歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

鳥取県三朝町 三徳山三仏寺本堂 基壇の発掘調査が始まる

2008年07月24日 | Weblog
 三朝町教育委員会は、奥の院である投入堂(国宝)で有名な、三徳山三仏寺浄土院の本堂基壇の発掘調査を始めた。世界遺産登録を目指す三徳山の歴史解明に新たな手掛りを期待し、地下遺構を確認するのが目的。
 昨年から4年計画の本堂の解体修理に合わせて実施。8月中旬までに15m四方の基壇の一部を掘り下げる予定。須弥檀の直下付近にトレンチを入れ、発掘範囲を検討する。
 現在の本堂は1839(天保十)年の建築であるが、それ以前は、1688(貞享五)年の造営を記した棟札が残っているほか、1734(享保十九)年の「美徳山三仏寺境内絵図」に草ぶき入り母屋の本堂が描かれている。絵図が正確なら、当時の本堂の位置が現在と異なる可能性もある。
 三仏寺本堂は1839(天保十)年の建築。正面10.5m、奥行き11mのやや縦長の仏堂。
[参考:山陰中央新報]

2002年10月4日の記事
 三朝町と奈文研埋蔵文化センター、奈良国立博物館は3日、同町三徳山の投入堂に安置してあった蔵王権現立像を年輪年代測定したところ、1025年伐採のヒノキを使ったことが判明、堂の推定建立年代より約70年古い作と判明したため、遅くとも1030年までには初代投入堂が建立されたと見られている。
 その前月には、投入堂と納経堂が、部材の年輪年代法による測定で平安時代後期に当たる1076年から1100年ごろの創建であることが判明したと発表していた。
[参考:山陰中央新報]

-開基-
  山号は人皇第八代孝元天皇御宇の山号なり 慶雲三年(706)役行者(神変大菩薩)により末代窮伏の衆生を化せんがために金剛蔵王大権現を開顕し蔵王堂を建立せらる 其後、嘉祥二年(849)慈覚大師円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊を安置し、三徳山三仏寺浄土院と称し一山総本堂とし蔵王堂(国宝・投入堂)を奧の院とした。
 往古には堂舎二十八、寺三千、寺領一万町歩を領し、建久七年(1196)源頼朝の本願に依り堂舎造営 其後兵火のため焼失
 応安二年(1396)足利義満堂舎三十八、坊四十九院を修造寺領二千石寄進 其後も兵火に罹り堂舎多く焼失
 天正五年(1577)城主南条元純、寛永十年(1633)国主池田光仲 貞享五年(1688)国主松平綱清、天保十年(1839)国主池田斎訓朝臣堂舎修造し現在に至る(略)
(境内掲示板から)

三徳山標高までの主な堂の標高
三徳山参道入口(標高265m)~本堂(標高325m)~投入堂(標高470m)~三徳山頂上(標高900m)
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埼玉県東松山市 反町遺跡第4次調査

2008年07月23日 | Weblog
 反町遺跡第4次調査の中間報告が掲載されている。
 遺跡の東端から、古墳時代前期の方形周溝墓が発見され、そこから底部に穴を開けた底部穿孔土器、赤く塗られた土器、土の上に赤色顔料が出土しています。
 調査区中央では、幅約40mの大溝(河川跡)が確認されており、今後の調査で土器や木製品の出土が期待されるという。
 場  所: 東松山市大字高坂字竹町266  
 調査期間: 平成20年4月22日~平成20年9月12日
 主な時代: 古墳時代

 なお、第41回遺跡発掘調査報告会(平成20年7月27日(日)埼玉県立さきたま史跡の博物館講堂)の詳細も併せて発表されています。
[参考:(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団HP]
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明治初期、廃仏棄釈の京都 調査報告書発見

