映画と本の『たんぽぽ館』

映画と本を味わう『たんぽぽ館』。新旧ジャンルを問わず。さて、今日は何をいただきましょうか? 

「遠い唇 北村薫自選日常の謎作品集」北村薫

2023年10月28日 | 本(その他)

先に登場した寺脇氏の周辺

 

 

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日常の謎の名手・北村薫による自選集!
表題作「遠い唇」のその後とは――?

コーヒーの香りで思い出す学生時代。
今は亡き、姉のように慕っていた先輩から届いた葉書には、
謎めいたアルファベットの羅列があった。(「遠い唇」)
など、2019年に刊行した全7篇に、
「遠い唇」の主人公・寺脇と、
『飲めば都』にも登場する女性編集者・瀬戸口まりえが
出会う場面を描いた「振り仰ぐ観音図」、
そして二人が再会し、句を介して関係が始まっていく様子を描いた
「わらいかわせみに話すなよ」の計2篇を加え、
ここに完全版として刊行!

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本巻、北村薫氏の短編集なのですが、
「遠い唇」は、2019年に同じく角川文庫で出ています。
それがなぜこの度また新刊として発売されているのか?

それは表題作「遠い唇」の主人公・寺脇と女性編集者・瀬戸口まりえが登場する話が、
2篇、本巻には加えられているためです。

「遠い唇」はちょっとドキドキするくらいにロマンチックかつ郷愁を誘うストーリー。
大学教授の寺脇が、学生時代の先輩・長内のことを思い出します。
ふと懐かしくなって古い書類を入れた箱の中から
長内先輩から来たコンパの通知のハガキを取り出す。
そしてその通知面を縁取るように、
アルファベットが暗号のように書き込まれているのに気づきます。

それを受け取った当時、寺脇は本人に「なんです、あれ?」と聞いたのですが、
長内先輩は「何でもないわ。いたずら書き」と答えた。

そしてその後間もなく、長内先輩は若くして亡くなってしまったのでした。
それっきり、忘れ去っていたことなのだけれど・・・。

数十年を経た今、寺脇はこれを暗号と見て、解き明かしてみる。
すると、思いも寄らない言葉が浮かび上がる・・・。
今となってはどうにもならない、しかも亡くなってしまった人の思い。
鮮烈で、そして切ないです。

 

というわけで、なかなか印象深いこの寺脇氏の近辺を、
著者は急に描き続けてみたくなったようです。
そして、この話は「遠い唇」と同じ本に是非とも収めたい、と。
そのことについては本巻の「付記」として詳しく書かれています。

物語の成り立ちが思い測られて、とても興味深いです。
寺脇氏とまりえさんのこれからの物語も、
またいつか読んでみたい気がします。

「遠い唇 北村薫自選日常の謎作品集」 北村薫 角川文庫

満足度★★★★★

 


「清浄島」河﨑秋子

2023年10月07日 | 本(その他)

忌まわしい病があった島

 

 

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北の海に浮かぶ美しい孤島にキツネが運んだ寄生虫「エキノコックス」。
それは「呪い」と恐れられる病を生んだ。
未知の感染症に挑む、若き研究者の闘いが始まる――

直木賞候補作『絞め殺しの樹』で注目の著者による、
果てなき暗路に希望を灯す渾身の傑作長編

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礼文等島は、北海道でも私の憧れの地、花の浮島といわれる美しい島です。

こんな島にも、忌まわしい過去があって・・・。
私も聞いたことはあったのですが、詳しくは知りませんでした。
同じ北海道の話というのに、情けない。

 

昭和29年。
1人の青年が北海道立衛生研究所から派遣されて、礼文島にやって来ます。
この島に蔓延していると思われる「エキノコックス」の調査のため。

このときすでに、エキノコックスという寄生虫が起こす病の仕組みは解明されていました。
日本ではこの礼文島だけで起こるこの病の具体的な感染経路を突き止め、
それを予防するための処置を考えることが目的なのです。

やがて多くの研究員も派遣され、大がかりな調査が行われた上で
決定された重大な決断とは・・・!?

 

以前、この島で起こった山火事で森が丸裸となり、
新たに苗木を植えたところ、それが格好の餌となって野ネズミが急増。
これではいくら苗を植えても、木は育ちません。
そこで、狐をこの島に連れてきて、野ネズミを減らすことを考える・・・。
しかし、狐は大きな災いをもこの島に呼び込んだということのようです。

エキノコックス撲滅のために思い切った策がとられた礼文島。
それは10年以上もの時をかけてようやく終息宣言に至るのですが、
しかし、その時にはまた別ルートで
道東方面でエキノコックスが広まってしまっていた・・・。

 

つまりエキノコックスを宿していた狐というのは千島列島方面からやって来たらしいのです。
毛皮をとるために、そちらから狐を連れてきて繁殖させていた例があるし、
流氷で地続きになってしまう期間があって、
そこから狐が渡ってきたことも考えられる・・・。

