”武家”について考えてみる。馴染みがあると言うのは変だが知っているのは戦国時代から江戸中期徳川吉宗の時代の間だろうか。1550年から1750年ぐらいの200年間ぐらいについては興味を惹かれることも多い。その前について言えば、記録にないこともあるだろうがあまり知らない▼先日、霞間ヶ渓公園の紅葉を見に行く時に禅蔵寺を訪れた、と言うよりちょこっと寄ってみた。写真1は霞間ヶ渓公園から北へ2~3kmのところにある禅蔵寺の史跡案内である。駐車場もなく車を脇に停めて階段を上がってみる▼階段を上がるまでもなく直ぐ右側にこれがある。”土岐頼忠及び一族の墓”である。囲いがあり入れない。写真2は階段とは反対側から撮したものである。そして写真3は禅蔵寺の本堂である。美濃土岐氏は美濃土岐郡(今の土岐市、多治見市辺り)に土着していたようである。土岐頼忠は鎌倉から南北朝時代の人で美濃守護大名の兄を支え、美濃池田郡を拠点にしていたようである。室町時代の1397年に没している。土岐一族としてはその後も続いているようである。因みに家紋は桔梗で旧土岐郡地域の土岐市、多治見市及び瑞浪市の市の花になっている。▼写真4は土岐一族の墓がある禅蔵寺のある方角を示す道標である(池田町宮地)。先日、役場の人から聞いた話では同じようなものが赤坂にもあるとのことである。当時の禅蔵寺の隆盛を思わせる。
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