の物語は、後年になってから、映像や記録を何度となく目にしたものだったが、それが、「中学生の頃のことだったのか・・」、と、つくづく思う。


(追記)

相互フォロワー登録している「電網郊外散歩道」narkejp様よりコメントをいただき、「宗谷」に関連した記事を、ご紹介しただきましたので、リンクさせていただくことにしたこちら


 

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遠い記憶のお盆(再)

2022年08月14日 17時21分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男が、小学生中学生の頃、昭和20年代から30年代北陸の山村のお盆の話である。
お盆の過ごし方、習わしについては、地方により、宗派により、各種様々であり、時代と共に、随分と変化もしてきていると思われるが、M男にとっては、未だに幼少期のお盆の記憶が、原風景となって脳裏に焼き付いている。

毎年、8月13日の夕暮れ時、集落のそれぞれの家では、蝋燭に火を灯したカラフルな小さな手提げ提灯「盆提灯」をぶら下げて、三々五々、それぞれの家の墓に向かう習慣があった。もちろん、寺院や大型の墓地等ではなく、集落内に点在していた墓であったが、日中でなかったのは、猛暑を避ける意味も有ったのかも知れない。「お盆のお墓参り」である。

ネットから拝借画像 手提げ盆提灯


当時の農村では、家族そろって外出する等ということは滅多にないことであり、子供達は、興奮し 走り回りはしゃぐ声が、薄暗くなって、静かな山道や農道のあちこちから、聞こえてきた。外路灯等、全く無かった時代、遠く近く、「盆提灯」の灯が、行き来する風景は、子供ながらも幻想的に見えたような気がする。
墓や仏壇に供える花は決まっており、田の畦や水路で自生し、ちょうどお盆の頃に咲く、当時、「盆花(ぼんばな)」と呼んでいて花だった。つい最近になって、その花名が、「ミソハギ(禊萩)」であることを知り、「へー!、そうだったの」・・・・、目から鱗・・・になったものだ。

一般的に、「お盆」と言えば、13日に、玄関先等で「迎え火」を焚いて先祖の霊を迎え、14日、15日は、お供物を供えて供養し、16日には、「送り火」を焚いて、先祖の霊を送り出すという習わしが多いようだが、M男の暮らした北陸の山村では、浄土真宗の家が多く、後年になって知ったことであるが、浄土真宗では、お盆に先祖の霊が帰ってくると考えないことから、「迎え火」「送り火」等を行う習わしは無く、お盆に僧侶を迎えお経を読んでもらったり、飲食供養するという習わしも無かったようだった。
村落のほとんどの家が、年中無休のような農家だったが、お盆は特別で、お盆前に農作業等を一段落させ、村落全体が完全休日となり、大人達もゆっくり過ごしていたように思う。ただ、お盆だからといって、特別なイベント等もなく、来客が多いということもなく、全体的に静かだったような気がする。

成人してから知ったことであるが、「お盆」とは、もともと、梵語(サンスクリット語)の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の省略形「盆」からきているのだそうだ。「盂蘭盆会」は、先祖を供養するため、夏に行われる仏事で、日本では、平安時代から鎌倉時代に定着し、江戸時代に入ってから、庶民の間でも盛んになったのだという。「盆礼」と言って、親戚や知人に進物を贈答する習慣も 一般的となり、それが、今日の「お中元」に繋がっている等とも言われている。

お盆の由来等について、浄土真宗関係のサイトから、一部、引用させていただいた。
(1)お釈迦様の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人がいた。
(2)目連は、大変な神通力が有り、孝心の深い人だった。
(3)目連が、神通力をもって、三世を観ると、亡き母親が餓鬼道に堕ち、苦しんでいることが分かった。
(4)目連は、嘆き悲しみ、鉢で飯を母親に捧げたが、母親が食べようとすると、飯は燃え上がり どうしても食べることが出来なかった。
(5)目連は、どうしたら母親を救うことが出来るかお釈迦様に尋ねた。
(6)目連は、お釈迦様から、「7月15日に、飯、百味、五果等 珍味を、十方の大徳衆僧に供養すれば、布施の功徳が大きいので、母親は餓鬼の苦難から免れるであろう」と教導された。
(7)目連は、お釋迦様の教導に従ったところ、母親は、たちまち天上界に浮かぶことが出来た。
(8)目連は、喜びのあまり、踊った。それが、「盆踊り」の始まりだという説もある。

「盂蘭盆会」は、上記、目連の故事から、先祖供養の日となって、今日の「お盆」に続いていると言われている。

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(我が家の形ばかりのミニ仏壇)

今、墓守不在の墓が問題になっている。
他人事に非ず、我が家の場合も、どうする?、どうする?、・・・である。
戦後、50年、60年で、日本人の暮らし方、価値観が まるっきり変わってしまい、お盆の習わしの継承も難しくなっていると思われる。心のよりどころ、故郷を大切にしたいものではあるが・・・・。