礼文島という小さな範囲でできた対策も、広い北海道全体ではムリ・・・。

 

かくして、現在もエキノコックスの脅威はなくなっておらず、
私は散歩でキイチゴ類の実を見つけても、
写真は撮るけれど決して口にしないと決めている次第・・・。
(持って帰って加熱してジャムなどにすればOKですけどね。)

 

・・・というようなことは、本作の物語中で徐々に語られて行きます。
主人公、土橋がどのように閉鎖的な島の人々と交流していったのか、
そしてどのように憎まれつつも任務を果たしていったのかというようなことが、語られて行きます。

 

いつもながら、河﨑秋子さんの北海道に住む人々と動物や歴史・風土を絡めた物語、
北海道人としては知っておくべきことばかり。
とても興味深く読みました。

歴史短い北海道とは言え、すでに良くも悪くも様々な歴史が積み重なって
今に至っているのだなあ・・・と、今さらながら思います。

「清浄島」河﨑秋子 双葉社

満足度★★★★☆

 


「薔薇色に染まる頃」吉永南央

2023年09月23日 | 本(その他)

お草さんが誘拐犯!?

 

 

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コーヒー豆と和食器の店「小蔵屋」を営むお草は、
愛用していた帯留を一度は売ったものの、手放したことをずっと後悔していた。
そんなある日、それが戻ってきたと連絡がくる。
さっそく東京の店に向かうお草だが、
そこで、旧知のバーの雇われ店長が血痕を残して忽然と姿を消し、
どうやら殺されたらしいという話を耳にする。

その後、お草は、新幹線の中で何者かに追われている母子に出会い、
事態は思わぬ方向へ……。

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吉永南央さんの小蔵屋シリーズ、文庫最新刊。

本作はコーヒー豆と和食器のお店を営むお草さんと
その周囲の人々の出来事を綴ったものです。
舞台は北関東の地方都市、紅雲町。
というと情緒があってほっこりの物語を想像するかも知れませんが、
これが意外とシビア。
お草さん自身、結婚には失敗し、子供を幼いうちに亡くしているという
翳りを背負いつつ、高齢の今も店を切り盛りしています。
周囲で起こる事件めいたものも、現実的でつらいことが多い。
人の悪意と向かい合いながら、でも信頼できる人々にも囲まれつつ、
毎日を過ごすお草さん。

 

さて、本作はこれまでになくシビアで、
ほとんどサスペンスかハードボイルド仕様になっております。
ここまでのものは珍しいのですが。

というのも、本作、いきなりお草さんが、
ホームグラウンドである紅雲町を離れて、東京に向かうのです。
やはりお草さんにとって、住み慣れた町は安らぎの土地。

東京はそう遠くない所なので、ときおりお草さんも用事で出かけることはありました。
そんな時に、時々顔を合わせていた人物がユージン(ハーフらしい)。
初めての出会いは彼がまだ少年の頃。
明らかに父親から虐待を受けている様子のその少年を、
お草さんは気にかけながらもどうすることもできなかった・・・。
それから時は過ぎて、ユージンはガタイのよい青年になっていますが、
裏社会のボスらしい彼の父の言いなりで生きている様子。

その彼が、どうやら何らかの事件に巻き込まれて
亡くなってしまったらしい・・・。

そのユージンから託された遺言めいた言葉に従って、ある「仕事」をしたお草さん。
そしてその後、かねての予定通り新幹線で京都へ向かうのですが、
その時、何者かに追われている母子に出会い、彼女らの手助けをすることになってしまう。

母親は列車を降りて、追っ手に刺されて倒れてしまう。
残された少年を連れて、お草さんの逃避行が始まります。
しかし、なんとお草さんが誘拐犯と思われてしまい・・・。

 

わけの分からないうちに、容疑者として警察に追われる身になってしまうお草さん。
ひゃ~、なんという展開でしょう。
さすがに今まで、ここまでのはなかったですね。

サスペンス!

相当ビターです。

 

「薔薇色に染まる頃」吉永南央 文藝春秋

満足度★★★★☆


「じい散歩」藤野千夜

2023年09月11日 | 本(その他)

妻に触れないジイサン

 

 

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夫婦あわせて、もうすぐ180歳。
中年となった3人の息子たちは、全員独身――。

明石家の主、新平は散歩が趣味の健啖家。
妻は、散歩先での夫の浮気をしつこく疑っている。

長男は高校中退後、ずっと引きこもり。
次男はしっかり者の、自称・長女。
末っ子は事業に失敗して借金まみれ。

……いろいろあるけど、「家族」である日々は続いてゆく。
飄々としたユーモアと温かさがじんわりと胸に沁みる、現代家族小説の白眉。

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本作、散歩好きの老人ののどかな日常を描いたものかな、
と思いつつ読み始めましたが、そうではありませんでした。