2008年07月22日 | Weblog
 明治15年(1882)、政府の指示で行われた京都府の社寺建築調査報告書が京都市内で見つかった。
 近代日本初の本格的な文化財調査となる貴重な資料で、「廃仏棄釈」などにより荒廃した明治初期の京都の社寺の姿を詳細に描き出している。
 報告書「400年前社寺建物取調書」は、縦27cm、横18cm、紙数は382枚。
 「応仁の乱」以前から残るとみられる72社寺に対して、自己申告で建物の概要、建築図面、境内図などが収められている。
 当時の建築家ゆかりの個人宅に保管されており、府立総合資料館(左京区)が購入した。
 東山区の東福寺は前年の火災直後で、現在の本堂がある場所は「仏殿」と「法堂(はっとう)」の基壇のみ、庫裏や方丈も「焼跡」と記される。
 上京区の千本釈迦堂本堂は、屋根の軒先を仮設の柱が支える状態。
 宇治市の平等院鳳凰堂は、周辺に草や木が生い茂る。
 舞鶴市の金剛院三重塔は最上部の相輪が欠けた状態が描かれるている。
 右京区の広隆寺桂宮院本堂は「聖徳太子が自ら土木を運んで建立、1280年前の旧観を保つ」と伝承そのままの報告をしている。
 本調書は、同資料館の文書閲覧室で閲覧できる。
[参考:京都新聞]

廃仏棄釈 
 明治維新後に成立した新政府が慶応4年(1868)に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年(1870)に発した詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
 決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。
 その運動が全国的に展開され、寺の荒廃や文化財の海外流出につながった。社寺の領地が明治政府に没収されたことで、財政基盤も失われた。

神社合祀
 その後、廃仏棄釈のみならず神社を合祀して数を減らす、あるいは経費を集中させることで神社の継続的経営を確立させるために、1906年(明治39年)に神社合祀令が出された。
 特に合祀政策が著しかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。博物学者・民俗学者の南方熊楠が「神社合祀に関する意見」などを著したり、植物学者・松村任三博士宛に2通の書簡(南方ニ書)を出したことで有名。
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源氏物語「大沢本」  鎌倉中期の写本全54帖 70年ぶり確認 

2008年07月22日 | Weblog
 大沢本として存在は知られながら70年近く行方不明だった「源氏物語」全巻の写本が個人宅に所蔵されていたことが分かった。所有者の調査依頼を受けた国文学研究資料館(東京都立川市)伊井春樹館長が大沢本と確認し、公開に消極的だった所有者を、「千年紀の節目であり学術的にも意義がある」と、ねばり強く説得し、21日に大阪府立大で開かれた講演会で「幻の大沢本源氏物語」と題して発表した。

 大沢本は、奈良にあった旧家・大沢家に伝わった源氏物語で、豊臣秀吉より拝領したと伝えられる。
 五十四帖すべて揃い、体裁は縦、横が約16cmの四角い升形(ますがた)本。各帖の布表紙は緑地の金襴緞子(きんらんどんす)で装丁され、本文(ほんもん)は料紙に筆写されている。
 秀吉が大沢護久に下賜した伝承を記すほか、題字は公家の近衛信伊(のぶただ)、金泥の下絵は狩野山楽が書き、写本の筆者は西行や寂蓮、後醍醐天皇らとしている。伝承や筆者についての学術的根拠はない。

 「大沢本」は、明治40年、古典学者の小杉榲邨(すぎむら、1834−1910年)が美術品として鑑定し、学界に紹介した。昭和14、15年には源氏学者の池田亀鑑(きかん、1896-1956)が調査途中で大戦をはさんで行方不明になったと書き残して以後、行方不明となり“幻の写本”となっていた。
 伊井さんは、小杉の覚書「鑑定雑記」を調べたところ、1907年11月に「大沢氏の子孫が持ち込んだ『源氏』写本を鑑定」という記述を発見し、かねて興味を抱いていた。
 今回、「源氏」本文と共に、江戸時代の鑑定家らによる鑑定文(極め)が付属しており、さらに明治期の美術鑑定の権威・前田香雪や古典学者・小杉榲邨が1907年に書いた鑑定書が添えられていた。小杉らの鑑定書が、「鑑定雑記」の記述と一致することから大沢本と認められた。

