三朝町教育委員会は、奥の院である投入堂(国宝)で有名な、三徳山三仏寺浄土院の本堂基壇の発掘調査を始めた。世界遺産登録を目指す三徳山の歴史解明に新たな手掛りを期待し、地下遺構を確認するのが目的。
昨年から4年計画の本堂の解体修理に合わせて実施。8月中旬までに15m四方の基壇の一部を掘り下げる予定。須弥檀の直下付近にトレンチを入れ、発掘範囲を検討する。
現在の本堂は1839(天保十)年の建築であるが、それ以前は、1688(貞享五)年の造営を記した棟札が残っているほか、1734(享保十九)年の「美徳山三仏寺境内絵図」に草ぶき入り母屋の本堂が描かれている。絵図が正確なら、当時の本堂の位置が現在と異なる可能性もある。
三仏寺本堂は1839(天保十)年の建築。正面10.5m、奥行き11mのやや縦長の仏堂。
[参考:山陰中央新報]
2002年10月4日の記事
三朝町と奈文研埋蔵文化センター、奈良国立博物館は3日、同町三徳山の投入堂に安置してあった蔵王権現立像を年輪年代測定したところ、1025年伐採のヒノキを使ったことが判明、堂の推定建立年代より約70年古い作と判明したため、遅くとも1030年までには初代投入堂が建立されたと見られている。
その前月には、投入堂と納経堂が、部材の年輪年代法による測定で平安時代後期に当たる1076年から1100年ごろの創建であることが判明したと発表していた。
[参考:山陰中央新報]
-開基-
山号は人皇第八代孝元天皇御宇の山号なり 慶雲三年(706)役行者(神変大菩薩)により末代窮伏の衆生を化せんがために金剛蔵王大権現を開顕し蔵王堂を建立せらる 其後、嘉祥二年(849)慈覚大師円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊を安置し、三徳山三仏寺浄土院と称し一山総本堂とし蔵王堂(国宝・投入堂)を奧の院とした。
往古には堂舎二十八、寺三千、寺領一万町歩を領し、建久七年(1196)源頼朝の本願に依り堂舎造営 其後兵火のため焼失
応安二年(1396)足利義満堂舎三十八、坊四十九院を修造寺領二千石寄進 其後も兵火に罹り堂舎多く焼失
天正五年(1577)城主南条元純、寛永十年(1633)国主池田光仲 貞享五年(1688)国主松平綱清、天保十年(1839)国主池田斎訓朝臣堂舎修造し現在に至る(略)
(境内掲示板から)
三徳山標高までの主な堂の標高
三徳山参道入口(標高265m)~本堂(標高325m)~投入堂(標高470m)~三徳山頂上(標高900m)
昨年から4年計画の本堂の解体修理に合わせて実施。8月中旬までに15m四方の基壇の一部を掘り下げる予定。須弥檀の直下付近にトレンチを入れ、発掘範囲を検討する。
現在の本堂は1839(天保十)年の建築であるが、それ以前は、1688(貞享五)年の造営を記した棟札が残っているほか、1734(享保十九)年の「美徳山三仏寺境内絵図」に草ぶき入り母屋の本堂が描かれている。絵図が正確なら、当時の本堂の位置が現在と異なる可能性もある。
三仏寺本堂は1839(天保十)年の建築。正面10.5m、奥行き11mのやや縦長の仏堂。
[参考:山陰中央新報]
2002年10月4日の記事
三朝町と奈文研埋蔵文化センター、奈良国立博物館は3日、同町三徳山の投入堂に安置してあった蔵王権現立像を年輪年代測定したところ、1025年伐採のヒノキを使ったことが判明、堂の推定建立年代より約70年古い作と判明したため、遅くとも1030年までには初代投入堂が建立されたと見られている。
その前月には、投入堂と納経堂が、部材の年輪年代法による測定で平安時代後期に当たる1076年から1100年ごろの創建であることが判明したと発表していた。
[参考:山陰中央新報]
-開基-
山号は人皇第八代孝元天皇御宇の山号なり 慶雲三年(706)役行者(神変大菩薩)により末代窮伏の衆生を化せんがために金剛蔵王大権現を開顕し蔵王堂を建立せらる 其後、嘉祥二年(849)慈覚大師円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊を安置し、三徳山三仏寺浄土院と称し一山総本堂とし蔵王堂(国宝・投入堂)を奧の院とした。
往古には堂舎二十八、寺三千、寺領一万町歩を領し、建久七年(1196)源頼朝の本願に依り堂舎造営 其後兵火のため焼失
応安二年(1396)足利義満堂舎三十八、坊四十九院を修造寺領二千石寄進 其後も兵火に罹り堂舎多く焼失
天正五年(1577)城主南条元純、寛永十年(1633)国主池田光仲 貞享五年(1688)国主松平綱清、天保十年(1839)国主池田斎訓朝臣堂舎修造し現在に至る(略)
(境内掲示板から)
三徳山標高までの主な堂の標高
三徳山参道入口(標高265m)~本堂(標高325m)~投入堂(標高470m)~三徳山頂上(標高900m)