主人公、新平は全く食えないジイサンです。
夫婦合わせてもうすぐ180歳という、高齢の夫婦。

長男は高校中退後、引きこもりのまま。
次男はしっかり者のゲイで自称「長女」。
3男は事業を興すも失敗し借金まみれ。
3人皆独身。

しかしまあ、今時こんなことは珍しいというわけではありません。
この夫婦も、必要以上にこの事態を不幸とは思わず、
淡々と受け入れているようでもあります。
そこはいいですね。

新平は朝からストレッチにいそしみ、健康に配慮した食事をとって、日課の散歩。
かなりの距離を歩いてふらりと良さそうな喫茶店に立ち寄ったりして、
なかなか有意義な時を過ごしています。
そしてその後、今は仕事もしていないけれど、かつての仕事場は残してあって、
そこで1人気ままな時を過ごす。
部屋の棚にはこれまでのコレクション、怪しげな本やらビデオやらがびっしりなのですが・・・。

 

ふむ。
まあここまではいい。
お元気そうで好きなコトして過ごして・・・。

ところが奥様のほうは、運動は嫌いでほとんど出歩かない。
それでちょっと太り気味。
おまけに近頃少しボケてきていて、新平が出かける度に
「誰と会うのか?」と浮気を疑う。
散歩に行くだけといくら説明しても、納得しない。
・・・というのも、実のところかつて新平は実際に浮気をしていた時期があるのです。
そういうときの思いを引きずってなのか、
今、ボケてそのことに余計執着してしまっている妻・・・。

今までこんな風なボケ方をする人の話は読んだことがないなあ・・・、
そんなこともあるのか、と思うしだい。

しかしさらに読んでいけば、確かに、新平は今になっても女あしらいがうまいというか、
いかにも以前はモテた感じなんですよね。
それなのに、妻に対しては無関心。
というか、明らかに他の女性に対しての心遣い以下。

そしてさらに、ある時、妻が倒れたときの、新平の驚きの言動は・・・!

いや正直、それはないと思いました。
紹介文に「ユーモアと温かさ」とあるのですが、
私はそれは読み取れない・・・。

夫婦のあり方は確かに様々で、むしろ最後まで睦まじくという方が
稀なのかも知れないけれど・・・。

私にはモヤモヤの残るストーリーでした。

 

「じい散歩」藤野千夜 双葉文庫

満足度★★.5

 


「アンと愛情」坂木司

2023年09月07日 | 本(その他)

成人式を迎えたアンちゃん

 

 

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成人式を迎えても、大人になった実感のわかないアンちゃん。
同い年の優秀な「みつ屋」の社員と自分を比べて落ち込んだり、
金沢で素晴らしいお菓子に出合って目を輝かせたり。
まだまだアンちゃんの学びの日々は続きます。
これからもそんな日常が――と思いきや、えっ、大好きな椿店長が!?
和菓子に込められた様々な想いや謎に迫る、
美味しいお仕事ミステリー第三弾。

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坂木司さんの「和菓子のアン」シリーズ、文庫最新刊。
累計100万部突破のベストセラーとのこと。
アンちゃんのいかにも人がよくて真面目で一生懸命の所と、
和菓子の美しくおいしそうな所が魅力。
ベストセラーも肯けます。

 

本作ではアンちゃんが成人式を迎えます。
「みつ屋」ではもうすっかり仕事にも慣れて、
自分の居場所と思える所となっていますが、それでも・・・。

ある時、別の支店から手伝いにやって来たのは、
アンちゃんと同い年の女性社員。
彼女は何をするにもテキパキと素早く、そして的確。
その優秀さを見て、アンちゃんはすっかり落ち込んでしまいます。

そしてまたある時は、
敬愛する椿店長がこの店からいなくなってしまうと知ったアンちゃんは、
店長に対してひどい態度をとってしまう。

まだまだ、成長途上のアンちゃんではありますが、
和菓子についてはますます研究熱心。
和菓子は日本文化と深く結びついていると知るに付け、
もっと学ぶべきことがたくさんあると思うのです。

がんばれ! アンちゃん。

 

さて私、いつもこの本を読む度に「立花くん」は
ドラマ化するとしたら絶対に志尊淳くんだな、と思うのです。
それほどに、イメージがピッタリ。

ドラマ化にならないかなあ・・・?