 平安時代に書かれた紫式部の自筆本は現存しないし、鎌倉時代前期に藤原定家が写した「前田本」などが最も古い。
国文学者池田亀鑑の分類によると、定家が校訂した「青表紙本(あおびょうしぼん)」、同時期に源光行らが校訂した「河内本(かわちぼん)」の2系統と、それ以外の雑多な別本がある。
 池田亀鑑が青表紙本をより純良な本文と判断して以来、その忠実な写本とされる古代学協会(京都市中京区)所蔵の「大島本」(室町時代)を中心とした本文が広く読まれている。
 しかし、青表紙本の「大島本」は室町後期の写本である上、遡っても定家が手を加えた源氏物語でしかなく、紫式部による原本ではない。江戸時代に版本が普及するまで筆と墨で書き写された。書写による誤りや脱落、書き込みにより、平安末期の源氏物語はさまざまに違った本文になっていたとみられている。

 大沢本は全54帖がそろっているが、一度に写されたものではなく、不足分をかき集めた「取り合わせ本」。平安時代の源氏物語の本文の状況を伝えるとされる別本が二十八帖もあった。書写された時期は各帖まちまちだが、「葵」の巻は字体などからも鎌倉時代までさかのぼるとみられる。全体の3分の2は鎌倉時代の写本。室町末期に体裁が整えられたらしい。
 定家の校訂前の多様な本文を伝えている可能性が高い。今後、別本の研究が進めば、紫式部の源氏物語に近づいていくかもしれない。それだけに、「大沢本」の発見の意義は大きい。
 鎌倉時代の別本を多く含む写本は、重文の「陽明文庫本」と「保坂本」(東京国立博物館蔵)が知られ、「それらに匹敵するか、それ以上の価値がある」(伊井館長)という。

 最も注目したのは、「夕霧」巻の末尾の部分だ。「なにはの浦に」と書かれ、そこだけ丸で囲ってある。この文言が付いた本文は、ほかに例がない。
 伊井さんは「丸は削除の印。本文は最初の写本の段階で書かれたものと思われるが、丸はいつ書かれたのかわからない。和歌を引用したのだろう」とみる。平安中期の和歌集「古今和歌六帖」の歌「おしてるやなにはのうらに焼くしほのからくもわれはおいにけるかな」からの一句ではないかとみている。 夕霧は子だくさんで3人の妻ともなかなかしっくりいかず、疲れた中年になっていた。「なにはの浦」という句を含み、老いを嘆く意味のこの引歌(ひきうた)によって「自分も年をとったなあ」という夕霧の心情を表現した可能性がある。井伊さんは「この1句を補うことによって、新しい夕霧の姿が見てとれるのではないか」という。
 大沢本によって提示された新たな別本資料は定家を超え、原作者の紫式部に近づく“夢”の一歩。伊井さんの期待は膨らむ。
[参考:毎日新聞、産経新聞、京都新聞、読売新聞、朝日新聞] 
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岡山県・犬島貝塚 焼成前穿孔土器の一部出土 本州で初、九州との交流示す史料

2008年07月20日 | Weblog
 19日縄文時代早期(約1万年前)の犬島諸島・地竹ノ子島(岡山市犬島)の犬島貝塚を調査していた、「犬島貝塚調査保護プロジェクトチーム」(代表=遠部慎・国立歴史民俗博物館研究員)は、主に九州地方から出土している焼成前穿孔(せんこう)土器の一部が出土したと発表した。
 崩落した貝層の塊の中から見つかった土器の破片1個(縦15cm、横20cm、厚さ1cm)から、土器は直径約35cm、高さ約60cmだったと推定。底がとがっており、側面に対角線上に二つの穴(直径約7mm)があった。
 こうした土器は主に大分県など九州東部と高知県から出土。穴にひもを通していたとも考えられる。
 今回の出土は分布の東端となる。本州での出土は初。遠部代表によると、当時、東から西への物流はよくあったが、西から東へはあまりなかったという。
 九州方面との交流をうかがわせる史料となる。
 8月上旬からの本格的な調査に期待が高まる。