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藁草履(わらぞうり)

2022年08月11日 14時33分59秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがあるが、随分前に書き込んだ古い記事で、すっかり忘れてしまっているような記事に、アクセスが有ったりする。「エッ?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、嬉し、懐かしくなってしまい、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりすることがある。
今日、10年も前、2012年6月7日に書き込んでいた記事「藁草履」にアクセスが有ったことに気が付き、「おお!、懐かしい!」、早速、コピペ、リメイク(再編集)することにした。
そんな古い記事をクリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


1949年(昭和24年)4月、M男は、北陸の山村の村立O小学校に入学した。1学年、1クラスの小さな学校で、しかも、講堂(体育館)を挟んで、村立O中学校が繋がっている、小中併設校だった。農山村のこと、転入者も転出者もほとんど無かった時代、結局、M男達同級生38人(+、-1人)は、9年間、実の兄弟よりも長い時間を、その学校で時間を共有したことになる。 

当時はまだ、集落に、写真機(カメラ)等持っている家は無く、子供の頃の写真はほとんど残っていないが、唯一、小学校1年になった直後に撮ったものと思われる集合写真が、古いアルバムに貼って有る。じっくり眺めていると、当時の暮らしの様子まで、炙り出されてくるように思う。

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着ているものといったら、上の子のお下がりだったり、仕立て直しの服だったり、みんな、粗末なかっこうをしている。M男が着ていた服も、戦前、東京で働いていた父親が着ていた洋服を、母親だか祖母だかが、仕立て直したものだったという話を、かなり後年になって知ったが、戦後間もない頃の、貧しい山村の暮らしが分かる。

足元を見ると、ほぼ全員が、素足に藁草履(わらぞうり)を履いている。農家がほとんどの村とて 脱穀した後の藁は、草履だけでなく、すんぶく(雪用履物)筵(むしろ)米俵(こめだわら)叺(かます)(もみ米を保管しておく大袋)布団(綿の代用)、そして、最終、堆肥に至るまで、とことん活用していた時代だった。

(ネットから拝借画像)

M男は、藁草履を、夜なべして黙々と作る大人達の姿を、良く目にしていて、その情景は今だに忘れない。先ず、藁を根気よく木槌でたたいてやわらかくし、長く細い縄を作り、足の大きさよりやや大きい輪状にして、4本、ぺったり座って伸ばした足の指に引っ掛け、手前で結び、編み出す。足の大きさ程度、編み上がったところで、鼻緒を編み入れ、手前に残っている尻尾のような縄を グイッと引くと先端が丸まり、草履の形になる。といった作業だった。なにしろ藁製のこと、直ぐ 壊れてしまうため、何足も何足も、作っておく必要があったのだ。

また、記憶は曖昧だが、たしか、すんぶくと呼んでいた雪用履物があった。やはり、藁で編み上げて、長靴のような形に作るのだが、よくもまあ、あんな風に作れるものだと尊敬して見ていた覚えがある。子供には、ぶかぶかだったり、足に合った形には、なかなかならないので、履き心地は あまり良くはなかったが、雪の中でのそり遊びには、必需品だった。

その他、筵(むしろ)、米俵(こめだわら)、叺(かます)等、農家では、それぞれ工夫して、自前の治具を手作りし、苦労を苦労とも考えず、終戦直後の何も無い時代、自給自足の暮らしをしていたのだ。

昭和20年代後半になると、短靴(たんぐつ)と呼ばれていた簡単なゴム製の靴や、ゴム草履が普及してきて、藁草履の姿は、急速に消えて行ったように思うが、藁草履で、よくも登校したり、遊び回っていたものよと、今更になって思う。すんぶくも、ゴム長靴が普及してきて、急速に消えて行った。

食糧事情もまだまだ悪く、動物性たんぱく等を取れる状況になかった。毎日、菜っ葉、芋類、漬物類で、栄養失調気味、皆、顔色が悪く、痩せていた。衛生状態も良くなく、校庭だか、体育館だかに、1列に並ばされ、「ハイ、次ぎっ」「ハイ 次ぎっ」と、首や腹から噴射器を突っ込まれ、DDTの白い粉を吹き掛けられたことたびたび。頭まで真っ白にされた。まるで,動物並み扱いのノミ、シラミ対策だった。他にも、胃腸に寄生する回虫を退治する薬を飲まされてこともある。すると、便と一緒にミミズのような回虫が出てくるという塩梅だった気がする。 

今からわずか70年前頃の、日本の農村の暮らしの話であるが、若者からは、「江戸時代かよ」等と突っ込みが入りそうな話である。隔世の感有り、遠い昔話になってしまったかと、自嘲するばかりである。

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