 

「アンと愛情」坂木司 光文社文庫

満足度★★★★☆

 


「逆ソクラテス」伊坂幸太郎

2023年07月31日 | 本(その他)

「自分は何も知らない」ことを知っている。

 

 

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「敵は、先入観だよ」
学力も運動もそこそこの小学6年生の僕は、
転校生の安斎から、突然ある作戦を持ちかけられる。
カンニングから始まったその計画は、
クラスメイトや担任の先生を巻き込んで、予想外の結末を迎える。
はたして逆転劇なるか!?
表題作ほか、「スロウではない」「非オプティマス」など、世界をひっくり返す無上の全5編を収録。
最高の読後感を約束する、第33回柴田錬三郎賞受賞作。

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伊坂幸太郎さんの短編集ですが、珍しくどれも少年がメインとなるストーリー。
私、子どもたちが出てくる物語は好きなのです。
まだ大人の社会文化に染まらず、まっさらに近い感性や思考方法を持っている彼ら。
世の中のことはうっすらと見えてきているけれど、
まだ、それだけがすべてではないとまっすぐに見ることができる。
ちょっぴり生意気だったり、意気地無しだったり、
そんな個性もたっぷりな少年少女たちの言動は、なんだか応援したくなってしまいます。

元々伊坂幸太郎さんは子供の登場する話は苦手だったそうですが、
本作はそんな片鱗もみせず、ステキなストーリーを紡いでくれています。

 

表題の「逆ソクラテス」。

かのソクラテスはこんなことを言ったのだとか。

「自分は何も知らない、ってことを知っているだけ、自分はマシだ」と。

けれど、多くの人は逆。
完璧な人はいるわけないのに、自分は完璧だ、間違うわけがない、何でも知っているぞ、
・・・と。
こういう思考を「逆ソクラテス」と本作中の佐久間くんが言うのです。
まさに、この子たちのクラスの担任がそれ。

「この子は頭がいい、いい子」

「この子は、引っ込み思案のダメな子」

教師のこのような勝手な先入観による決めつけが、
子どもたちに向けた行動や言葉の端々に出るものだから、
いつの間にかクラスの子どもたちも、その子供本人までも、
いい子、ダメな子になりきってしまう・・・。
だから、「僕はそう思わない」と、きちんと声に出すことが大事だと言うのです。

子どもたちが互いに語り合いながら、前向きな提案をし実行していく。
時にはそれは冒険で危なっかしくもあるけれど、ワクワクしますねえ・・・。

 

また他のストーリーの中では、逆にソクラテス的教師も登場します。
彼は偉そうなことなど全く言わないけれど、
子どもたちをよく見ていて、ぼそっと、
あとになって「こういう意味だったのか!」というような言葉をくれたりします。

この先生は別の短編の中にも何度か登場。
そうした関連性が見えるところが本巻のステキな所でもあります。

 

幸せな一冊。

 

「逆ソクラテス」伊坂幸太郎 集英社文庫

満足度★★★★★

 


「旅のネコと神社のクスノキ」池澤夏樹 黒田征太郞

2023年07月25日 | 本(その他)

ぜんぶ一つになって返ってきた

 

 

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現存する被爆建物「旧広島陸軍被服支廠」をテーマに、
日本を代表する作家の池澤夏樹と黒田征太郎が言葉と絵と木工作品を交えた
新しい絵本を作りました。
主人公のネコとクスノキの対話を通して、
戦争、平和、そしていのちとは何かを読者へと問いかけます。

*池澤夏樹による解説「ヒストリー陸軍被服支廠」収録

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作家・池澤夏樹さんと画家・黒田征太郎さんによる絵本です。

1945年7月。
旅するネコが広島市郊外で大きなレンガ造りの建物を見つけて、
神社のクスノキにこの建物は何なのか、訪ねます。

「りくぐんひふくししょう」(陸軍被服支廠)と答えたクスノキ。
軍服や軍靴などの日用品を作る工場なのでした。
けれど少し先がのことが読めるというクスノキは、
なんだか怯えているようです。

 

8月が過ぎて9月。
ネコがまたここを訪れます。
山の向こうの広島の町が、建物のかけらばかりで
何にもなくってしまっていたことに呆然としながら・・・。

でもここの建物は前と同じくしっかり立っていて、クスノキも無事でした。
「この国のヘータイさんがうったたまやおとしたばくだんが
ぜんぶ一つになって返ってきた」
とクスノキは言います。

そしてその時、ひどい怪我ややけどを負った人々が大勢ここに運ばれてきて、
そして多くの人が死んでいったのだと・・・。

 

 

ストーリーは極力単純な文章で綴られていますが、
巻末に池澤夏樹さんによる解説「ヒストリー陸軍被服支廠」が収録されています。

それによるとこの建物は、被爆建物「旧広島陸軍被服支廠」として現存しています。
日本陸軍の軍需工場であった場所。
爆心地から2.7キロという至近地でありながら、
その頑丈な作りと地理的要因から、爆風に耐えて残った。
そのため、多くの負傷者が運び込まれる場所となったわけですが、
手当の術もなく、そのまま息を引き取った人が大多数。
遺体も前の空き地で荼毘に付され、近くの空き地に埋められたという・・・。

 

池澤夏樹さんは、確かに原爆を落としたアメリカは極悪非道だけれど、
日本の陸軍も同様であったとして、アジアでの非道ぶりを列挙しています。

そうした思いが「ぜんぶ一つになって返ってきた」という表現に繋がるのでしょう。

 