 20日午後1時半から、国立歴史民俗博物館の遠部慎研究員らのグループは、岡山市・デジタルミュージアムで開かれた調査と保護についての市民向け講演会「犬島貝塚の発見―1万年前の瀬戸内海―」で報告をした。
 犬島貝塚は昭和55年、岡山市の考古学愛好家が地竹ノ子島のがけで発見。平成16年ごろから台風で地盤の崩落が始まり、2007年秋、研究グループが保存に向けた調査を開始した。
 これまでに、淡水と海水が混じる汽水域で生息するヤマトシジミと縄文時代早期の山形押型文土器で構成されていることを確認した。
 ほとんどが淡水と海水が混じる汽水域に生息するヤマトシジミの貝殻。
 ヤマトシジミの年代は炭素測定で9800~9600年前と判明。
 温暖化による海面上昇が進んだ縄文海進(約1万1500年前~6000年前)初期の瀬戸内海地方最古級の貝塚とみられ、瀬戸内海の形成過程を知るための貴重な史料とされる。
 汽水域から干潟に移り変わる直前の貝塚である可能性が極めて高いとしている。
[参考: 読売新聞、岡山日日新聞、共同通信ほか]
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明日香村・高松塚古墳 築造当時の地表面が姿を現す

2008年07月19日 | Weblog
 18日文化庁は、今月7日から行われている高松塚古墳(8世紀初め)の発掘調査現場を公開した。
 1974年に旧保存施設を建設した際の盛り土を除去し、周囲の築造当初の地表面が34年ぶりに姿を現し始めた。
[参考:読売新聞]
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北野天満宮 平安時代の木造鬼神像を初公開

2008年07月19日 | Weblog
 京都市上京区の北野天満宮では、1996年に本殿を修理した際、普段は本堂に安置され、開けることのない長持を運ぶ際に底が抜けたことで、中に納められていた木像13体の存在が明らかになった。
 当時の古文書に、938年ごろ、平安京の道に神像があったという記録があり、同天満宮に収められたとみられる。
 年輪年代測定法で10世紀後半の制作と判明した。
 平安時代中期に邪気や御霊(ごりょう)を払うために平安京の大路小路に置いたとみられる木造鬼神像であることがわかった。
 「小野宮年中行事」などの古い記録に登場する道の要所に置かれ、死者などの邪気を払うと信じられていた「フナドノ神(岐神)」や「チマタノ神(衢神)」と考えられ、実際に像が発見されるのは、初めてだそうである。
  注:『日本書紀』の「岐神」「衢神」は境界の神の意。
 おととし6月に国の重要文化財に指定された。

 19日から、その重要文化財「木造鬼神像」を宝物殿で初めて公開する。
 北野天満宮によると、平安京で10世紀半ば、邪気や死者の霊をはらうため街道の分岐点などに置かれた道祖神の起源とされるとみられる。
鬼神像は立像12体と座像1体。高さは46~71cmで、大部分はヒノキの一木造り。
 口を固く結び、目を見開いた憤怒の表情で、腰布やふんどしをつけてずきんをかぶったり、髪が逆立ったり、手や足を上げたりしている。
 9月30日まで。8月3日までと土、日、祝日、25日の縁日は午前9時-午後4時。そのほかは午前10時-午後1時。有料
[参考:京都新聞、山陽新聞、読売新聞]
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仙台市 砂押古墳 遺跡見学会を19日に開催

