新潮文庫 昭和61年8月。
自身の体験をもう何度目かになるだろう、開高師匠の
口からきいたような錯覚に陥る。
その物語は、いつもぎりぎりのところにある自分から
語られた。そこにはいつも耳があり、耳によって触覚と
もとれる鋭敏な感覚でもって、ベトナム戦争も釣りも体験
されたようだ。戦争も釣りも闘いであるのか……平和と戦争
と対峙しているようで、極限においての経験という立脚地
にたてば、そこにはなにかしら共通点も見えてくるようで
ある。
そこには開高師匠がいて、耳があったということではないか。
たしかに、僕もそこにいたような気になってくるから、その
説得力たるや本物である。
手にやんわりと汗がにじんでいる自分が読後にいるのだった……。
自身の体験をもう何度目かになるだろう、開高師匠の
口からきいたような錯覚に陥る。
その物語は、いつもぎりぎりのところにある自分から
語られた。そこにはいつも耳があり、耳によって触覚と
もとれる鋭敏な感覚でもって、ベトナム戦争も釣りも体験
されたようだ。戦争も釣りも闘いであるのか……平和と戦争
と対峙しているようで、極限においての経験という立脚地
にたてば、そこにはなにかしら共通点も見えてくるようで
ある。
そこには開高師匠がいて、耳があったということではないか。
たしかに、僕もそこにいたような気になってくるから、その
説得力たるや本物である。
手にやんわりと汗がにじんでいる自分が読後にいるのだった……。