戦争を考えるためのきっかけになる一冊。

 

<図書館蔵書にて>

「旅のネコと神社のクスノキ」池澤夏樹 黒田征太朗

満足度★★★★☆

 


「ザリガニの鳴くところ」ディーリア・オーエンズ

2023年07月19日 | 本(その他)

湿地の娘

 

 

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ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。
人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。

6歳で家族に見捨てられたときから、カイアはたったひとりで生きなければならなかった。
読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、
彼は大学進学のため彼女を置いて去ってゆく。
以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、
彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと
思いをはせて静かに暮らしていた。
しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく……

みずみずしい自然に抱かれた少女の人生が不審死事件と交錯するとき、
物語は予想を超える結末へ──。

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本作は、先に映画を見て感銘を受けたところですが、
せっかくの世界的ベストセラー、ぜひ原作も読んでみたいと思っていて、
ようやく読むことができました。

これを読むと、映画がいかにこの本の世界観を壊さないように
忠実に描こうとしていたかが分かります。

 

6歳で家族に見捨てられ、湿地のみすぼらしい小屋で
たった1人で生きていかなければならなくなったカイア。

学校へも行かないカイアに読み書きや学ぶことの楽しさを教えてくれたのは少年テイト。
カイアはテイトに恋心を抱くようになりますが、
彼は大学進学のためこの地を去り、約束も違えて戻ってこない・・・。
村の人々から「湿地の娘」と呼ばれ蔑まれながら、孤独の日々は続きます・・・。

しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に接近してくる。

 

映画もそうでしたが、実はこの物語は、
このチェイスが死体で発見される所から始まるのです。
事故か、事件か・・・?

その捜査の様子と、カイアの幼少期からの生活の様子が交互に描かれていきます。

 

孤独でありながら、聡明で生きる力に満ちたたくましい女性、カイアの魅力。
そして、美しい湿地にあふれる自然。

 

そして、終盤の裁判の様子もやきもきさせられるのですが、
カイア自身の事件への思いが語られないところがミソといえばミソなのでした。

 

映画もよかったですが、もちろん、本もスバラシイ!!
世界中で愛されたのも、もっともなことであります。

著者、ディーリア・オーエンズは動物学者で、
この本は69歳で執筆した彼女の初めての小説とのこと!!

 

<図書館蔵書にて>

「ザリガニの鳴くところ」ディーリア・オーエンズ 友廣純訳 早川書房

満足度★★★★★


「八月の銀の雪」伊与原新

2023年07月07日 | 本(その他)

科学と人

 

 

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「お祈りメール」の不採用通知が届いた大学生は、焦りと不安に苛まれていた。

2歳の娘を抱えるシングルマザーは、「すみません」が口癖になった。

不動産会社の契約社員は、自分が何をしたいのか分からなくなっていた……。

辛くても、うまく喋れなくても、
否定されても邪慳にされても、
僕は、耳を澄ませていたい
――地球の中心に静かに降り積もる銀色の雪に。
深海に響くザトウクジラの歌に。
見えない磁場に感応するハトの目に。
珪藻の精緻で完璧な美しさに。
高度一万メートルを吹き続ける偏西風の永遠に――。

科学の普遍的な知が、傷つき弱った心に光を射しこんでいく。
表題作の他「海へ還る日」「アルノーと檸檬」「玻璃を拾う」「十万年の西風」の傑作五編。

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先に、「月まで三キロ」の作品で強い印象を残した伊与原新さんの新たな短編集。

前巻同様、一篇ごとにこのような何かしら科学的なエピソードが語られ、
それと人々の人生模様がうまく絡まって描かれているのです。

 

表題作、「八月の銀の雪」では、就職の面接で落ちまくっている堀川が
とあるコンビニのレジでバイトをしている外国人女性と知り合うようになります。
コンビニ店員としては使えなく思える彼女、ベトナム人のグエンですが、
実は大学院で地球物理学を学んでいるのです。
彼女が研究しているのは地球の芯のこと。
誰も実際にそこを見たものはいない。
だから様々なことから検証していく。

堀川は、人間の中身も、地球と同じ層構造なのかも知れないと思います。
硬い層があるかと思えば、その内側にもろい層。
冷たい層を掘った先に、熱く煮えた層。
そんな風に幾重にも重なっている・・・。

地球の芯のところで、鉄の雪がゆっくりゆっくり降り注ぐという
幻想的なイメージが心に残ります。

 

こうした壮大な「真理」であり「ことわり」が、
わたし達の心の細々とした鬱屈を浄化していくような・・・、
そんな気がするので、やはりこの著者のストーリーは大好きです。

「八月の銀の雪」伊与原新 新潮文庫

満足度★★★★☆

 