2008年07月18日 | Weblog
仙台市は17日、砂押古墳(仙台市太白区)の遺跡見学会を行うことを発表した。
日時: 平成20年7月19日(土)午後1時30分より
会場: 砂押古墳 仙台市太白区砂押町125-4
    地下鉄 長町南駅下車 徒歩20分、 市バス 「砂押町」下車3分
調査結果の概要:
砂押古墳は今から約1500年前の有力者の墓。 円墳としては市内最大クラス・
 埋葬施設が2基出土。 1つは礫槨、もうひとつは石棺。 3m離れて同じ方向を向いて並んでいる。
 周溝から、埴輪が見つかっている。埴輪が立てられていた古墳で墳丘が残っているものは市内ではほとんどなくなっており、貴重な古墳としている。
[参考:仙台市新着情報]
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忠南扶余・双北里の百済木簡は最古の「還穀文書」と判明

2008年07月18日 | Weblog
 今年の4月24日百済文化財研究院は、忠南扶余双北里で穀物の名前とその数量を筆文字で書いた百済時代木簡が発掘されたことを発表した。
 百済文化財研究院は17日、その百済時代木簡(목간、6-7世紀頃)が政府(朝廷)が救荒期に穀物や食糧を貸して利子を受けたことを記録したいわゆる'還穀文書'であり、こういう公文書では最も古いと発表した。
 注:還穀:凶年に貧民に貸与し、収穫期に還収した農民救済制度
 京畿大文字学専攻教授ソン・ファンイル博士は最近発刊された学術雑誌「韓国史商科文化」 43集に投稿した『百済木簡「佐官貸食記」の分類体系と書体』という論文で「この木簡は「佐官貸食記」(좌관대식기)という題名で書かれた公文書であり、文体様式で見ると、事実を記録する「記」であり、内容は救荒期に政府が穀物を貸してその内訳を記録した公文書であることを知ることが出来る」と記している。
[参考:聯合ニュース]

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伊勢市・外佐田古墳 横穴式石室が見つかり 現地説明会を行う

2008年07月16日 | Weblog
 三重県埋蔵文化財センターは19日、二見町松下の外佐田古墳で横穴式石室が見つかり現地説明会を開く。
 外佐田古墳は、古墳時代後期6世紀頃の古墳。今回の発掘調査は6月から始まり、約180㎡の発掘調査を行ったところ、横穴式石室を確認した。石室は幅約1・5m、奥行き約4m、天井石は失われている。
海に向かって作られていることから、志摩地方を治めた豪族「磯部氏」にかかわる石室と推定している。
 現地を公開し、石室や出土遺物を直接見ることができるらしい。
時間は午後1時30分~3時。問い合わせは同課((電)0596・52・1732)。
 場所は、伊勢市駅から8km東、二見浦からは3km東。 JR松下駅からは徒歩で30分。
[参考:産経新聞、読売新聞]
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日向市塩見城跡 中山遺跡 国内初の土製キリシタン遺物が出土