「水まきジイサンと図書館の王女さま」丸山正樹

2023年06月21日 | 本(その他)

「デフ・ヴォイス」スピンオフ

 

 

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『デフ・ヴォイス~法廷の手話通訳士』で話題をさらった丸山正樹氏、初めての児童書。
「デフ・ヴォイス」シリーズとして、
その後『慟哭は聴こえない』など続篇を刊行中。
本作は、そのスピンオフ版として書かれたもので、
コーダ(ろう者の両親の家庭で育った聴者の子ども)である主人公の手話通訳士の
再婚相手の子ども美和と、
シリーズ2作目に登場する友だち英知の学校を舞台に繰り広げられる。
「水まきジイサン」「図書館で消えたしおり」「猫事件」「耳の聞こえないおばあさん」
などのストーリーが、ミステリーの要素も加わり、少しずつリンクしていく。

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丸山正樹さんの「デフ・ヴォイス」シリーズは、私の愛読書の一つですが、
本作はその児童書版にして、スピンオフ作品。

主人公である手話通訳士の再婚相手の子供・美和が本作の主人公であります。
本編でおなじみの荒井とその妻(つまり美和の母)、
美和のよき友人の英知が登場するのも、嬉しいところ。

 

朝登校時によく出会う風変わりなおじいさんのこと、
図書館で出会った大切な物を探しているお姉さんのこと、
道ばたで困っていたおばあさんのこと、
猫に毒の餌が撒かれているらしい事件・・・
いくつかの出来事が混じり合いながら進行していきます。
そしてもちろん、美和が手話を使うシーンも。

児童書なので、子どもたちが手話を身近に感じられるように書かれていて、
そして巻末にはいくつかの手話もイラスト入りで紹介されています。

大人のデフ・ヴォイスファンでも、
興味を持って読むことができると思います。

 

<図書館蔵書にて>

「水まきジイサンと図書館の王女さま」丸山正樹 偕成社

満足度★★★★☆

 


「音楽は自由にする」坂本龍一 

2023年06月15日 | 本(その他)

坂本龍一さんの道

 

 

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坂本龍一が語る坂本龍一

「あまり気が進まないけれど……」と前置きしつつ、
日本が誇る世界的音楽家は静かに語り始めた――。
伝説的な編集者である厳格な父。
ピアノとの出合い。
幼稚園での初めての作曲。
学生運動に明け暮れた高校時代。
伝説的バンドYMOの成功と狂騒。
たった一人の「アンチ・YMO」。
『ラストエンペラー』での栄誉。
同時多発テロの衝撃。
そして辿りついた新しい音楽――。
華やかさと裏腹の激動の半生と、いつもそこに響いていた音楽への想いを、
自らの言葉で克明に語った決定的自伝。

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本作は、2009年に刊行された坂本龍一さんの自伝です。
このたび追悼企画として文庫化されたようです。

坂本龍一氏は、私にとっては「YMO」よりも「映画音楽」の印象が強いのですが・・・、
それも人によるのでしょう。

ともあれ、まさに日本が誇る世界的音楽家。

おそらく好きなことを選び取りながら歩んだ人生だと思うのですが、
結局それはやはり音楽の道だったわけですね。
くっきりと浮かび上がる足跡は、
さすがに他に類を見ない独自性を表わしています。

氏の人生をたどることは、自ずと日本の社会の変遷をたどることでもあります。
時代背景を読み取りながら読んでいくのもまた興味深いです。

 

驚いたのは、あの2001年9月11日。
氏はニューヨークに住んでいて、煙を上げるビルの姿を実際に見たといいます。
もしかしてこれは有名な話で、知らなかったのは私くらいなのかも知れないけれど・・・。
それで本巻にも、坂本龍一氏本人が撮ったその写真が掲載されています。

あんな光景を目の前で見たとしたら、
なんだか人生観が変わってしまいそうな気がします。

 

「音楽は自由にする」坂本龍一 新潮文庫

満足度★★★★☆


「六つの峠を越えて髭をなびかせる者」西條奈加

2023年06月08日 | 本(その他)

蝦夷地と江戸

 

 

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直木賞作家の新たな到達点!
江戸時代に九度蝦夷地に渡った実在の冒険家・最上徳内を描いた、壮大な歴史小説。

本当のアイヌの姿を、世に知らしめたい
―― 時は江戸中期、老中・田沼意次が実権を握り、改革を進めていた頃。
幕府ではロシアの南下に対する備えや交易の促進などを目的に、
蝦夷地開発が計画されていた。
出羽国の貧しい農家に生まれながら、算学の才能に恵まれた最上徳内は、
師の本多利明の計らいで蝦夷地見分隊に随行する。
そこで徳内が目にしたのは厳しくも美しい北の大地と、
和人とは異なる文化の中で逞しく生きるアイヌの姿だった。
イタクニップ、少年フルウらとの出会いを通して、
いつしか徳内の胸にはアイヌへの尊敬と友愛が生まれていく……。
松前藩との確執、幕府の思惑、自然の脅威、様々な困難にぶつかりながら、
それでも北の大地へと向かった男を描いた著者渾身の長編小説!