2008年07月15日 | Weblog
 宮崎県教委は14日、日向市の塩見城跡の中山遺跡から土製キリシタンの破片2片が見つかったことをと発表した。1点は聖母マリアとみられるベールをかぶった女性の顔の一部が、もう1つにはバラとみられる葉が浮き彫りになっている。戦国時代末期から江戸時代初期の16世紀後半ものとみられる。キリシタン遺物は金属製のメダルや首飾りなどが大分県や長崎県などで出土しているが、宮崎県では初であるし、土製は国内初出土。
 遺物は、昨年7月、中心部の3分の1が欠けた状態で出土した。粘土を釜で焼いた瓦質状で、元の大きさは推定で縦約6cm、横約7.2cm、上部にひもを通す穴がある。土の質からみて国内で作られた可能性が高いとする。
同県教委は、欧州の16世紀前半の聖母マリアとみられる女性聖人の絵画を基に描かれている可能性が高いことから、出土品が壁に掛けるなどして信仰の対象にした「プラケット」とみている。
[参考:共同通信、西日本新聞]
■塩見城
 築城時期 明確ではないが、南北朝時代に宇佐八幡宮の神官を出自とする土持氏の築城とする。
 1198年源頼朝より日向国地頭を御家人であった工藤祐経を祖とする伊東祐時に与えられる。
 1457(長禄元)年の小浪川の戦で土持氏が滅びると、伊東氏のものとなり、族将の右松氏の居城となる。
 城主・右松四郎左衛門尉(?~1578)の時に、1977(天正5年)伊東家滅亡し一時島津方に付くが、1578(天正6年)大友宗麟の日向侵攻の際にその先鋒となり耳川の戦いで討死。その後島津支配となり、島津一族の吉利忠澄、忠張が城主となる。
 豊臣秀吉の九州仕置で延岡藩領。1615年、一国一城令で廃城となった。
■中山遺跡
 塩見城跡に向かう道の右手、標高5~38mの尾根上に位置する。旧石器時代の剥片や古墳時代の須恵器も出土するが、圧倒的に中世時代の陶磁器が多く出土し、同時代の掘立柱建物跡が出土している。城の一部、あるいは屋敷地と考えられている。
 昨年度の発掘調査では、13世紀後半から14世紀前半に中国で生産された青白磁の水差し「龍首水注(りゅうしゅすいちゅう)」の破片が出土している。 
■大友宗麟(1530~1587)
 戦国時代のキリシタン大名として有名。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであり、その27年後の1578(天正6年)7月にキリスト教の洗礼を受けた。
 1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣した。
■伊東マンショ/祐益(1569~1612)
 伊東マンショの母親の血筋が大友宗麟と繋がる。前出の工藤祐経を祖とする。
 1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、ヴァリニャーノ司祭ら同行のもと、大友宗麟の名代として派遣された。
 ローマでは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。1590年7月長崎に帰り着いた。
 なお、ローマに派遣されていた時に描かれた伊東マンショの肖像画が、ローマ教皇の子孫宅で見つかるという記事が2005年11月29日の朝日新聞に掲載され話題になった。




キーワード: 伊東マンショ、伊東祐益
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和同開珎の入った壺、平城京跡の太安万侶邸の区画から出土

2008年07月14日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所は14日、平城京(710~784年)跡で太安万侶邸があった、当時「左京四条四坊」と呼ばれる区画から、当時の貨幣「和同開珎」が収められた8世紀半ばの壺が発見されたことを発表した。
 見つかった壺の内部には和同開珎5枚と木くずが入っており、ふたは粘土で密閉されていて、一辺約45cmの穴に埋められていた。
家を建てる際の地鎮具か、子供の成長を願い胎盤を収めた胞衣(えな)壺、どちらかの可能性が高いという。
 昭和54年、「太安萬侶」と記された銅板の墓が発見され、そこには「左京四條四坊に住み、地位は従四位下」との記述がある。
 出土品は、県立橿原考古学研究所付属博物館で19日から開かれる、19年度発掘速報展(9月7日まで)で公開される。
[参考:産経新聞]
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風納土城・木塔址は 深さ4mの井戸だった  

2008年07月13日 | Weblog
 去る4月末に、ソウル市松坡区風納洞の風納土城で、百済時代の寺の木塔と推定される建物跡が発掘されたと報道された206号遺跡は、結局、井戸だったことが確定されたようだ。発掘調査を行っていた韓神大博物館は内部調査を完了したとしている。
206号遺跡出土状況
①井戸の形状など
 百済時代の地表面を基準として最下層底まで深さ4mであり、上から見下ろした平面は、上側は楕円形に近い方形であり、その下の方は各1辺の長さ1.2mの正方形であった。
 地表面から1mほど下の地点から、さらに下に2mほど続く井戸壁面は、川石か割石を使用して丈夫に積んで、またその下に高さ70㎝ほどの壁面は木板材を組んで築造した。
 土器は、木槨が位置する層の上(体積1.008㎥)だけできちんと、そしてぎっしりと全部で4重に積まれていたと。その上の石槨部分は大型石板で埋められた。
②出土土器
 漢城百済時代の井戸1ヶ所だけで計215点に達する完形土器が出土。
 種類では壷と瓶が圧倒的に多い。
 すべての土器は、口唇部をわざと割った跡が見える。
 土器が製作された中心年代は漢城百済末期の5世紀初期と考えられる。