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本作は、江戸中期に九度も蝦夷地に渡り探索を行ったという
実在の最上徳内という人物を描いた物語です。
北海道出身の西條奈加さんならではの題材ではありますが、
実のところ北海道生まれ・育ちの私もこの人物については全く知りませんでした。

Wikipediaによる、最上徳内の説明は次のようになっています。

最上徳内

実家は貧しい農家だったが、長男であるにもかかわらず
家業を弟たちに任せ学問を志し、
奉公の身の上になり奉公先で学問を積んだ後、
師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行した。
後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、
一旦は罪人として入牢しながらも、
その抜群の体験と能力によって、
のちに蝦夷地の専門家として取り立てられ幕臣となった。
蝦夷地に渡ること9回で、当時随一の「蝦夷通」として知られ、
身分差別に厳しい江戸時代には異例ともいえる立身出世を果たした人物である。
シーボルトが最も信頼を寄せていた日本人ともいわれ、
その知識は世界的なものにまでなったといわれる。

 

ということで、本作を読むとしっかり忠実に歴史をなぞりながら
物語が進んでいることが分かります。

 

特に、幕府の命で行われた1回目と2回目の蝦夷地調査。
徳内のみならずその一行は、皆忠実に熱意を持って職務に当たりました。
蝦夷地のことは松前藩が仕切ってはいるものの、ろくな地図もなくわからないことばかり。
いま、ロシアが南下する機会をうかがっているのでは?
ということの調査でもありました。

しかし、任務を終えて、江戸に帰ってみれば、とんでもない仕打ちが待っていた・・・!

まさにドラマチックではあります。
権力者の思惑一つに人々は振り回され運命を狂わされてしまう。
そういう時代の話でした。

そしてまた、当時のアイヌの人々が松前藩から受けた仕打ちがひどい。
まあ、そのことは分かってはいるつもりでしたが。
徳内は、アイヌの人々と親しみ、言葉を学び、その文化の素晴らしさにみせられたのです。
だからこそ、生涯9度も蝦夷地を訪れたわけで。

江戸から蝦夷地まではさぞかし遠かったでしょうに・・・、
そしてまたそれはほとんど命がけでもあったでしょうに・・・。

いつの時代にも、スゴイ人はいるものですね。

 

<図書館蔵書にて>

「六つの峠を越えて髭をなびかせる者」西條奈加 PHP研究所

満足度★★★★☆

 


「スター」朝井リョウ 

2023年06月02日 | 本(その他)

映画とYouTubeと

 

 

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「どっちが先に有名監督になるか、勝負だな」
新人の登竜門となる映画祭でグランプリを受賞した立原尚吾と大土井紘。
ふたりは大学卒業後、名監督への弟子入りとYouTubeでの発信という真逆の道を選ぶ。
受賞歴、再生回数、完成度、利益、受け手の反応
―作品の質や価値は何をもって測られるのか。
私たちはこの世界に、どの物差しを添えるのか。
朝日新聞連載、デビュー10年にして放つ新世代の長編小説。

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映画が大好きで、映像に関わる仕事がしたいと思う2人の青年の物語です。
2人は大学時代に組んで、新人の登竜門となる映画祭でグランプリを受賞。
そしてその卒業後、1人は名監督に弟子入り。
もう1人はYouTubeでの発信、という全く別の道を歩み始めます。

 

映画監督を目指す尚吾は、YouTubeなど邪道だと思っています。
どんなド素人にでもできてしまう、映像も内容も適当なもの・・・。
でも映画は、特に新人監督の作るような作品は、
その作品作りのための努力や労力に反し、
見る人がごくごく限られていて、一般の人には興味も持たれない。

 

一方、YouTube作成の道へ進んだ紘はその作品がバズり、ちょっとした話題になります。
見る人の数で言えば、それこそ映画の比ではない。
けれど、数多く更新しなければならないことで、どうしても作り方が雑になってしまう。

双方のやりたいことと、その限界の間で、逡巡する若い2人。

 

映画もYouTubeもどっちも嫌いではない私としては、
イヤ、やっぱり見るための目的が双方違うからなあ・・・と思うのです。

YouTubeには「知りたいことを知る」、「見たいものを見る」ためのツールとして私は捉えています。
人にもよるのかもしれませんが。

そして映画には「ドラマ」を求める。

だから、当人がどっちをやりたいのか、ということなのではないかなあ・・・
という気がするのですが。
どちらも名を上げるための手段というのであれば、なおさら違う気もするし。

本作、今時のテーマとして着眼点は面白いのですが、
双方の「思い」の描写がくどくどしすぎていて、
逆にピンとこない感じがしてしまいました。

 