この井戸に隣接する196号遺構について
 一辺の長さ10mほどになる方形倉庫建物である可能性が大きい。
 釉薬を塗ったいわゆる大型施釉陶器が何と約20点出土。
 その他保存用と考えられる土器が数え切れなく確認された。
[参考:聯合ニュース、前出]
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出雲・たたら製鉄遺跡 室町時代の製鉄炉遺構発見

2008年07月12日 | Weblog
 11日出雲市文化財課は、国史跡に指定される田儀桜井家たたら製鉄遺跡(同市多伎町奥田儀の屋敷谷たたら跡)で、室町時代の製鉄炉1基、精錬鍛冶炉3基の遺構が見つかったことを発表した。
田儀桜井家が同地でたたら経営を行う200年前に、同地に別の製鉄集団が存在していたことが明らかになった。
同たたら跡は、田儀桜井家たたら製鉄遺跡の中心で、国史跡の宮本鍛冶山内遺跡の約2.5km東に位置する。発掘調査は昨年10月から実施した。 (同遺跡地は、出雲市から南西方向に約20km、石見銀山跡との中間にある。)
 田儀桜井家は、近世出雲を代表する鉄師で、江戸時代初期から明治時代中期までの約250年間、多伎町奥田儀を中心に活躍した。本拠となった宮本鍛冶山内遺跡には、本宅跡や石垣、鍛冶場、製鉄に従事した人たちの集落跡などが残る。
 確認された製鉄炉(1号炉)は、本床状遺構と呼ばれる下部構造で幅1.6m、長さ4.8m。採取した木炭を試料に放射性炭素年代測定を行い、15世紀前半と判明した。
 精錬鍛冶炉(2~4号炉)は3基で、製鉄炉の東側に1基、地下に2基を確認、すべて1号炉を壊し構築したとみられる。操業は1号炉と同様、15世紀以降と考えられる。
このうち地上の鍛冶炉は、同市佐田町の檀原遺跡などで見つかった炉と同類で、鉄の不純物を流すトンネル状の排滓(はいさい)孔を持つたという。
 市文化財課は多伎町小田の多伎コミュニティセンターで調査速報パネル展を開く。7月13日~31日まで。
[参考:山陰中央日報、毎日新聞]
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浜松市 伊場遺跡群 遠江国敷智郡の郡家の遺跡が確実に

2008年07月12日 | Weblog
 昭和40年代以降、同遺跡群から7~10世紀の古代木簡が大量に出土し、浜松市が奈良文化財研究所に再解読を依頼していた。解読技術の向上により解読が進み、浜松市教委は総括的な報告書を発行した。
伊場遺跡群では、郡の役所、大規模な駅家(うまや)の施設や軍施設など諸説があったが、再解読では、郡の行政命令や郡内の地名、人名が記載された木簡が多く含まれ、これに対し、駅家や軍団施設にかかわる木簡は少なかったことから、敷智郡家の遺跡であると理解するのが穏当とする。
 奈良時代に、現在の静岡県西部は「遠江国(とおとうみのくに)」となり、その中にいくつかの郡ができた。浜松市中西部付近を統括する「敷智(ふち)郡」の役所が伊場遺跡群の中にあったことになる。伊場遺跡群はJR浜松駅から西南1.5kmのところにある。
浜松市では、伊場遺跡群出土の古代の木簡・墨書土器を集大成したものを『伊場遺跡総括編』として販売している。
[参考:産経新聞、毎日新聞、浜松市]
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