「スター」朝井リョウ 朝日文庫

満足度★★★☆☆

 


「Seven Stories 星が流れた夜の車窓から」文春文庫

2023年05月27日 | 本(その他)

非日常の中で思う人生

 

 

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九州を走る豪華寝台列車の「ななつ星」。
調度品や食事、クルーのもてなしとすべてが上質で
非日常を味わう憧れの旅として知られています。
この夢の列車を舞台に、
7人の人気作家が「大切な誰かとの時間」を描き出します。


すれ違う夫婦、かけがえのない旧友、母と娘……。
旅の途中だからこそ吐露される、
心に秘めた言葉たちが胸を打つアンソロジーです。
あなたなら、この旅に誰とでかけますか――?

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九州を走る豪華寝台列車「ななつ星」を舞台とする物語。
7人の作家によるアンソロジーです。
この作家の顔ぶれが以下の通り。
なんとも豪華です。

 

<小説>

『さよなら、波瑠』 井上荒野

『ムーン・リヴァー』 恩田 陸

『アクティビティー太極拳』 川上弘美

『ほら、みて』 桜木紫乃

『夢の旅路』 三浦しをん

<随想>

『帰るところがあるから、旅人になれる。』 糸井重里

『旅する日本語』小山薫堂

 

これはもう、読んでみたくなりますよね。

それぞれの旅・・・。
特別に豪華な非日常を、
人々はどうしてしてみようと思ったのか、そして、何を思うのか。
それはつまりその人の人生を語ることでもあるのです。

 

ううん、やはり一度でいいからこんな旅をしてみたいですね。
物語を読みつつ、そう思いました。
旅心を誘うオシャレな本であります。

 

「Seven Stories 星が流れた夜の車窓から」 文春文庫

満足度★★★.5


「街とその不確かな壁」村上春樹

2023年05月08日 | 本(その他)

自分とは・・・、影とは・・・

 

 

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村上春樹、6年ぶりの最新長編1200枚、待望の刊行!

その街に行かなくてはならない。
なにがあろうと
――〈古い夢〉が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、
封印された“物語”が深く静かに動きだす。
魂を揺さぶる純度100パーセントの村上ワールド。

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村上春樹さんの、6年ぶりの新刊。
村上春樹ファンであれば、すぐにピンとくるでありましょう、
「壁に囲まれた街」が出てきます。

そう、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」ですね。
私が読んだのは、村上春樹さんを読み始めて間もない頃。
実のところ詳しい内容は忘れてしまっていますが、
この「街」のことは、さすがに印象深く残っています。

 

 

ぼくときみは、17歳と16歳の時に出会います。

きみが「高い壁にかこまれた街」の話をしはじめて、
ぼくときみはそこがどんなところか、空想を広げて語り合う。
ぼくときみは明らかに互いに好意を持っていたけれど、
キスをしただけで、それ以上の関係にはならなかった。
ところがある時、きみは消息を絶ってしまう。
連絡も取れず、どこへ行ってしまったのかも分からない。

その後わたしは喪失感を抱えたまま生きていくのですが、
45歳のある日、気がつくと壁の街の門の近くにいたのでした・・・。

わたしは壁の街の門衛に影を引き剥がされ、目を傷つけられて、
壁の街の図書館で「古い夢を読む」仕事に就きます。

そうして淡々と同じことを繰り返す日々が過ぎて・・・。
引き剥がされた影が、まもなく命を引き取ろうとしていることを知ったわたしは、
影を元の世界に逃がそうとする・・・。

 

 

わたしと影との関係が問題ですね。
壁の街とはすなわち、自己の無意識の世界のことなのかな?
と想像はつきます。
現実世界に現れている自分は、海に浮かぶ氷山のように、
ほんの一部が姿を現しているだけで、
その深部には膨大な無意識の世界が広がっている・・・。

「自分」というのはその見えている部分なのか、
それとも奥底の見えない部分なのか。
どちらが本体で、どちらが影なのか、ということでもあります。

 

ところで、この文を書くに当たって少し始めの方を読み返してみると

「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの。
今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。
ただの移ろう影のようなもの」

ときみが言っています。

そう、始めから答えは出ているのですよね。
だから、決死の覚悟でわたしが「影」を元の世界に逃がした結果、
なぜかわたしも元の世界にはじき返されてしまうわけですが、
いやいや、つまり「第2部」で、福島の図書館で働くことになるわたしというのは・・・。

 

でも作中ではこうも言っています。

実体としての自分と影とは一体で、どちらが本物ということはない。
というよりも、双方合体しているものこそが本物なのでしょう。

わたしは最後の最後に「真の自分」になろうとする、ということなのかも知れません。

 

 

不思議な「壁の街」、村上春樹ワールドを旅した、私のゴールデンウィークでした!

 

「街とその不確かな壁」村上春樹 新潮社
満足度★★★★★